初登校日3
そこは神海学校の校舎の四階にある、一年四組の教室。
窓際で前から四つ目の座席に、如月杏奈は座っていた。
時間はもうすぐ午前十一時になろうとしている。あと少しすれば、入学式のあとに各クラスで行われているすべての日程が終わるだろうという時間だ。
今朝の男子生徒との一件は、杏奈にとってそれほど凹むことではなかったが、周りに聞こえないくらいの小さなため息を吐きたい程度には、疲れを感じていた。
あの後、杏奈は同じマンションに住む男子生徒の名前を知ることになった。
彼の名前は、楠本達哉というようだ。
全く相手にされていなかったはずの杏奈が、どのようにして名前を知ったのか。
それは、杏奈がクラス表で自分のクラスを探していたところから始まる。
学校に着いてクラス表の前に立った彼女は、一組から順番に自分の名前を探していった。
名簿は男女混合になっていて、苗字が如月である杏奈は、苗字の一文字目が「き」より後ろになってしまったら次のクラスを探せばいい。しかも大抵は五、六人目まで探せばカ行の二文字目を通り過ぎてしまう。自分のクラスと出席番号はすぐに見つかった。
如月杏奈という名前があったのは、四組の出席番号が四番のところだった。
クラスや出席番号に「四」が続いて、それが「死」を連想させるとかそんな迷信にとらわれることもなく、逆に簡単で覚えやすい数字だなというのが、彼女の感想だった。
実はこの時点で、登校中ずっと前方を歩いていた男子生徒はすでに自分のクラスと番号を確認し終わったらしく、近くからはいなくなっていた。
しかし、杏奈の方も完全に男子生徒の存在を意識から外していたし、朝のことをいつまでも気にするような性格ではない。同じマンションに住む同級生がどのクラスなのかも、知りたいとまでは思っていなかったのだ。
自分のクラスの確認が終わったあと、彼女は他の生徒たちに混じって体育館の前側の入口から中に入った。
一クラスの座席は二列になっていて、舞台に向かって左側が奇数番号、右側が偶数番号という形で並んでいる。それさえわかってしまえば、前から数を数えるまでもなく自分の座る場所がすぐに分かる。四番とはなんて分かりやすい場所だろう、と彼女は思った。
開始時間までまだ間はあったのだが、することもないため椅子に座って開始時間を待つことにして、四組の椅子の列に真直ぐ向かった。
その時だ。目線がふと前から三つ目の奇数番号側……自分がすわるはずの椅子の斜め後ろに座る、男子生徒の方に向いたのである。
そこに座っていたのは、マンションの一階で挨拶を交わした(交わさせた)男子生徒だったのだ。意識から外していたとはいえ、さすがに目に入れば気づきもするが……偶然にしては、これは少しできすぎていると思うくらいだった。
杏奈の斜め後ろの席ということは、そこは出席番号五番の席。
きっと近いうちに会話をすることがあるだろうと思って、杏奈は自分の出席番号の前後一人の名前を覚えてきていたのだが、その記憶に間違いがなければ、名前は確か『楠本達哉』だった。
こうして、この学校で初めて知り合った……と言えるかは分からない『男子生徒A』の、正確な個人名を入手したのだった(クラス表の貼り出しで個人名が漏れるのは、学校としては不可抗力だろう)。
しかし出会い方が出会い方だっただけに、この楠本達哉と上手くやっていけるのか、全く予想ができなかった。反対にひとつ前の番号には女の子のような名前が書いてあったため、まずはその子と仲良くなることを考えた方がいいのかも知れない。もしくは教室で隣の席になる生徒とかが現実的だろう。
すぐ左隣の椅子にはまだ誰も座っていなかったが、自分の席に座ってしばらくボーッとしていると、そこには眼鏡をかけた女の子がやってきた。
その子はさすがに、左後ろの男子と会った時のような近寄りがたい雰囲気を出していない。
ホッと安心する杏奈だったが、しかし同時に、ドキッと緊張することにもなった。
左右に二つ並ぶ座席はその間隔がかなり狭くて、隣の子とは肩が触れ合いそうなくらい距離が近かったのだ
。
これほど近くまで女の子と接近して、しかもそれが長時間続くことに慣れていない杏奈は、どうしてもそのことを意識してしまい、鼓動が早くなってしまう。
(わたしは女だ。わたしは女だ。わたしは女だ。……)
式の最中ずっと自分にそう言い聞かせて、なんとか落ち着こうとするのだった。
そして、入学式の後でクラスごとに行われている説明も終わりが近くなっている今、杏奈が疲れている理由。それは座席の順番にあった。
クラスの名簿を見た限りだと一学年は八クラスで、各クラスは三十人らしかった。そして教室での座席の並びは、縦五席の横六列でちょうど三十席。
つまり出席番号四番の杏奈は、五番の楠本達哉のすぐ前に座席があるということになる。
体育館から教室に移動して席に座る時、何気なく後ろを見てみたのだが、既に席についていた彼はボーッと窓の外を見ていた。
パッと見、やる気ゼロである。
クラスでは担任の岡本から少し説明があったあと、何枚かプリントやパンフレットが配られた。その配り方は学校でよく行われる、前の席の人から後ろの人に順番に回すやり方だ。それ以外の配り方などそうはないだろうが、つまり杏奈は配布物がくるたびに後ろを振り返ることになったのだ。
