本音をぶつけ合える仲5
ところが、明日香の感情はまた別のところからやってきていた。
いや、お互いの前提がうまく噛み合っていなくて、どうやら明日香がかなり早とちりをしている状態らしい。
杏奈からしてみれば、楠本から告白されたという事実を伝えた後、「多分」とか「はず」とか、彼の気持ちを推測しかできていないことが分かる言葉を使ったことで、あの男と付き合っていないことが彼女に伝わっているだろうと思っていた。
「……いや、断ったけど」
だからつい、少しぞんざいな口調でそう言ってしまった。
しかし明日香はそういった部分を疑問に思うことはなく、杏奈が楠本と恋人になったとばかり思っていたのだろう。
もっとも、杏奈は彼の名前を口にする前、あれだけ渋っていたのだ。
それを「恋人ができたことを恥ずかしがっている」と受け取られたとしても、仕方がないことだろう。
「うん、それでもね……。え、なに? ことわ、たの?」
とはいえ明日香は、一瞬杏奈の言葉を聞き流しそうにはなったものの、その言葉でようやく自分の勘違いに気づいたらしい。
「そうだよ、ことわ」
「何でっ? だって楠本財閥の一番偉い人でしょ! 日本一なんだよ!」
となれば今度は、杏奈の行動が信じられなくなったのだった。
「付き合うってだけなら良いんだけど、近いうちに婚約って話まで行きそうで」
「良いじゃない、ちょーお金持ちと婚約! そんなのドラマでしか見たことないよ、羨ましい!」
明日香自身は楠本達哉というイケメンで億万長者の男に、そこまで魅力を感じていなかったようだ。おそらく、先ほど「遊ばれてる」と言ったように、どこか女遊びしていそうという空気を感じ取っていたりするからだろう。
とはいえそんな心配が杞憂だったとなれば、やっぱり羨ましくなるのが女心のようだ。
「羨ましい、かな?」
「羨ましいよーっ。決まってるじゃない!」
杏奈からすれば、まだまだ自分は心まで女になれていないという認識だ。この話を「羨ましい話」と思えないと女らしいとは言えないのだろうか、と少し疑問に思ったのだが、
「えー、でも何で断っちゃったの? 好きなんでしょ?」
一方で明日香は、羨ましいという気持ちが本当に心の中に存在しているのか怪しくなるほど、次の瞬間には気持ちが切り替わっていた。
スマホのスピーカー越しにその声を聞いた杏奈がそう感じるくらい、彼女の声はむしろ今の方が興味津々、といったものに変わっているのだ。
「すっ、別にあいつのことは好きじゃないよ」
それに不意をつかれたというわけではないのだが、杏奈は一瞬声がひっくり返りそうになりながら、それを隠すために低めの落ち着いた声を出すように意識してしまった。
とはいえ、長いようで短い付き合いのはずの明日香には、
「ええ~? 今も言い直してるし、声もなんか元気ないし。ホントは断ったの後悔してない?」
その誤魔化しは通用しなかったのだが。
「後悔はしてないよ。ただ……」
となると、こうなってしまったのは仕方がないと割り切るのが杏奈だった。
「うん」
「体が変に熱くなるのはやめて欲しいんだよな」
むしろ、晶たちには色々な意味でこの手の相談ができないのだから、今ここで明日香に話してしまうのが良いのではないか。そう思って切り出したのだが、
「……。それってやっぱり好きってことじゃない」
生まれて十六年近く、これまでずっと女の子として生きてきた「女子の先輩」である明日香は、杏奈がそれなりに勇気を出して口にした相談を、ばっさりと切り捨ててしまった。
「いや、すごく近づかれるとって話! 普段は大丈夫なんだって」
しかしそんなことを言われても、杏奈としては納得できない。
何せ彼女は、つい二年ほど前までの「前世」では男として生きていたのだ。
普通の男子とは違い、幼馴染だった七海を始め複数の女子に囲まれる(男としての自信を失う)機会が多かったとは言え、男としての「欲求」がゼロだったわけではない。道行く同年代の異性に対して、その手の感情を抱いた経験だって当然何度もある。
