これも杏奈の役目3
大部分を伏せてはいるが、杏奈がそのあたりの対応を買って出ると、今野はふんと鼻を鳴らしてリビングとダイニング、それにキッチンが一続きになった広い空間までやって来ると、ダイニングテーブルの椅子に腰掛けた。
受け答えをしながらもキッチンでインスタントコーヒーを淹れた杏奈は、その三人分のカップをお盆にのせてダイニングテーブルに運ぶ。とそこには、椅子に座らず今野をじっと睨み続ける、達哉の姿があった。
「どうしたんだよ、お前も座ればいいのに」
二人の前にコーヒーのカップを置きながら着席を勧めるが、達哉も達哉で、招かれざる客であるはずの今野を杏奈が部屋へ通したことを、納得していないようだ。
「今から、何が始まるの?」
そう杏奈に問いかける達哉の口調は、普段から誰にでも明るくふるまう彼とは思えないほど低い声で、その表情はいら立ちを隠せないようだった。
「前にも少しだけ話したことがあったと思うけど、わたしの一番の秘密……それにかかわることの話だよ」
形はどうであれ、いつかは真実を話す日が来るだろうと杏奈は考えていた。
それでも、こんな風に突然巻き込むという形ではなく、何気ない会話の中に少しずつ情報を出して行って、その後で打ち明けるつもりだったのだ。
実際には何も準備ができないままこんな事態となっていることに、杏奈は困惑を隠しながら続ける。
「言っただろ、後悔することになるって。こんな形で巻き込むつもりは無かったけど……詳しい話は、後でお前にもするよ」
今はこれしか言えなくてごめん。心の中で謝る杏奈の気持ちはさすがに伝わらなかったのだろう。達哉は杏奈の言葉を聞いても厳しい顔のまま、一番廊下に近い椅子へと腰掛けた。
客の二人の前にコーヒーを置いて、最後に杏奈も椅子へと腰掛ける。
六人がけのダイニングテーブルの片側中央に今野雄大、そして反対側の両端に杏奈と達哉が座り、ちょうど三人で三角形を作るような形になった。
「それじゃ、わざわざこんな所まで来た用件を聞かせてもらえるか?」
「その前に、確認したいことがある」
話を振られた今野はそう言うと、かばんから一つの封筒を取り出してバサリ、テーブルの上に放った。
乱暴に放られた衝撃で、中に入っていた書類の束が外に出てきた。一番上の紙にいたってはほぼ半分が見えるようになる。
その紙には、杏奈の顔写真やスリーサイズ、他にも円グラフと一緒にデータの説明が書かれていた。
チラリと一枚目を見ただけで、杏奈はそれが何の資料なのかすぐに理解した。
杏奈のデータ、須藤祐介のデータ、実験概要の説明資料、具体的な技術を説明した資料、そしてたどってきた実験の道筋とその節目節目に得られた結果……。
それらが物によっては細かく記され、二十枚以上の紙にまとめられているモノだ。
「こいつらが真実かどうか、それをまず聞きたい」
その資料を指さし、今野雄大は真剣な表情で言った。
杏奈はその言葉に、じっと質問者の目を見た。
真剣そのものの眼差しは、この国の闇に隠れた秘密の一部へと首を突っ込むだけのことはあり、一切の揺らぎが無かった。
このセキュリティが固いマンションの一室へ、まるでその部屋の住人であるかのように入り込めるだけの準備をしてきたのだ。そして、日本ではまず手に入れられないはずの銃も携えている。
遊びや冗談という態度ではなく、かなり力を入れて準備をしてきているようだ。
「この資料の、か。そうだな……九十九パーセント以上真実だといえるよ。スリーサイズが今はどうだか分からないけど」
「そんなことはどうでもいい」
「なら……全部本当のことだ」
「そうか。お前の言うことが真実なら、もう一つ確認したいことがある。他の実験体や被験者に関するこの手の情報は、どれくらい残っている?」
「他の人の情報か。わたしの情報以外では……」
杏奈はそこまで言うと、この後をどう続けたらいいのか迷い、一度言葉を切った。
何しろこの資料は、今はすでに行われていないいあの研究の情報を求める者たちの目が、杏奈のほうへと集中するように作られたもの。内容自体に偽りはないが、これしか残すつもりのなかった研究所側は、他のすべてを削除しているのだ。
今野は本題の前に確認したいと言っていたが、むしろこちらの方が重要だというように真剣な顔をしている。
少し考えてから、その期待に応えられないことを率直に伝えるため、杏奈は口を開く。
「紙もデジタルのデータもあわせて、何も残ってない」
「なっ……残っていない……? 『何も』とは、誰一人としてということか?」
困惑したように質問を連ねる今野の言葉に、杏奈はただ一度だけ、首を縦に振った。
「なぜだ。お前のものはこれほど詳しいものが残っていて、どうして他のデータは残っていない?」
「わかるように説明するには、まず……そもそもこの資料がどうして作られたのか、それを話すことになる」
「そんな言い訳は必要ない。データ自体、最初から無かったのか? それとも消したのか?」
「すべて破棄されたんだ。研究が中止されたことで、その存在を無かったことにするために」
