懐かしい仲間の声2
少し首を傾げながら、杏奈は上体を起こして目覚まし時計に目をやった。
風呂から上がって、そろそろ髪を蒸らすのも終わりの時間になっている。彼女はそのまま体を起こして髪を包むタオルを取りながら洗面所へ向かうと、
「ところで、明日香の方は最近どうなんだ?」
電話の向こうにいる明日香と話しながら、入り口のところから洗濯籠へとタオルをシュートする。
丸めて投げられたタオルは、普通であればすぐに広がって失速していたはずだが、浴室でお湯に浸かっていた頃から髪を包むのに使われていたこともあり、水分を吸って湿っていて、形を保ったままきれいな放物線を描くと口の広い籠のちょうど真ん中へと吸い込まれた。
それを確認した杏奈は、自室へと廊下をもどる。
「あたし? あたし……と言うより、あたしたちは元気だよ。杏奈がいないのは少し寂しいけど」
明日香が言うあたし「たち」とは、杏奈や明日香と同期の二人の男子たちのことだ。
前世も男だった康太と、杏奈とは反対に女から男になった慎。一ノ瀬家に引き取られた彼ら三人も、現在の年齢は杏奈と同じ十五歳、高校一年ということになっている。
この四人が同期グループに位置づけられ、研究が無くなるまでに生まれた最後の実験体なのだ。
「そっか。わたしが離れちゃったのは何ともだけど……康太や慎も相変わらずなのか?」
「そうなのよ。康太なんて、杏奈がまた一人暮らしを始めたって聞いたら、こっちに呼ぼうぜって言ってるくらい」
「はは、あいつらしいな」
杏奈と三人が別れることになって、一番悔しがっていたのが康太だったのだ。彼女が「杏奈」として初めて目覚めてから、何かとちょっかいをかけてきていたヤツでもある。
また一緒に、と言ってくれるのはすごく嬉しいのだが、明日香たちが現在住んでいる場所の住所を知っている杏奈は、表情を曇らせた。なぜなら彼らの住んでいるそこは、『前世』の彼女が住んでいたアパートの、すぐ近くなのだ。
「でも……わたしがそっちに行くのは、色々と難しい気がするよ。今も『前世』の知り合いが生きてるなんてさ」
そして、そこに住んでいる昔の知り合いたちとはもう、あの頃のように話をすることはできない。再開したとしてもゼロからの関係となってしまうのだ。
彼ら四人に限らず、研究所で生まれたほかの実験体たちも、以前の体だった頃の自分のことを『前世』と呼んでいるが、それは、今までとは全く違う存在になってもそれまでの記憶を持ち続けていることから、現在の自分と過去の自分を区別するために誰かが言い始めたのだ。自分という存在が何者であるのか、他でもない自分自身がしっかり自覚するために、その言葉はかなり役に立っている。
今までと違う躯になってしまった実験体たちには、非現実的な事実があまりにも突然に、何の前触れもないまま、本人の意思に関係なく突きつけられた。言葉ですら簡単に表現できない状況を、当然のこととして受け入れるのはかなり難しい。
現に、現実を冷静に受け止められなかった実験体の少なくない人数が、パニックや混乱から自我崩壊を引き起こして死亡しているのだ。中でも特に、以前と性別が異なる躯になった場合、自我崩を起こす壊率が高かったらしい。
仮に自我崩壊を起こさなかった実験体も、心の内では葛藤している者も少なくない。
そんな彼らに『前世』という言葉は、現在の自分が以前の自分とは違う存在なのだということを明確に意識するのに役立っていて、精神状態の安定につながっている。
一方で杏奈は担当の研究者たちから、目覚めた後の計測で「気持ち悪いくらい精神状態が安定している個体」だとはよく言われていたが、それでも『前世』の知り合いと顔を合わせればどうなるかは分からない。
こちらは相手のことを知っているのに、向こうからは初めて会った人物と認識される。それを当然のことと認識した上で、前世の知り合いと話をしている時はうっかりと昔の思い出話をしてしまわないように細心の注意を払う必要がある。それがどれほど難しいことなのか、杏奈には想像もできなかった。
そして明日香もまた、杏奈の「行くのは難しい」という言葉にそれを感じ取ったのだろう。話す声を少し低くして、
「あ……。それすごく分かる。あたしも杏奈の住んでるところ、ちょっと行きたくないから」
と言った。
「杏奈が行ってるのって神海高校でしょ? あたしの通ってた中学、それなりに神海に行く人が多くって。パソコン馬鹿のお兄ちゃんですら行けたくらいだし」
「ははは……うちの学校に普通に進学できる中学にいたのか。道理で研究所にいた頃、明日香は頭が良かったわけだ」
話しながら杏奈は、気持ちを切り替える意味も含めて、研究所でのことを記憶から引っ張り出した。