とはいえ、それは男である以上宿命のようなもので、自分の理性で抑え込むしかない「生殖本能」だ。
そんなものは「恋愛感情」なんて呼べるものではなく、それに届く二歩も三歩も手前の状態。それを相手に押し付けようとすれば、それこそ性犯罪者になってしまう、と杏奈は思っている。
今の彼女が抱いているものがそれと似ているような気がして、またきたのか、とウンザリしてしまうほど「面倒くさい」ものだった。
とはいってもこの二年間、色々な場所で色々な異性(男)を目にしてきて、こんな気持ちになるのは楠本が初めてだった。ついこの間のあの瞬間まで、女だとああいうことが無くてすごく楽なんだ! と感動すら覚えていたのに。
だから、明日香はどうなのかと訊きたかっただけなのだが……。
「そう言ってるけど杏奈、康太が同じことしてきたって考えたら、ドキドキするの?」
「康太と? しないっていうかやだよ」
なぜか、康太を話の中に持ち出されてしまった。
研究所で生活していた頃、実験体として同期だった男子の一人ではあるが、あの頃はもう完全に女子もどきだったため、あいつには「同性の友達」という認識を持っているくらいだ。
ハグという習慣がほぼ存在しないこの国で、そんな相手に抱きしめられたいかなんて訊かれたら、想像しただけで嫌だと思ってしまう。
「じゃあ達くんとだったら?」
ところが明日香は、杏奈の答えを聞いても特に何の反応もせず、むしろそんなことはどうでも良いと言うように、次は楠本の名前を出すのだった。
要するに「楠本達哉に抱き寄せられるところを想像したら?」ということだ。
引き寄せられて密着する体。頭と背中に回される腕。伝わってくる体温や匂い……。
「んんーっ! そっちも想像したくないっ」
そんなことを想像なんてしたら、またあの火照りがやってきてしまう。耳と頬が熱くなったのを感じた杏奈は、頭の中に浮かんでいた楠本を無理矢理意識の中から消し去って声を上げた。
語尾の口調が強くなってしまったが、それは明日香に「変な想像をさせるな!」という抗議のつもりだったのに、
「うっふふふふふ。杏奈可愛くなってるー! それ、完全に恋する乙女!」
なぜかからかうような言葉で返されてしまった。
「何でだよー。体が勝手に反応するだけじゃないか」
杏奈からしてみれば色恋沙汰ではないものの、女はみんな、男が絡む話を聞けば全部そういう認識になるのかと、少し失望してしまう。
こんなことなら話さなければ良かった、とさえ思うほどだ。
「えー、恋なんて始めは皆そうだよー。想像すると、気持ちは大丈夫なのに体が変な風にドキドキしてきて、枕に顔押し付けたくなっちゃうの」
しかし、確かに明日香の口調はからかうものだったが、話している内容は真剣そのものであり、彼女の中の「恋の常識」だったようだ。
彼女の言う「皆そう」というのが、女は皆そうだと言っているのか、それとも明日香にとって恋の始まりはいつもそうであると言っているのかは、杏奈では判断ができなかったのだが。
いや、それでも元男としては今の明日香の言葉には反論したい気持ちが湧いてくる。
「それ、男も恥ずかしい失敗を思い出した時とかになる気がする……」
男だった頃、特に女装させられるのに慣れていなかった頃は特にこういった感情に苛まれることが多かった。
「女の子は恋でそうなるの。だから、杏奈も絶対恋してるのよ!」
しかし明日香は女の子。今の杏奈には、そこまで言われるとさすがに納得するしかない。
逆に、彼女の言うことを信じるのであれば、
「そう言う明日香だって、康太に優しくよしよしされるとこ想像したら、なるじゃないか」
明日香にとってはその対象が康太ということになる。
初めて会った頃からこの少女は、康太に褒められると一瞬思考が停止して、かと思えば顔を赤くしてそっぽを向いてしまうのだ。