「だが、これは残っているぞ」
「たった一人分の資料で誰が研究の存在を信じると思う? これだけ見せられたとしても、イタズラやテレビ番組の創作資料にしか見えないはずだ」
今野は現にこうしてここまで押しかけてきているが、彼だってこの資料を見ただけでこんなことをしてはいないだろう。
あの日、学校で初めてすれ違った時。今野は杏奈を見てニヤリと笑っていたが、それは、信憑性の低い資料に載った人物が実在していたことで研究の存在を確信したから、ではないだろうか。
もしくは、どこかで「如月杏奈は神海高校の生徒だ」という情報を得て、それを確かめに来たのかもしれない。
そもそもこれを手にしている時点で、かなり危ない橋を渡っているはずなのだ。
軽率な行動をしたり粗末な判断をするような人間が、杏奈のところまでたどり着けるとは思えなかった。
「……確かにな」
つぶやくように今野はそう言った。
気持ちを落ち着けるためか、コーヒーの入ったカップに口をつける。
「ならば、もはや有益な情報が手に入るとは思えないが、ダメ元で一応、訊いておくことにする」
とんだ茶番だったと思ったのかもしれない。
今野はそれまで見せていた真剣な表情を消すと、一気にやる気のないものへと変化させた。
「なんだ?」
「お前のような実験体は全部で何人いた?」
「二十四人。うち九人が研究中止までに死んでる」
「……。百分の一にすら届かない、か」
「というのは?」
「これだ」
バサリと、今野は二つ目の封筒を取り出してダイニングテーブルの上に投げた。
その封筒にも、何百枚もの紙が入っているらしく、それなりの分厚さがあった。
今野は、とんとんと封筒を指で叩きながら、変わらない口調でつづけた。
「ある時期に突如、日本から姿を消して現在も行方不明のままになっている人間の名簿だ。二千五百人以上になる」
「……? それが?」
「ある時期とは、去年の年明けから年度末……つまり、同年の三月末までに行方不明となった人間の数だ」
「……!」
「大半が事件として報道されていない捜索願届だがな。警察の管理情報としてサーバーに登録されている分のみだが、たった三か月でこれだけの人数が忽然と姿を消して現在も戻ってきていない。俺の探している人間もこの期間中にいなくなった」
年間でいったいどれだけの捜索願が出されるのか杏奈は知らないが、確かにこれは多すぎると、誰だって思うだろう。
「……全員が、この研究の被験者としてさらわれたと言いたいのか?」
「そうは言わない。単なる家出だったり、もしかしたら海外へ高跳びしたヤツや、未確認飛行物体にでも招待されたヤツがいる可能性だってゼロじゃないだろう」
「かも、知れないな」
「それでも」
口調を強めた今野は、最初に取り出した封筒から資料の紙束を取り出すと、その二枚目を開いて杏奈の前に置いた。
それは、須藤祐介の生前のプロフィールが書かれているページだった。
「お前の元となっている記憶の持ち主は、これによると二月の中頃にトラックに轢かれて死んだらしいな。その後、研究所に運ばれて記憶を抜き取られた」
「……」
「この時期に研究所へと集められた人間が、この少年と同様に記憶を抜き取られたのだろうってことはすぐに想像できる」
気持ち悪いなと、杏奈は思った。
ワザとではないのだろうが、今野は須藤祐介と如月杏奈をまるで別人のように扱っている。
もしかしたら、実験に関する資料をちゃんと全部読んだうえで、二人が全くの別人だと彼は結論付けたのかもしれない。
しかし、杏奈にしてみれば須藤祐介の記憶ははっきりと自分の中にある「過去」の記憶で、自分は須藤祐介と強いつながりがあるのだと心のどこかでは思っている。
それなのに口に出して「別人」のように扱われると、自分という存在が否定されているようで、嫌悪感が込み上げてきたのだ。
「そこでまた一つ質問したい。お前以外の実験体の元になった被験者たちは、今も生きているのか?」
「そのことはわたしは知らされていないし、資料にも書かれてない。でも……個人的な推測でよければ、話すことはできる」
「それで構わない。聞こう」
「……」
しかし、今感じている気分の悪さは、それだけが原因ではなかった。
これまで杏奈は、自分のことだけしか考えていなかった。一人の実験体として研究に使われているという、非日常的な状況に置かれていた頃は自分のことを人間だと思っていたかどうかすら怪しい。
ところが今は状況が違う。一人の人として普通に生活ができるようになって、他の人たちやそれこそ同じ実験体だった明日香たちにも意識を向けることができるほどの余裕が生まれてきている。
こうして今野から具体的な「被験者となったかもしれない人数」が出されると、否が応でも自分以外の人たちのことも考えてしまうのだ。杏奈以外の実験体たちが『前世』の記憶持つことが、どういうことなのかを。
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