どうやら研究自体が中止となる前から、杏奈たち実験体の生活の場を一般社会へ移す計画が進んでいたようで、施設の中では毎日のように中三の勉強をさせられていたのだ。次の年の春からは、普通の高校生として生活を始めるために。
そんな学校の授業に似た講義が行われる中で、学校を模倣するためかテストも何度か行われていた。その点数はと言えば、課題しかこなさず応用問題を解けない杏奈が六十点台だったのに対して、明日香はほとんどが九十点台後半だったのだ。
どうやったらそんなに取れるのかと訊いたことがあったが、「課題やってれば取れると思うけど……」と逆に不思議そうな顔をされたのが、今となっては懐かしい。
あれだけ勉強ができていたところを見ると、明日香の通っていた中学はこの辺りでもかなり上位の中学ではないだろうか。「パソコン馬鹿のお兄ちゃんですら行けた」と彼女は言ったが、その言葉がお兄ちゃん氏のどんな状況を示しているのかはいまいち分からない。しかし、当時の杏奈の学力ではその「すら」にすら届かなかったはずだ。
いや、今でも届いている自信がこれっぽっちもないのだから、ほぼ毎日夜に勉強をしているわけなのだが。
「ってことは、わたしの知り合いの中に明日香の『前世』の知り合いがいるかもしれないってことか」
「うん、多分……何人か。名前だけ知ってる人なら十人とか、もっといるかも」
明日香も、こちらにいると言う知り合いだった人たちのことを思い出しているのだろうか。その声は、先ほどと比べて暗いものとなっていた。
杏奈は、
「そっか……」
と返しながら考える。
もしかしたら彼女にとっては、知り合いの話を聞くのも、辛いことなのかも知れない。
文字通り一度「死んだ」記憶を持っている杏奈は、前世の知り合いと会って話をするということに戸惑いを感じるだけで、彼らの噂話くらいなら聞いても大丈夫だと思っている。しかし、明日香は恐らくそうではない。
研究所で他のグループも含めた実験体たちとの会話を思い出してみるが、彼らの中に杏奈と同じく「死んだ」記憶を持つと話した人は、一人もいなかった。それはつまり、何らかの形で研究所に連れて来られ、実験に巻き込まれたということで……今までの生活を無理やり奪われた人たちばかりなのだ。
もう戻らない過去だと割り切っているように見えて、本心では割り切れないでいる人も、杏奈が思っている以上に多くいるのだろう。
これは、明日香との会話の中でうかつに人名を出せないなと、彼女は思った。
「まあでも、今の生活に慣れて余裕ができたら、一度は遊びに行くよ。また皆に直接会いたいしさ」
このまま暗い話題を続けるのもよくないと、杏奈は話題を変えた。
「会いに行く」という話にしたのは、もちろん明るい話題にしたかったこともあるが、彼女自身が彼らに会いたいという気持ちが強かったからだ。
「そっか、杏奈は住所でうちの場所が分かっちゃうもんね!」
「そうだな。わたしの住んでたアパートのすぐそばだし」
「ってことは……。うん、じゃあもし来る時は、こっそりあたしにだけ教えてね。皆をビックリさせたいの!」
明日香は、悪巧みをする子どものように小声でそう言うと、「約束だからね?」と電話の向こうで楽しそうに笑った。
去年一年間、研究所の中で一緒にいた時はこのようなイタズラを考えるような性格ではなかったのだが、春から高校に通い始めて、以前の自分を取り戻しつつあるのだろうか。あの頃と比べると声が明るくなっている気がする。
「分かった。じゃあ、番号とメールアドレス聞いてもいいか? どっちかで連絡するからさ」
「うん! えーっと確か番号が……」
告げられる明日香の連絡先を紙にメモして、杏奈は机の上にその紙を置いた。
念のため杏奈のスマホの番号とメールアドレスも伝えて、後は電話帳に登録してしまえば、いつでも連絡を取り合うことができるようになる。恐らく明日香が電話をかけてきた一番の目的は連絡先の交換だったはずだ。これで一通りやるべきことはやってしまえたと思った杏奈だったのだが、
「ねぇ杏奈、前はこの辺りに住んでたってことは、もしかして……」
明日香はむしろこれからが本番だというように、次の話題を切り出した。
平日にはほぼ毎日会っている女友達からの電話ですら長くなるのだ、数か月ぶりに話す機会を得た明日香には、話したいことが山積みらしい。
ちなみに彼女の話題とは、近所のスーパーでどんな時に行けばいいものが買えるかとか、どこか女性向けの服を置いているいい店はないかという質問が多かった。
そこに住んでいた頃はまだ中学生の男子だったのだ。もし世間一般でよく見る普通の中学生として生活をしていたら、その話題に答えることはできなかっただろう。しかし、杏奈がまだ須藤祐介という名の男だった頃、自覚はなかったのだが中性的な顔立ちをしていたらしく、よく幼馴染だった七海たちに女装をさせられ遊ばれていた。そのせいか、普通の男子であれば知るはずもない若い女性向けの服を売っている店にネイルアートの店、アクセサリー店などをかなり詳しく知っていた。