康太自身がほとんど明日香を褒めることが無いため滅多にあることでは無かったが、たまにそんな言葉をかけられると、「照れている」という表現では少し足りないような態度になっていたのだから。
ただ、杏奈は頭を撫でるところを例に出したものの、彼女の知る限り、康太が明日香の頭を撫でながら褒めていたことは一度もない。
彼曰く、
「あいつを子ども扱いしたら、どんな仕返しされるか分からないだろ?」
だそうだが、
「ちょ、なっ!? よしよしって子どもかっ」
そんな場面を想像したであろう明日香がこんな風に照れ隠しの言葉を言ったということは、康太の予想は当たっていたのだろう。
ただ、明日香が心の中では受け入れるだろうと杏奈は予想していて、康太の言うことも、半分は間違いということにもなる。
「ほらなった。声高くなってる」
しかも彼女がこれほど慌てたような声を出したとなれば、杏奈の予想も当たっていたわけだ。
こうしてみると、杏奈と明日香の二人は恥ずかしがり方がかなり似ているのだが、それは杏奈が以前から明日香のそういった様子を何度も見ていたから、無意識のうちに同じ反応をしていたのかもしれない。
「くぬぅ~~っ! もー、何で今の流れであたしが杏奈に負けてるの。あり得ない……」
明日香からしてみれば、乙女の恋心を知らない杏奈を一方的にからかえると思っていたのか、予想もしていなかった反撃を受けて、すっかり落ち込んでしまっていた。
「あははっ。まー明日香も分かりやすいからな」
さっきまで明日香の恋愛感情がどんな風に現れているのかは分かっていなかった杏奈だったが、自分から説明してくれたのだ、流石にこれまでの彼女の言動を思い返してみれば、すぐに分かってしまうことだった。
今のは完全に明日香の自爆である。
それにこれは、単なる仕返しだけではない。有耶無耶になっているが、杏奈はまだ自分が楠本達哉に対して感じているものが恋愛感情だとは信じきれていなかった。もしそうだったとしても、自分たちの間には障害が多すぎてとてもではないが付き合えるような関係ではない。そう思っているのだ。
だから、状況が今のまま続く限り、彼が何度気持ちを打ち明けてきても断り続けるし、そもそもその状況がひっくり返るとは杏奈自身思っていない。
まだ心の奥底に小さく引っかかるものを感じながらも、このまま話題のスポットを明日香の気持ちに当てて、逃げ切ってしまおうと思う杏奈だった。
「むぅ……。でも杏奈考えてみて。康太に女の子の頭撫でるスキルなんて無いわよ」
「それは思うけど、明日香はされたいんじゃないか?」
「されたいわよっ! いっつも色々頑張ってるんだから、もっとあたしを褒めろって言いたい!!」
ところがそのまま話を進めてみると、明日香が康太に抱いている気持ちは意外にも恋愛感情だけではないらしく、不満もあるようだった。
彼女の言う「色々」が何を指しているのかは分からないが、こうして自分から頭を撫でて褒めて欲しいと言うくらいなのだから、かなり色々な負の感情エネルギーを溜め込んでいるのかもしれない。
「よしよし、明日香は頑張ってる。偉い偉い」
電話越しである以上は物理的に頭を撫でてあげることはできないし、杏奈にそんなことをされて明日香が喜ぶかなんて分からないが、普段の苦労を労ってあげることはできる。
おふざけ半分というノリも混ぜながら声をかけると、
「わーん、ありがと杏奈。……でもあたしより家事してる人に言われても複雑」
「あっははは。全く、我儘だなぁ」
向こうもそのまま受け取るのは違うと思ったのか、それとも「家事」という単語が出てきたように普段している家の手伝いのことだけに対する不満なのか、明日香の声はは唇を尖らせているようなものだった。
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