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杏奈さんは少女初心者  作者: 秋瀬 満月
杏奈さんの懸念と秘密
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瀬川葉月3

 ところが、そんなほっこりした気持ちが一瞬で冷めるほど、彼女の次の言葉は軽くなかった。


「葉月ね、大袈裟じゃなく人生かかってるから」

「人生……?」


 聞き間違えたということはない。ただ、普通の女子高生の口から、こういう話題の途中で出てくる言葉だとは思っていなかったのだ。そこに驚いて、つい訊き返してしまった。


「うん、人生かかってるの。あの子ね、和戸池(わどち)の県知事してる人がお父さんなんだけど、そのお父さん、県知事やる前は議員さんだったんだ」


 そして続くのは、恐らく周知の事実なのであろう葉月の身の上話だった。しかしそのことを杏奈は知らなかったし、誰も彼女が県知事の娘だからと媚を売っていなかったし、葉月自身もそんなことを話していなかったため、全く予想していなかった。


 とはいえ達哉という存在を知っているため、偉い人の身内となる人がいるところにはいるものだ、というのが杏奈の感想だった。


「でさ、そういうお家って結構厳しいみたい。親に勝手に結婚相手決められたくなかったら、自分で早く決めなさいって言われてるんだって」


 しかも、どこかで聞いたような話まで飛び出してきた。高貴なお宅はどこも早いうちから自分の子どもに結婚を迫るような風習がこの国にはあるのだろうか、と思ってしまう。いや、一度も海外に住んだことはない杏奈だが、国内でそんな話は全く聞いたことがない。


 もっとも、彼らのように権力のある人種と関わる機会が出てきたのはこの躰になってからなのだから、今まではそういう「常識」を知ることがなかっただけなのかもしれないが。


「知ってる? 達くんのところって楠本財閥の関係者じゃないかって言われてるんだけどね、葉月はそれくらいの人じゃなきゃ結婚したくないみたい」


 もちろん杏奈はそのことを知っているが、当然「知っている」とは答えられない。加えて、そういった情報が少しでも流れていることに驚いたものの、火の無いところに煙は立たないと言われるくらいだ、仕方のないことなのだろうと思うことにする。


「楠本財閥の関係者? でも財閥の関係者ってみんな名字が同じってことはないんじゃないのか?」

「そだよー。楠本財閥の中で楠本って苗字の家は二十三しかないんだって! でも日本には何千軒も楠本って苗字の家があるし、財閥の人? って訊いても絶対笑われちゃうけどさ。でも、達くんにはそういう噂があるの」


 シラを切って質問してみたが、結花は「噂だよ、噂」と絶対ではないことを強調していた。


 どうやら他の力を持った家についても世間では色々と噂が流れているらしく、あれこれと教えてくれた。

 しかもその中には、こっちのお金持ちのご令嬢が誰にご執心だとか、あっちのお金持ちのご長男は女遊びが酷いらしいとか、そっちのアイドルの豊胸手術は誰々が担当したとか、かなり怪しい上に未確認情報としか思えない噂も数多いようだ。


 そして、楠本財閥当主家は不気味なくらい煙が立たないという噂もあるらしい。


「財力があるんだから揉み消せる範囲も広いって言われてるけどさー、なーんにもないんだって。なーんにも」

 とは結花談である。


 それには杏奈も「へぇ……どうなってるんだろうな」と生返事を返すしかない。その声からは一段と抑揚が抜け落ちていたのだが、もともと他の話も信憑性が薄いと思って聞いていたため、あまり返事に熱が入っていなかった。恐らく結花には、他の話への相槌と違うところがあったことは見抜けていないだろう。


「今の話、ナイショにしてねー。じゃないとわたしが折檻されちゃうから」


 そして結花は最後に、冗談っぽくこう締めくくった。


「折檻って……誰に?」

「そりゃもう、こわーいお代官様に! あ~れぇ~お助けぇ~」


 かと思えば、微妙に間違った知識によるものか、帯を引っ張られたわけでもないのにくるくると回り始める彼女。

 単に小声の会話が続いていたため、雰囲気を和らげるためにしている一人コントにも見えるが、これでは悪代官は確実に杏奈ということになってしまう。


 しかも、結花のスカート丈も杏奈に負けず劣らずの短さで、それなのにフィギュアスケートでもやっていたのかという勢いでくるくる回り続けているものだから、下着が丸見えになっている。