明日香の場合は(当然と言えば当然)自分で身に着けられる物を探しているようで、杏奈の口から出てくる情報がかなり嬉しいものらしい。
あれもこれもと訊かれたことに答えていくと、明日香はかなりテンションが上がってきて、興味のあることやしてみたいと思っていることを色々と話してくれた。
「あ、じゃあー、もし杏奈が……」
ところが突然、明日香の声がそこで途切れた。かと思うと、少し遠くから「うん、大丈夫」とか「康太、心配しすぎ」という声が聞こえてくる。
時計を見てみれば時間はもうすぐ十一時になろうとしているが、晶や真奈たちと電話をしていればまだまだ話が続いていくような時間だ。杏奈も既に夜遅くの電話には慣れっ子となっていて、こうして少し落ち着くタイミングがやって来た時に時間を見て、「あっ」と驚くことも多くなった。
「ごめんね杏奈、康太が声かけてきて」
「全然大丈夫だよ。あいつ、もう寝ろって?」
「そうなのよ! 明日も学校だからって……。お父さんもお兄ちゃんもそんなこと言わなかったのに。っていうか、学校あるのはあいつも一緒じゃない。ねぇ?」
研究所にいた頃は当然のように男女別室で、異性の部屋へは入ることも許されないほどの管理体制だったため、男子二人がどんな生活をしていたのかは、予想はできても深くまでは分からない。
対して杏奈と明日香は、大体いつも消灯時間には寝ていたものの、どうしても我慢できない愚痴なんかがある時は、遅くまで……それこそ日付が変わるまで話していることもあった。その頻度はせいぜい月に一、二回ほどくらいだったが。
そして高校に入学してから今日までの一ヶ月足らずの間に、日をまたぐほどの長話となる電話が夜にかかってきた回数も七回目(今日が恐らく八回目)となっていることを考えれば、決して多くはなかったのだろう。
「まあそうだけど。でも、身近な女の子に気を遣える男は、いいヤツだと思うけどなぁ」
「えーそう? お節介すぎるのは嫌われるだけじゃない」
「向こうからすれば、頻繁に意識してるってことだよ。どうでもいいと思ってる人間相手に、心配なんてしないんだからさ」
「い、意識って、そんな……」
杏奈はその言葉に特別な意味を込めて言ったつもりはなかったのだが、明日香はそれをどう受け止めたのだろう、呟くような声が聞こえてきてかと思えば、彼女は急に静かになってしまった。
そして数秒後、小さく「ん……っ」と声とも吐息とも取れる少し艶めかしい音が電話の向こうから伝わってきた。
さて、女の子がそんな風になってしまうような状況とは、一体いかなるものか。
相手は電話の向こう側にいるため姿は見えず、正確な状況を杏奈が知ることなどできない。できないからこそ、顔がジトーっとしたものになってしまう。
「明日香さーん。エッチな妄想は電話を切ってからお願いしまーす」
「え? ……ち、違うの! あたし絶対そんなことしてないからっ!!」
今度は顔を赤くして全力で否定している姿が目に浮かぶような声だったが、彼女がそこまで慌てたからこそ、杏奈にはそれが図星なのだと確信してしまった。「エッチな」は多少言い過ぎたとしても、それに近いアツアツな状況を彼女が思い浮かべていたのは間違いない。
研究所時代に十か月以上も同じ部屋で生活していたのだ。その間、杏奈が明日香に無関心であるわけがなかった。
彼女が康太に恋愛感情を抱いていることは知っていたし、指摘した内容が本当に間違っていたときは、軽い事柄であれば笑って否定するし、失礼なことであれば怒るのが明日香という少女である。照れ隠しにこれほど全力で否定したとなれば、知られると恥ずかしいことを言い当てられた場合に見せる姿なのだ。
「えー、そうか? まあいいけどー」
しかし図星を突いたという確信を持ったからといって、杏奈はそれ以上、意地悪な追及はしなかった。
彼女もつい最近、熱暴走を身を持って体験して恥ずかしい思いをしたばかりなのである。
「そうそう、あまり気にしないで。……で、何の話をしてたんだったっけ?」
そして追及を免れた明日香は、今の話はさっさと流してしまおうと思ったのか、話題を元に戻そうとする。
「えっと……。明日香の今住んでるところの近くに、色んな店があるよって話をしてたところだよ」
「あーそうだった! それで訊きたかったんだけど、杏奈が……」
そして話題は再び明日香の現在住んでいる場所にある、色々な店に関する話へと戻っていく。二人の話はその後も続き、杏奈が電話を切ったのは予想通り日付が変わってしばらくした後だった。
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