もちろん彼の方を見ることになり、当然配布物を手渡すことにもなるのだが……四、五回くらい配布物を後ろに回した時、達哉はそのどれも杏奈の手から受け取ることなく、そればかりかずっと窓の外を見たままだった。
それはもう、心ここにあらずというのが相応しい様子だった。
仕方なく一枚だけになったプリントやパンフレットを、杏奈は後ろの机の上に置く。
達哉のその姿からは、学校なんてどうでもいいと言うような雰囲気さえ感じ取れる。まるで無気力、無関心。
高校生になるということは、誰にだって少しは期待や不安があるはずだ。ところが、この生徒からはまるでそういうものが感じられない。むしろ空気になろうとしているかのように、ただそこにいるだけなのだと思わせるような雰囲気を漂わせている。
……しかし。
楠本達哉がそうしていたのは、担任が教室から出て行って少し経つまでだった。
先生が出ていった瞬間、教室の中は限界まで張り詰めていた緊張から解放されて、少し緩んだ雰囲気になった。とはいっても、そこは知らない人ばかりがいる教室。生徒たちは皆、まだ少し緊張したままだ。
学校での行事は全て終わり、この日はもう帰っていいのだが、杏奈は座席に座ったまま教室の前の壁にかけられている時計に目をやった。
時間はまだ十一時五分になるかならないかという頃。昼食は冷蔵庫に残っている食材で作れるだろうから買い物の必要もない。もう少しこの学校を見て回ってから帰ってもいいはずだ。
そう思って、席から立ち上がろうとした時だった。
クラスの三分の一くらいの生徒は既に教室から出て行ってしまった後だったが、そんな中、窓際の列から少し離れた場所で、三人の女子が集まって会話をしていた。
同じ中学校出身の友達同士だろうか。そう思って見ていると、いきなりその女子達がこっちに向かって歩き出した。
正確には教室の一番後ろ、楠本達哉の席から少し離れた場所に。
「ほら、声かけてみなよ」
「えー……でも初対面だし、何だこいつって思われないかな?」
そう話している女子たちの視線が飛ぶ先には、今も窓の外を眺め続ける達哉の姿があった。
どうやら、この無気力男子に声を掛けようかどうしようか迷っているようだ。
というのも真後ろに座っている無気力男子こと楠本達哉は、真昼間から何に思いふけっているのかは知らないが、窓の外にボーッと目を向けているだけで様になってしまうほどのイケメンなのである。
同性の男から見ても美男子とはこういうヤツのことを言うんだろうと思ってしまうほど、姿かたちだけでいえば、女子からモテそうな男なのだ。
しかし今朝のあの一連の会話を思い出す限り、性格まで女子に人気があるとはとても思えない。
それを考えれば、杏奈は初対面でこの男に話しかけて「何だこいつ」と思われたに違いない一人だろう。
杏奈は体を椅子の右側に向けて視線をその女子たちから外すと、ガタンと、開いていない窓に体重をあずけた。
しかし、その状態でも視界の端に女子たちを捕らえている。
彼女がそんな姿勢をとったのは、この女子たちに後ろの席の男がどんな反応を示すのか、少し興味があったからだ。
「もー、そんなんじゃいつまで経っても近づけないって!」
そして思いがけないことが起こる。それは、そのグループの女子の一人がなかなか勇気を出せないでいる友人を急かすように言った時だった。
すぅ、はぁ。と、小さく深呼吸をするような息遣いが右側から聞こえたと思ったら、
「あ、千佳ちゃん久しぶり。もしかしてオレと同じ四組になったの?」
続けてそんな明るい男の声が聞こえてきた。
その声がした方にはあの楠本達哉しか男子はいないはずだが……あの無愛想なやつが人に話しかけるなんて、杏奈にはとても信じられなかった。
心の中では、あの女子たちに気付いたら黙って席を立って、そのまま傍を素通りして帰るんじゃないかと思っていたのだ。
しかし声のした方を見てみると、教室の後ろにいる女子たちに微笑みかける達哉がいた。
その姿や表情、そして雰囲気は、今朝とは……さっきまでとはまるで別人のようだった。まさか、相手が女子だから態度を変えたんじゃないだろうなと杏奈は思ったが、すぐに自分も今や女なのだということに気付いて、軽く頭を振って意識を切り替える。まだ男モードから抜け出せていないようだ。
「達哉君こんにちは! 久しぶりに会ったね~」
そうしている間に、どうやら達哉と知り合いだったらしい千桂と呼ばれた女子は、さっきまで話しかけろと勧めていたはずの友達よりも先に、自分が笑顔で話し始めていた。
こっちもこっちで、他の二人と話していた時からの態度の変わり方がすごかった。
そんな会話の中に後れて入った女子二人と達哉は、お互いの自己紹介を始めている。
その二人も千桂と呼ばれた女子同様、さっきと比べると声のトーンが一段階くらい上がっていて、イケメン相手に自分たちのアピールをしに来たのだと分かる。
しかし今朝の様子と比べると達哉の話し方も変わりすぎていて、こっちもこっちで笑顔という仮面を着けているようにしか見えない。
(なんか、変な化かし合いを見てる気がするな)
無愛想な男が他の生徒たちとどんな接し方をするのか気になって彼の観察をしていたが、杏奈へのあの態度は、どうやら単純に機嫌を悪くさせてしまったのが原因だったようだ。
接し方を間違えたかな、と反省して、彼女は顔を正面に戻すと小さくため息をついた。
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