瀬川葉月1
「では交流会実行委員の打ち合わせは以上で終了する。諸君、来週火曜日の放課後は十五時半の集合だ、忘れずに集まってくれたまえ」
すでに生徒会定例ミーティングは終わっていたのだが、その後には交流会の実行委員になったメンバーを集めての、二つ目の打ち合わせが行われていた。しかしそれも、会長による締めの言葉で今しがたようやく終了したのだった。
交流会の実行委員になってしまった以上は仕方がなかったものの、予想よりもかなり時間が遅くなってしまっている。いつも杏奈が買い物に出かける時間が近づいているのだ。
学校にはリュックサックで来ているのだが、その中に買い物に使えるような大き目の袋は入れていない。
普段通っているスーパーは、最近のビニール袋を削減する流れに漏れずレジ袋が有料になっている。エコバッグを取りに帰れば大きいレジ袋一枚分の五円を節約できるが、タイムセールには間に合わない。対して、五円を犠牲にすれば学校からならセール時間に余裕で間に合う。
この場合、どちらを優先するべきか。……なんてことは、考えるまでもない。
セールに遅れれば割引の食料品がいくつも買えなくなってしまい、余分な出費が五円で済まなくなるのだ。
学校からスーパーに行くのであれば時間的な余裕はまだあるものの、杏奈は既に臨戦態勢と言わんばかりに視線を少し鋭くして、心なしか歩く速度が普段より早くなっている。
精神的な疲労がたまった会議の後とは思えない姿だ。
「あーあ、疲れたね」
対して達哉は、気が抜けたというように少しだらけた表情をしていた。
普段は油断なく気を張り詰めているのだが、杏奈の近くではだらけても良いと判断すれば途端にだらしなくなってしまう。それがここ最近の彼の行動パターンとなっている。
達哉のファンが見れば「彼の意外な一面ゲット!」と思うのだろうが、以前の張り詰めっ放しだった達哉の姿をほとんど見ていない杏奈からすれば、早くも見慣れつつある楠本達哉の平常運転状態だ。
「今日の会議は長かったからな。実行委員の打ち合わせもあったし」
「まあ、なっちゃったんだから仕方ないね」
「そだな。……でも良かったのか? 遊ぶ時間が欲しいって言ってたけど、交流会の本番は土曜日だぞ」
「え? ああ、あれね。杏奈ちゃんと一緒に仕事するってことなら大丈夫だよ」
そして、何のアピールか分からないこんな言葉を平然と口にするのも、やはり杏奈から見れば彼の平常運転だ。
疲れたと言ってはいても、おそらくそれほど参ってはいないのだろうということも分かる。
そんな彼の姿に、せっかく気持ちのギアを切り替えた杏奈も、つられてスローペースになっていた。
「そーですか」
とつぶやく彼女の言葉が、呆れて気の抜けたものになってしまったほどだ。
小さくため息を一つ吐いて、どうにも狂ってしまった調子をもう一度整えなおす。
今から行けばスーパーに余裕を持って着けるといっても、毎度のことながらタイムセール中に全ての値下げ品を見て回れるわけではない。大抵はほんの十分もしない内に全てのセール品が誰かの籠へと入れられてしまうのだ。
あの戦場とも言える状況で上手く立ち回るには、事前に目的の食材を絞っておいて、安全確実に確保することが大切である。
それを前提に今の気分と相談してみれば、少し濃い目の味が付いた夕飯を食べたいなという気持ちが湧いてきた。
――薄くて柔らかい牛肉を甘辛く煮て、牛丼にするのが良いかな。サイドには歯ごたえのある野菜を使ったサラダを置いて、ドレッシングを少しかければ食べられるように鳥のササミもあれば狙うか。汁物は合わせ味噌の味噌汁にして、豆腐と白菜と菜っ葉にわかめ、後は榎を入れたり……
と、栄養バランスが微妙ではあるものの、夕食の他に明日の朝と弁当のメニューも簡単に考えてから、冷蔵庫に残っているものを思い返しつつ今日の買い物で手に入れる必要がある食材を思い浮かべていく。
こういったことを考えていると楽しくなってきて、先ほどと同じようにどこか臨戦態勢のような目になっているなど、元気な雰囲気がにじみ出ていた。
今日のやるべきことは全て終わっている。あとは荷物を教室へ取りに行って、学校からとなると少し早めではあるがスーパーへ向かうだけだ。
そんな彼女の隣を歩く達哉は少女の様子が少しだけ変化したことに気づいたのか、チラリと視線を向ける。しかし、それがどのような変化だったのかは分からなかったらしく、一瞬首を傾げてすぐに前へと視線を戻したのだった。
ところが。
どうしたことか、今日はなかなか杏奈の思っているようにことが運ばないらしい。
というのも、教室に戻ってきてみると、この時間まで残っているのが珍しいメンバーがそこにいたのだ。それだけなら特になにかを思うわけではないのだが、彼女たちが楠本達哉ファンクラブ(非公式)のメンバーだという晶からの情報が本当だとすると、今は特に、少し身構えてしまう。
達哉か、あるいは杏奈が教室に戻ってくるのを待っていたのだろう。
「あ、戻って来たよ」
他のクラスから来て一緒に待っていたらしいの女子生徒が、教室に入った杏奈たちを見つけて、そこにいるメンバーに声をかけたのだ。
その言葉に、杏奈はちらっと集まっている三人の女子生徒の方へと視線を向けたが、誰とも視線が合うことはなかった。つまり、彼女たちが待っていたのは達哉なのだろう。そう思って、構わず自分の席へと歩いて行くことにした。
「達くん、おかえり! 会議長かったのね?」
達哉も杏奈の後から教室に入って来て、彼女と同じく自分の席へと行こうとしたのだが、待ち構えていた女子三人組の内の一人に話しかけられて足を止めた。
