小さな嵐1
ゴールデンウィークと呼べなくもない前半の三連休が終わり、杏奈は休み前と変わらない時間に神海高校の一年四組へと登校してきていた。
今日は朝から雨で、運動場へと目を向けても運動部の姿は無い。こういう日は、特別教室棟の廊下や臨時の部室として使用が許可されている教室の中で、ストレッチなど軽い運動を行っているらしい。
まだ教室にいる人数が多くない四組は階段も近いとあって、三階にある渡り廊下のその向こう、特別教室等の三階で走り込みを行うどこかの部の声がほんの少しだけ聞こえてきている。どうやら三階を使っているのは女子部らしく、時々複数の部員による息の合った「はいっ」という声が聞こえてくるのだ。
もちろんこんな日くらいはと朝の顔合わせが終わったらすぐ解散する運動部もあるし、大会で上位入賞を目指している部は、雨だろうと気合を入れて朝練時間いっぱいまで基礎体力作りをしている。
クラスの代表を引き受けた杏奈は堂々と帰宅部を選んだのだが、部活の体験期間はすなわち部の勧誘期間でもあり、下校しようとした時には随分とあちこちの部から入部のお誘いを受けたものだ。
気合の入っている部や、何が何でも部員を確保したいと思っているところは、その呼び込みも必死だった。
そんな中で全ての勧誘を断るのは少し心が痛んだものの、一週間あった体験期間のちょうど真ん中にあたる水曜日、男子部の三年生たちに
「めっちゃ可愛い娘を発見! うちでマネージャーしてくれ!!」
と囲まれた上に、そこを断って抜け出してもその次の部、更に次と……昇降口から正門まで移動するだけに十数分ほどもかかった時は流石に参ってしまった。その次の日からは放課後になってもすぐには帰宅せず、勧誘活動が落ち着くまで待ってから家路につくようにしたほどだ。
ただでさえ家に帰れば家事などをしなくてはいけないというのに、興味の持てない部活でマネージャーを始めてしまったら、色々と生活が破綻してしまうに違いない。しかも「可愛い」と褒めて勧誘すれば釣れるなんて考えは角砂糖よりも甘すぎるし、そもそも彼らが「可愛いマネージャーが欲しい」としか考えてないのは見え見えだ。
女としての自覚がかなり付いてきた杏奈ではあるが、周りから可愛いや綺麗だという言葉で褒めそやされたい欲求は持ち合わせていないし、恐らくこれからも湧いてこないだろう。
むしろ、あの時の声かけは自分を安く見られたような気がして、思い出した今でさえ少し腹立たしく感じてくるほどだ。あの時は囲まれたことで感じた身の危険から逃げ出すために必死になっていたものの、校門を出て安堵してから気づいたあのもやもや感は、忘れるのに時間がかかりそうだ。
つい思い出してしまったイライラを何とか落ち着けようと、しとしとと雨の降る静かな窓の外へと視線を向ける。
真奈が登校してきたのは、そんな時だった。
「おはようじゃ、杏奈~……」
朝から疲れた口調でも挨拶をくれた彼女に対して、
「あー、おはよ」
心の状態が口から漏れ出てしまったのか、無意識のうちに少しぶっきらぼうな返事になってしまった。
しかし、がたっと前の席で音がしたことに気づいて、慌ててダレていた体と気持ちを整えて正面に向き直る。
思考が半分ほど別の方を向いていたとはいえ、今の態度は友達に対して失礼にもほどがある。ごめんと謝るために口を開きかけて……それよりも先にばたりと杏奈の机の上へ倒れ込んできた友人に、言葉を失ってしまうのだった。
「うちはもうダメじゃ。杏奈、後は頼んだ……」
「えっと……ごめん、状況が良く分からないんだけど」
学校へとやってきて早々にダウンしてしまった彼女の行動があまりにも唐突だったため、一体何があってこうなってしまったのかが分からなかった。
前に雨が降った日の彼女は、いつもと変わらず登校してきたのを覚えている。真奈自身が雨の日に弱いということはないはずだ。
「完全に疲労困憊じゃぁ。なぜこいのぼりを引っ張り出したついでに、蔵の大掃除が始まるんじゃ……」
「ああ、三連休の話か」
彼女はこの連休中、甥っ子のためにと、母方の祖父母の家までこいのぼりを設置する作業に駆り出されていたのだ。どうやらその時、追加で力仕事をするはめになったということなのだろう。
「蔵の大掃除など年末にやっておくもんじゃろうに。去年はこんなこと無かったんじゃぞ、ひどいと思わんか!?」
がばっと起き上がると、真奈の目が珍しく少し潤んでいた。これはかなり色々なストレスをため込んでるかも、と杏奈は予想する。
「そういう理不尽、わたしも分かるなぁ。前住んでたとこで幼馴染がお雛様を出し入れするって時には毎年手伝に行ってたけど、自分のでもないのに七段でさ。ため息出たよ」
「それはまた、なかなかじゃな……」
しかしその目も杏奈の言葉を聞くと、一瞬でいつもの彼女のものへと戻った。ただその理由が、苦労しているのは自分だけじゃなかったんだ、と思ったからだったが。
「にしても、子どもの日と言いながら大人たちが酒を飲んで騒ぐというのはどうなんじゃろうな。甥っ子の相手をさせられるうちらの身にもなって欲しいもんじゃ」
「その子、今いくつなんだ?」
