これも杏奈の役目1
五月というと、高校一年生にとってはまだまだ高校生活が始まったばかりという頃で、その日常にもようやく慣れてきたかどうかなのだが、そんな時期に早々とバスケットボール部を『引退』した達哉は、休日が実に暇になっていた。
かと言って暇を潰すためにどこかでナンパをする気は無い。何せ、達哉には如月杏奈という恋する相手ができてしまったのだ。
たとえこの気持ちを受け入れてもらえていなくても、自分の気持ちが冷めていない今、彼女に一途でありたい達哉としては他の女子と遊びほうける訳にはいかない。それに、以前付き合っていた恵里子を失ったあの日に誓った、大切な人は絶対に一番にするという決意もある。
これまでの達哉は、まさかこの決意を本当に体現したい誰かが現れるとは思っていなかった。今まで受けたことのない大きなショックを体験して、こんな気持ちになるならもう大切な人なんか作りたくないと思うほどのトラウマを背負ってしまったのだ。ちょっとやそっとの出来事で、この気持ちが覆ることはないと思っていた。
しかし如月杏奈という少女と出会ったことで、あの時抱いたある種決心にも似た思いに、たったの一年半程の時間でヒビが入り始めていることに気づいたのだ。
そして先週の杏奈とのデートで、「この人が自分にとって大切な人だ」と知ってしまった。自分の人生で二度目の恋に落ちてしまったのだと、確信した。
とても深い恋を煩ってまだ六日。
懲りもせずまた大切な存在を作ろうとしている単純な自分に呆れている部分がある一方で、またあの子とデートしたいと思っているのも事実だ。しかもかなり強い気持ちになってきているにもかかわらず、今日は暇な休日にしては珍しく午前中から用事があり、それを片付けて気がついてみれば二時を過ぎるような時間になっていた。
今からでも誘ったらあの子は付き合ってくれるだろうかと、達哉はエレベーターを三階で降り、一号室のある方へと廊下を歩いている。
と、そこへ。
廊下の一番奥にある階段から髪を茶色に染めた男が一人上ってきて、一番奥にあるくぼみの空間へと消えて行ったのだ。
一室一室の入り口であるドアは少しくぼんだ所にあって、住人によってはそこに傘立てを置いたり自転車を置いたりと、私物置き場に使っている。
階段を上ってきた男が入っていったところが、今まさに達哉が目指している一号室のドアの方というわけだ。
つまりは、彼は先客ということになる。どう見ても宅配業者の人間には見えなかったあの男が、すぐに帰る可能性は低いように思える。もし杏奈の都合が付かないのであれば、潔く諦めて帰るつもりだ。しかし、一応確認してみるのもいいだろうと、達哉はそのまま前に歩き続けた。
そして。達哉が「おかしい」と思ったのは、杏奈が住んでいる部屋の一つ手前にある二号室の玄関前を通り過ぎた辺りのことだった。
前方から、ぴぴっという音とガチャッと鍵の開く小さな音が聞こえてきたのだ。
住人が玄関を開けるために必要な一連の動作が行われた。それを示す音なのだが、達哉は何故かそれに違和感を覚えた。
普通、来客があったのであればドアのロックは内側から開ける。その時、聞こえる音は鍵の開く音だけ。つまり、ガチャッと鳴るだけのはずだ。
それが、直前にぴぴっと鍵と指紋を認識する音がした。
外から鍵を開けるのはどういう場合か。当然、部屋の住人が帰ってきて、鍵を開けるときだ。
しかしそれはおかしい。
先週杏奈としたデートの中で、彼女は確かに「今は一人暮らしだ」と言っていた。つまり、あの部屋に出入りをしている人間は、杏奈の他にいないはずなのだ。
いくらマンションの入り口がオートロックで、部屋の入り口のドアに鍵と指紋認証が付いた固いシステムだからと言って、女が一人暮らし宣言するのはかなり危険だ。現に、彼女に好意を抱く達哉は、その情報を覚えてしまっている。
もちろん、しめしめイタズラしてやれ、などと考える達哉ではない。しかし、その情報を彼女が口にしたのは、緑ヶ丘商店街内という不特定多数が聞いていてもおかしくない場所でだった。達哉以外の誰かが、彼女に対してよからぬことを企む可能性も、ゼロではない。
……と、最悪の状況を考えてみたところで。
部屋の入り口のドアを開けるためには、鍵と『指紋認証』が必要なのだということをもう一度思い出す。
玄関を開けるための指紋認証は住人が自由に行えるが、そのためには一度部屋の中に入らなくてはいけないシステムになっている。
だとすれば、今ドアの鍵を開けた人物は、あのドアに既に指紋登録をしていることになるのだ。
普通に考えれば、「今はあの部屋で生活していない」身内の誰かということになるだろう。そう、彼女が今は一人暮らしだったとしても、これまでも一人だったとは限らない。このマンションは建ったばかりだが、あの部屋を買う契約をするには流石に保護者が必要で、その人物の指紋を登録していても、何も不思議はないではないか。
一秒ほどそんな考えを頭の中でめぐらせた達哉は、ふぅと小さく息を吐いて、歩を進めた。
つい、自分が過去に経験したストーカー被害の影響で、こういう時の考え方が物騒になってしまうのだ。
直さなければと思いながら、達哉は一号室のドアの前へと進もうとし……。
「……?!」
目を見張った。
閉じようとしているドアの向こう側には、頭にすっぽり黒い何かを被った先ほどの男の姿があったのだ。
黒のニット帽を被っていたのではない。さっきハッキリと、少し離れた場所からではあるが逆立った茶色の髪が正面から見て取れた。
この部屋の関係者であれば、わざわざ入る前にそのようなものを被るはずが無い。百歩譲って、脱ぐならまだしも。
もしその男が侵入者だとするなら、なぜドアのロックが外れたのかは分からない。
しかし明らかに怪しいと思われる人物が杏奈に近づいているとなれば、男として、そして彼女に好意を抱く者として放って置けるはずも無かった。
達哉は閉まりかけのドアに飛びつき力強く再び開けると、驚いて振り向いたその男に、迷わず掴みかかった。
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