「……目が回らないのか?」

「えへーぇ、なんか楽しくなってきたー」

「スカート」

「やーん、えっちーぃ」


 スカートの中が見えているのは自覚があるようだ。しかしここには元が男だったとはいえ現在は少女である杏奈しかいないため、結花の暴走は下着が見えているくらいでは止まる気配がない。


 ただ、残念ながらここは誰でも来ることができるオープンなスペースであり、まだ四組の教室内には楠本達哉というイケメン男子が残っている。

 それ以前に、目が回ってフラフラになられても困る。そろそろ止めようと思い杏奈が声をかけようとした、その時だった。


「どうした……の?」


 結花が「えっち」と言った声が聞こえて様子を見に来たのか、それとも帰る準備万端であるところを見るとただ単に解散した後だったのか、教室から出てきた達哉がこちらを覗き込んで、固まってしまった。


 結花がスカートの中に身につけている、ピンクのレースで少し際どいラインをした、エロくもかわいい下着をバッチリ目撃したのだろう。


 そして結花が達哉に気づいて今度こそ本物の「ひゃっ」と短い悲鳴を上げる。と同時に止まろうとして……足をもつれさせ、

「わっぶ」

 と女の子らしからぬうめき声と共に倒れてしまった。


 どうやら相当目が回ったらしく、起き上がろうにも頭が右に左に揺れていてなかなか起き上がれていない。


「えっと……大丈夫?」

「だ、だいじょう……ぶ」


 達哉が声をかけると、まだクラクラしているらしい結花が力の入らない弱い声で返事をする。杏奈は仕方なく、彼女の頭の揺れが収まったのを確認してから助け起すことにした。


 先ほどの会話にあったイケメンと黒歴史という二つの言葉がうまく繋がっていなかった杏奈だったが、結花がその身をもって実演してくれたおかげで、成る程合点がいった。こんな風に自爆ばかりしでかしてきたわけではないのだろうが、似たような恥ずかしい出来事が何度かあったのだろう。


 人に話したくないと思うはずだ。


「うぅ……達くんにパンツ見られたぁ」


 杏奈に両手で支えられながら立ち上がった頃になると、だいぶ落ち着いてきたらしい。自業自得とはいえ、若干の嘘っぽさが混じる泣きそうな声で言いながら、結花は俯いてしまっていた。


 下着を見られたとはいえ、杏奈からすると達哉が顔をのぞかせてから結花が倒れこむまで、ほとんど間がなかった。顔を背けるだけの時間もなかったくらいの事故レベルだったのだ、ここで達哉を責めるのは流石に筋違いだろう。


 それを結花も分かっているのか、

「あーんもー、カバン取ってこよー」

 恥じらうどころかむしろ諦めたように言いながら、杏奈の支えから抜け出して歩き始めた。その背中はしょぼんとうなだれているが、どこか、この手のハプニングに慣れているような雰囲気が漂っている。


「達くん、結花が見つかんないの。戻って来るまで……ってあんた、どうしたの?」


 そこへ遅れてやって来た葉月が元気のない姿で歩いてくる友人を見つけて驚いたのだろう、怪訝そうな顔で問いかけた。


「パンツ見られちゃったぁ」

「またぁ? もー、とりあえずカバン取って来て、帰るから。……達くんごめんね、もうちょっと待ってて!」


 葉月にとって結花の返事は、「ちょっとヘマした」くらいの話のようだ。特に心配する様子もなく、逆に容赦なく行動を急かしている。彼女の恥ずかしいハプニングを目撃した杏奈からすると可哀想になる扱いだが、恐らくあの子は晶と似たような存在なのだろうと思いなおす。