「今年小二の双子じゃ」
「双子!? やんちゃだと、高校生は大人だって決めつけて絡みに行く頃だな……」
「ああ。やつら、女と見ると容赦せんぞ。来年は絶対にスカートなぞ穿いて行くものか」
真奈曰く、今年は日程の関係で制服のまま移動したそうなのだが、祖父母宅に着いて挨拶をするなり双子に囲まれ、膝上にしているスカートをめくられたそうだ。
周りには親戚しかいないとはいえ、そんなことをされて恥ずかしくない訳がない。あてがわれた部屋へ荷物を置きに行って、速攻でジーパンに着替えたものの、
「座っておると、後ろから抱き付いてきて胸を揉みよるんじゃぞ!? 一体『揉んだら大きくなる』とか、どこで覚えてくるんじゃやつらは……」
どうやら散々な目に遭ったらしい。
その年ごろを男として過ごしてきた杏奈は、決してそんな行動を取る児童ではなかったものの、申し訳ない気持ちで無意識のうちに視線をそらしてしまった。
「ま、小学生男子なんて皆そんなもんだよねー」
とそこへ、真奈の中学からの友人である晶がやってきて、話に加わった。
二人は電車通学なのだが、流石は同じ中学出身とあって毎日一緒に登校してきている。
会話に入ってくるのが少し遅れているのは、カバンから教科書やらを机に入れてから来るせいだ。
「おはよう、晶」
「おはよ杏奈ー」
真奈と比べて頭一つ分ほど背の低い晶は、よいしょ、と声を出しながら真奈の膝の上に座ると、
「どーん」
と口で言いながら、勢いよく背中を真奈の体へともたれかけた。
しかし出席番号三番の真奈が座るのは窓際の席。彼女が体を横に向けていたとはいえ、晶の体重がのしかかって来てもその後ろにある窓やさっしが背もたれになり、二人の体重を難なく支えた。おかげで特に何も被害は出なかったが、話の途中で割り込んできた上にひどい扱いを受けたからだろうか、真奈は晶の頭へ両手を乗せると無言でぐしゃぐしゃぐしゃっと綺麗に整えられた髪を乱していく。
「わ、わーっ! 折角朝押さえてきたのに!!」
「うるさい痛いんじゃ小娘っ!」
どうやら晶は癖毛らしく、あっという間にぼさぼさにされた髪は、今日の高湿度な空気の中では自然には落ち着きを取り戻せず、まさに寝起き、というような爆発状態になってしまっていた。
少し色素の薄い髪が蛍光灯の光を茶色く反射していて、実に女の子らしい。しかし、髪がぼっさぼさになってしまっているその姿はとても残念だった。
「ちょっと、ちゃんと戻してよねっ」
むすっとした顔で唇を尖らせる晶はまさにご立腹という様子ではあるものの、特に慌てることもなくどこからかブラシを取り出すと、んっと真奈に突き出してブラッシングを要求する。
「ったく、重労働で疲れとる老体に、乱暴に乗りかかってきた仕返しじゃ。自分で整えんさい」
しかしあくまでも仕返しは仕返し。真奈は応じようとせず、膝に座る少女の頭に手を乗せてぽんぽんと優しく叩く。
「やだよ、鏡取ってくるの面倒くさいじゃん」
「お主はホントに……仕方のないやつじゃな」
「全くだよもう」
二人の位置からではお互いの顔を見ることは出来ないはずだが、仲良く「やれやれ」というような顔で座るその様子に、思わず杏奈は吹き出しそうになった。
結局は真奈が晶の髪をブラッシングすることになったらしく、彼女は晶の髪を撫でつけながら丁寧にブラシをかけていく。まるで姉妹であるかのような二人の様子は全く微笑ましい。これこそまさに仲睦まじいというやつで、いっそ二人で結婚すればいいのに、とその様子を眺める杏奈は思った。
「あ、そーだ聞いてよ杏奈!」
しかしそんな傍観者の頭の中など知らない晶は、突然思い出したように杏奈へと話しかけてきた。
「こら動くな晶、また乱れるじゃろ」
身を乗り出した晶だったが、真奈にぐいっと強引に元の位置まで体を引き戻され、仕方ないというようにそのままの格好で話し始める。
「昨日さ、目覚ましが止まってたから電池変えたんだけど、時間合わせるの忘れてて今朝三十分くらい早く鳴ったんだよ」
おかげで髪セットできたんだけどね、と晶は笑う。
「? ……それ普通は大遅刻するってパターンじゃないのか?」
「そこがボクの凄いところでね、なーんにも考えてなかったんだけど、時計が止まってから十一時間半経った時に電池を入れ替えてたんだよ!」
どうやら一種の自慢話だったようなのだが、何がすごいのか、結局何が言いたいのか分からないまま、
「へぇ……そうなのか」
杏奈には生返事を返すことしかできなかった。
「うー真奈ぁ、杏奈が冷たいよ。全然突っ込んでくれない!」
しかしそれがお気に召さなかったようで、晶は半泣きで古くからの友人に訴えた。……のだが、訴えられた方は杏奈以上の呆れ顔で、
「そんな頭の悪いボケに対応できるヤツなんぞ誰もおらん。むしろ朝からワケの分からんことを言ったお主が謝るべきじゃろう」
と晶の言葉を一蹴した。
「えー、ボク何も悪いことしてないじゃないか」
頼った友人にも取り合ってもらえず、晶は「ぷー」と頬を膨らませた。
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