今日は午前中から何度も彼に詰め寄って、最終的には強く拒絶されたにもかかわらず、果敢にチャレンジしに行っているこの少女の名前は瀬川葉月。この一年四組に属している生徒だ。
しかもただ押しが強いだけでなく、「時間空いてる? お話したいの」と甘えるように言いながら彼の右腕に絡みついて、胸の膨らみを押し当てに行っている。
荷物をまとめながらチラチラと様子を伺っていた杏奈は、そんな大胆な反面はしたなくもある葉月の行動に、一瞬動作を止めてしまうほど驚いた。まさか、現実でこんなことをする人間がいるとは思ってもいなかったのだ。
確かに、葉月のサイズは決して小さくない。体育の時間の前後に四組女子の大半のカップサイズを見ているが、大きい順に並んだ時、彼女は間違いなくトップクラスだと思ったのを覚えている。間違いなく、杏奈よりも大きい。
ちなみに女子全員のサイズを覚えるほど見ているのは、元男としての興味が抑えきれなかったというところが大きい。今ではすっかり慣れたものだが、初めて体育の時間が来た時は思わず男子と一緒に教室を出そうになったし、女である以上そこで着替えるのが当たり前なのだが、多数の女子が服を脱ぎ出す空間で目のやり場に困ったりもしたものだ。
そしてその環境に慣れてきた頃、今度は女子たちの胸の大きさに興味が湧いたというわけである。
ともあれ、とても柔らかいであろうその武器がかなりの攻撃力を持っていることは想像するまでもないのだが、それが通用するのは普通の男子だけだ。
楠本達哉が普通の男子ではないというわけではないが、生まれ育って来た環境はあまり普通とは言えない。不純な異性交遊が、そのまま身の破滅に繋がりかねないような世界に生きているのだから。
恐らく彼は、押し当てられている「それ」から全力で意識を遠ざけようとするだろう。
それが男にとってどれだけ集中力のいることで、どれだけ苦痛になるかなんて、そんな羨ましいシチュエーションに恵まれたことの無い杏奈には想像もつかない。
それ、誘惑じゃなくて嫌がらせになってるぞと言っても、もしも実際には達哉がそんな風に思っていなかったら格好悪い。結局杏奈は、見て見ぬ振りをして授業道具をリュックサックに入れるのを再開するのだった。
「離してくれない? 葉月ちゃん。帰る準備したいから」
ただ、達哉が彼女の行動を嫌がったことは確かだったらしい。言いながら少し強引に葉月の腕をほどくと、杏奈の後ろにある彼の席まで少し早足で歩いてくる。
少しぞんざいな扱いを受けた葉月たちも、その後ろを少し遅れてついて来た。
「杏奈ちゃんはもう帰るの?」
エナメルバッグを机の上に置くと、荷物をまとめながら達哉が言う。
「そのつもりだけど。……お前は葉月たちと話してから帰るだろ?」
その質問からすると、杏奈が帰るなら一緒に帰ると言い出しそうだったため、先回りしてそう釘を刺しておく。
こうして葉月たちが待ち構えていたのは、さっき彼女自身が言っていたように達哉と話したいからだ。彼が女子たちとギクシャクする原因の一部に杏奈が関わっていたとしても、やはりそこは彼自身の人間関係。冷たいようではあるが、杏奈が無理に口出しをして変なこじれ方をする方が良くない。
そう思って言ったのだが、達哉は葉月たちのことをあまり意識したくないのか、うーんと唸りながら彼女たちの方に軽く視線を向けた。
杏奈もつられてそちらに目を向けてみれば、葉月が「邪魔者は達くんを置いてさっさと帰れ」と言うかのような鋭い視線をこちらに飛ばして来ていた。
その目を見ていると、せっかく援護射撃しているというのに、背後から撃たれているような気分になってくる。
「話って、明日じゃダメかな?」
しかもそこへ、達哉からなかなか最低な言葉が飛び出した。
今まで身の回りの少女たちに紳士的な振る舞いをして来た楠本達哉という人間は、一体どこへ行ってしまったのだろうか。
彼の一言に、葉月がショックを受けたような表情を浮かべる。
杏奈も、流石にそれはひどいと思ったほどだ。
いくら会議が長くなったと言っても、今はまだ四時半を少し過ぎたくらい。これまでだって部活に何度も参加してきたのなら、まだまだ活動を続けていたはずの時間なのである。
それに彼は、早く帰らなくてはいけない用事があるとも言っていない。
今後自分の立場をどうしたいのか、彼女たちに話して聞かせるだけの時間はあるはずなのだ。
一方で、達哉がこれまでどれほど少女たちの我儘に付き合って来たのかなど、杏奈には分からない。そうした人間関係の中で溜まっていたストレスがこういう形で現れているのだとしても、おかしくはないのだろう。言い寄ってくる女子たちとの付き合いに疲れて、全部遠ざけてしまいたくなったのかもしれない。
だとしても。
時間に追われているわけでもない今、一方的にコミュニケーションを拒否するのは間違っているのではないか。杏奈はそう思うのだ。
「つっきー、明日にした方がいいよ」
「達くん用事あるんじゃない? 明日時間作ってもらえば?」
彼女たちは彼女たちで、難色を示す達哉に無理を通しても良いことはないと思っているのだろう。
取り巻きの少女二人が説得しているのだが、葉月は何か思うところがあるらしく、少しちからの戻った目でじっと達哉を見つめている。
諦めてほしいと言うような顔をしている達哉とのにらめっこ状態だ。
「完全下校時間までまだあるんだし、話すれば良いじゃないか」
これでは進展しないと思った杏奈は、達哉に話を促した。
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