小さな嵐2
短時間にこれほど表情が入れ替わる落ち着きのなさも見慣れたものだ。こんな状態ではあっても彼女が機嫌を損ねているわけではないと分かるようになってきた杏奈は、むしろこの女の子が本気で怒るところを見てみたいくらいだった。
きっと男の頃であれば思いつかないであろう(思いついても絶対に実行しなかったであろう)悪戯を、杏奈は決行してみた。
ぷにっ
人差し指を立てたまま腕を伸ばして、晶のその膨らんだ頬を軽く押したのだ。
すると「ぷすー」と小さく音を立てて彼女の唇から空気が抜けていった。間の抜けた音ではあるが、聞こえた範囲はせいぜい真奈と杏奈くらいだろう。早めに朝練が終わった部も多いらしく、教室には晴れの日より多く生徒たちの話声があって、その小さな音はすぐにかき消されてしまった。
さてどう反応するのか。杏奈は晶の様子を見守る。
が、見つめる視線の先で晶が動くよりも先に、
「お……恐れを知らんな、お主も」
杏奈から見て晶の左にいる真奈が、あまり見せることのない心の底からの驚きをその顔に浮かべて呟いたのだった。
「あ、やっぱマズかったか?」
杏奈からすれば、真奈がそんな風に言葉を発する方が恐怖である。
といってもこれまで接してきた中で、晶が機嫌を損ねて大暴れしたことはないし、したという話も聞いたことがない。結局はそこまで怒りはしないだろうと高を括っていたのだが、晶の頬に押し当てていた右の人差指に、少し動かされる感覚が伝わってきた。
何事かと視線を戻してみれば、晶が顔は正面に向けたまま、ニヤリと口角を持ち上げて不気味に笑みを浮かべていたのだ。
「……あ」
悪戯をしたということは、もちろん仕返しをされても文句は言えないということ。
そう、この少女が仲のいい友人から悪戯をされた程度で怒るはずもなく、むしろそれを皮切りに、どんな悪戯が始まるとも知れない。彼女のその笑みは、これからとんでもない何かが始まることを意味していた。
杏奈は無意識のうちに突き出していた腕を引き戻す。
すると、すとん、と晶がスカートをはためかせながら真奈の膝から降りて立ち、俯いたままとことこと杏奈の目の前までやってきた。
「晶……さん?」
真奈が整え終えた髪は朝登校してきた時と同じ形に戻ってはいたが、杏奈の前に立っているのは、某ホラー映画に登場する白い服の女幽霊を彷彿とさせる不気味さを纏った少女だった。
「どうなっても知らんぞー」
しかし蚊帳の外にいる真奈は何とものんびりした口調で茶化すばかりで、杏奈を助ける気はないようだ。
それどころか、その一言は晶へのゴーサインでもあったらしい。
「ふっふっふっふっふー」
不気味ながらも可愛らしい声で「笑い声」を表現した晶は、
「杏奈ぁーーーー!」
不気味な笑みを顔に張り付けたままの表情で顔を上げて叫ぶように言い、両手を広げてわきわきと動かしながら、杏奈の方へと跳びかかったのだった。
頬をつつくという行為を男子が女子にすれば、ちょっとしたボディタッチすらセクハラだと白い目で見られかねないが、女同士なら悪ふざけで済んでしまう。そう考えて杏奈は悪戯を決行に移したのだが、同じように胸をもむという行為も……女同士なら許されるセクハラなのだろう。
「うわぁっ!!」
身の危険を感じて悲鳴を上げながらも、瞬時に胸元を両手でガードする。
そのタイミングで文字通り魔の手が襲い掛かり、杏奈の防御を引きはがしにかかった。
「このー、大人しく観念して揉まれちゃえー!」
「待った、ごめん晶ごめんってば! 謝るから許して!」
「ならーんっ。されたイタズラは十倍返しだぁ!」
「わっ、ホントやめてー!!」
しかし、女同士のセクハラは許されることが多かろうと、ここは共学の公立高校である。
今日という日に始業時間の十分前というタイミングともなれば、男子も含めて多くの生徒が既に教室にきている。
そんな所へ女子の悲鳴や卑猥な言葉が響き渡ればもちろん注目を集めることになり、男言葉で元男ではあるが外見はクールな美形少女の杏奈に、高校生としては小さい体躯でお人形のような可愛らしさを持つ活発な少女が襲い掛かっているという、滅多に見られないその光景は、クラス中の視線を集めていた。
女子生徒たちはすぐに二人の様子から苦笑いや無表情で視線を逸らしたのだが、男子たちの何人かは顔をにたにたとさせながら、
「あー、もうちょい」
「そこもっと乗っかかっちゃえ」
と思春期真っ盛りな応援をしていた。スカートの中が、そして密着し合う少女たちの姿が気になるお年頃である。
ただ、視線を集めた彼女たちの攻防も長くは続かなかった。
晶は途中から杏奈の膝の上にまで乗りかかって押さえつけるように攻めたてていたのだが、ふとその手を止めると、くるりと方向転換。そして先ほど真奈にしていたように今度は杏奈の膝の上に座り、ふぅ、と小さくため息を吐いた。
「疲れたからやめよっと」
そう呟いて小柄な少女は、ゆっくりと杏奈にもたれかかって動きを止める。
一方の襲われた少女はといえば、実際には晶の狙いは胸だけでなく、胸元を守ったがゆえにがら空きとなった脇腹をくすぐられたり髪の毛をがしがしかき回されたりした上、それを振り払おうとして手を動かしたために結局は胸を鷲掴みされるという……かなりのダメージを受けた影響で、息も絶え絶えとなっていた。
「はぁ、はぁ……もう二度とやらない」
呟きながらそう固く誓うと同時に、深呼吸をして息を整えと、乱れた髪を手櫛で整えた。