 つまり、真剣に付き合おうとするとこっちが振り回される、そんな人種だ。


 現に杏奈も今、ものすごく振り回されて疲れだけが残ったような状態になっている。

 最後のは一体何だったんだろうと思うと、ため息が出てくる。


「なんか、嵐みたいな子だね」


 そのため息が聞こえたのだろう、葉月たちに取り残された達哉が、苦笑いを浮かべながら言う。


「ホントだな。下手すると晶より酷いかもしれない」

「あはは、言えてるかも」

「お前はあの子とも知り合いなのか?」

「二回くらい遊んだことがあるだけだよ。あんまり気を許してくれないタイプの子だと思ってたけど……違ったんだね」


 イケメンは怖いと言っていた結花だったが、達哉と出会った時にはもうその恐怖心があったようだ。彼曰く、二回のデート中は一緒にいてもずっと緊張していて、話し方も固い女の子だったという。


 もっとも、葉月と学校で仲良く話しているのを何度も見ていたのだが、今のような「失敗」をしているところは初めて見たそうだ。


 なんともいたたまれない気持ちになってくる。


「……あ、もう五時過ぎてるのか。今日はもう帰るよ」


 なぜかまたも落ち込んできた気持ちを吐き出すために深呼吸をして、そういえばと思い至って時計を見てみれば、既に五時を十分近く過ぎた後だった。


 ちょうど達哉との会話も一区切り付いている。買い物を手早く済ませて、その後は家でゆっくりしたいという気持ちが大きくなって来た杏奈は、彼に「もうそろそろ」と暇を告げる。


「オレは葉月ちゃんたちと帰るけど、杏奈ちゃんも一緒にどう?」


 杏奈と結花が会話をしている間、葉月が達哉とどんな話をしていたのかは分からないが、どうやら今日は一緒に下校する約束を取り付けたらしい。結花の話を信じるのであれば人生がかかっているという葉月も、かなり必死なのだろう。


 そういう意味では達哉もほとんど同じ境遇なのだから、彼女と仲良くすればいいのにと杏奈は思う。しかし彼はそう思っていないのか、杏奈も下校メンバーの輪に加えようとお誘いをかけてきた。


「悪い、今日は寄らなきゃいけない所があって、真っ直ぐ帰らないんだ」


 しかし今日の彼女は嘘でなく、生活に必要な買い物という用事がある。そのことを伝えると、寂しそうに「それなら仕方ないね」と達哉は言った。


 壁に立てかけておいたリュックサックを背負った杏奈は、達哉に「じゃあまた明日」と挨拶を投げかけて、階段へと足を向けた。


 そのまま真っ直ぐ学校を出て、途中まではいつも通りの通学路を歩いていく。しかし今日は直接大通り沿いのスーパーへと向かうため、多くの車が行き交っているその通りに出たところで曲がり、それに沿って歩き始める。

 ここまでくればあと少しで店に着く。その前にもう一度、夕飯と明日の朝昼の献立をおさらいしておくことにした。


 先程考えてから少し時間が経ってしまったし、間に色々と印象の強い出来事が挟まってしまっているのだ。おまけにタイムセールには間に合わなくなってしまったが、それでももう一度しっかりと思い出して、買い忘れが無いようにしなくてはいけない。


 杏奈は頭の中のメモ帳に、しっかりと、必要なものとあると嬉しいものを洗い出していく。


 そして準備万端スーパーに到着した頃には、予想通り、店の中にはタイムセールが行われていた痕跡すら残っていなかった。


 しかし、そんなことは気にしない。


 今日は色々と疲れることが多く発生したからか、濃い味でしかも美味しいものが食べたい気分になっていた。その気持ちに押されて、メインの牛丼には普段のタイムセールでは値引きされないような高級肉が置かれているエリアの、少しお高い肉を買うことにしたのだ。


 他にも冷蔵庫の残りでは足りないであろう野菜や鳥のササミ、そしてもうすぐ無くなりそうな卵や弁当のおかずに使えそうな食材をカゴの中へと入れていく。


 結果、この日の夕食の主役となる牛丼は杏奈にしては珍しいなかなか贅沢な一品となり、たまった疲れを忘れるのに十分なものとなった。

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誤字脱字などの指摘もありましたら、

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