杏奈は晶のようにブラシや鏡を学校に持ってきていないため、髪が乱れた時は手の感覚だけで直すしかない。しかし彼女のストレートな髪はそもそも普段からサラサラで、湿度の高い環境であっても、長いことで重量もあるためかあまり手間をかけなくても元に戻ることが多い。
もしかしたら晶にしてみれば、先ほど真奈にくしゃくしゃにされたように、杏奈の髪もイタズラして困らせてやろうと思っていたのかもしれない。
「あー、杏奈ってばずるい!」
ところがくしゃくしゃな状態から簡単に戻ってしまったのを目撃した晶は、妬ましそうに杏奈の髪を一掴み手に取って、
「……どうやったらこんなサラ艶になるの?」
と呟いた。二人の髪にはその長さの違いだけではなく、そもそもの髪質の違いや手入れの仕方の違いなど、色々な要因があるのだと実際に触れたことで感じとったのだろう。
「燃えちゃえばいいのに」
「えぇっ!? ひどい……」
最終的には、恐ろしい恨み節を杏奈にぶつける晶だった。
もっとも裏を返せば、自分ではそこまでサラ艶な髪を保つための努力をする気が起きないからこその負け惜しみで、杏奈の産まれ持った髪質と普段の努力を認めた一言でもある。しかしその言葉が、言われた側の心を深く抉っているのも事実。
結果として、お互いが髪に関することで傷を負っただけの悲惨な結果となった。
そんな二人に対して真奈は、ショックのあまり半泣きで髪を撫でる杏奈と、その膝の上で「やれやれ」と言いたそうな様子で足をぶらぶらと揺らしている親友の姿を見て、普段の杏奈が何を見て困惑や苦笑いの表情を浮かべていたのか、ようやく理解したのだった。
こうなるのであれば、最初から晶を止めておけば良かった。そう思わずにはいられない光景である。
真奈が軽い後悔の念からどう言葉をかけたものか悩み、そして晶も杏奈もそのままの体勢で口を開かない(開けない)ままでいると、そこへ廊下から、正確には階段の方から何やらがやがやと騒がしい一団が近づいて来た。
「もっと仲良くなりたい」
とか、
「どうしてあのお店に行ったの?」
とか、主に女子の声ばかりが聞こえて来ていたのだが、そのざわついた声が四組の教室の後ろにある出入り口までやってきたとき、
「ごめんね、もう教室だから。皆も戻った方がいいよ」
というよく通る男子の鋭い一声で、一気に静まった。
どうやらその集団の中心にいたらしい人物である、楠本達哉が教室へと足を踏み入れると、彼を囲んでいた女子たちは数秒ほどその後ろ姿を見つめていたものの、誰からともなく、諦めたような顔で散り散りになって行った。
その集団の中には四組の生徒も何人か含まれていたらしく、達哉の後に続いて教室へと入ってくる数人の女子がいた。その中には、杏奈たちの友人である柳橋紗江の姿も。
彼女はいつもであれば、そのまま教室の中で達哉と朝の挨拶をするために話しかけに行く。しかし今日はどうした訳か、彼の後ろ姿を見つめ、そして今まで見たことのない悲しそうな顔で杏奈の方を一瞬見てから、自分の席へと直行してしまった。
彼と彼女たち女子集団の動きは先週までと比べればかなり異質で、教室中のほとんどの生徒が注目していた。もちろん杏奈、真奈、晶の三人も。
そんな視線など気にもしない様子で、少女達を突き放すように教室へと入って来た達哉は、そのままいつもの男子メンバーとロッカーにもたれながら話し始めた。
「さ、さーて、ボクも席に戻ろーっと」
かと思えば晶もまた、いけないものを見てしまったというようにワザとらしいセリフを口にすると、すたこらと逃げるように自分の席へと戻って行ってしまう。
そして、まるで女子生徒たちがうなだれた様子で席に着いていくのを合図とするように、教室の中では、他の生徒たちにも次々と座席へ戻る雰囲気が広がっていった。
その流れには達哉が会話をしていた男子たちも従ったようで、
「おはよ、杏奈ちゃん」
教室に入ってようやく自分の席までやって来た彼は、杏奈へと挨拶を投げかけて席に座った。
「ああ、おはよう楠本」
未だに少しざわめきの残る教室内ではあったものの、二人が挨拶を交わすと、その声に反応したのか、数人の女子生徒の視線がこちらへと突き刺さってきた。しかしそれもすぐに感じられなくなる。最終的に教室内には立って動く者が誰一人としていなくなり、何とも表現しようのない空気の中、数十秒後のチャイムを待つばかりとなった。
先週の金曜日までとは明らかに違う、どこか冷めていて、そして少々殺気立ったクラスの雰囲気は、むしろ入学式当日まで巻き戻ってしまったかのようだ。
そして杏奈は、静まった教室の中で首を傾げながら少し考えたところで、一体何が起きていたのかを理解した。
日曜日の達哉とのデート。それが無関係だとは思えなかった。かと言って、あの一日だけでここまでクラス中の空気が変貌してしまうとは、少し信じられない気持ちもある。
なぜならあれは何の変哲もない、今まで他の女子たちが幾度となく行ってきたはずの、達哉とのデート。少なくとも杏奈はそう思っていた。ところが、それが間違った思い込みであるかも知れないのだ。
先ほどの女子たちの言葉を聞けば、あの一日のせいで楠本達哉と彼を取り巻く女子たちの関係が変わってしまったのではないか、そう思うのは当然だった。
何がいけなかったのか、自分はこれからどうするべきなのか。あれこれと悩みが湧いてきて、彼女は頭を抱えてしまいそうになっていた。
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