そして、何かが動き始める9
今回で一章が終わりになります。
その日の夜、九時を少し過ぎたころ。
杏奈は風呂上がりの姿でベッドの上に胡坐で座り、両手を伸ばしてヘッドボードの上の物置スペースに置かれていた猫のぬいぐるみを持ち上げた。二頭身で後ろ脚を前に投げ出してその両側に前足を付く格好で座る、口が黒塗りの逆三角になったキャラクターである。
これは今日、彼女の部屋にやって来たぬいぐるみ第一号。
杏奈が自分で買ったのではなく、ゲームセンターのクレーンゲームで達哉が取って、彼女にプレゼントしたものだ。
二つの縦長で楕円の目は光の無い真っ黒で一見無表情なのだが、耳や鼻やひげ、逆三角の口も含めて一つの顔として見ると、なんだか可愛らしく見えてきて不思議だった。その愛らしさに思わず、ぎゅっと抱きしめてしまう。
彼が話していた、女子の間ではそれなりに人気のある猫キャラクターだという言葉も頷けるのだが、同時に今日あったあれやこれやを思い出してしまい、再び顔が熱くなってくる。
すぐに頭を軽く振ることで、考え自体を思考の外へ放り出した。
こういったキャラクターの情報に疎い杏奈は、今日までこの猫キャラがこの世界に存在していたことなんて全く知らなかったし、知ったところで欲しいとも思わなかった。
達哉がこのぬいぐるみの置かれたクレーンゲームに百円玉を入れるのを見て、意外とこいつは少女みたいな趣味を持ってるんだなと思った程度だったのだ。しかし、取れたぬいぐるみをすぐさま杏奈に手渡そうとし始め、驚いた彼女はいらないと断り続けていたのだが、
「オレが持ってても仕方無いし。それに、杏奈ちゃんの部屋に置いてあげたら、意外としっくりくるかも知れないよ」
と半ば強引に押し付けられてしまったのだ。
普段であれば「だったら何故取った」と嫌味を返しながらも、「仕方ない」とかなり上からの態度で受け取っていただろう。
しかしその時は何かが違い、杏奈は何となくの気分でさらに受け取るのを渋った。すると達哉の口から、彼女の部屋の女らしいアイテムなどまるで何もない殺風景な部屋をリアルに想像しているかのような、少し失礼とも言える「予想」が飛びだしてきた。しかも驚いたことに、それがほぼ全部本当のことだったのだ。
そこから「杏奈ちゃんの部屋に置いてあげたら」と言われては、分かりましたと受け取るしかない。
こんなやり取りの結果、杏奈の部屋に初めてのぬいぐるみが置かれることになったのだ。
こうして時間が経ってから思い返してみると、プレゼントをもらったということは、自分があの男の彼女になったみたいに思えてきて、苦笑いが出てきてしまう。
本当はそんな事実はないし、いくらドキドキするほど意識させられても、言葉巧みに気持ちを揺さぶられたとしても、杏奈には付き合うつもりなど全く無い。
彼自身は杏奈の生まれた実験のことを知らないが、達弘は知っていることだ。
つまり何らかの形で、弟が想いを寄せる相手の存在を、兄が掴むはずだ。
あの人が達哉の気持ちを知ったら、きっと何が何でも思いとどまらせるに違いない。そんな流れになる可能性も、二人の間には存在している。
だからこそ、達哉との関係は単なる友達関係に留めておかなければいけないのだ。
……と思ったのだが、杏奈はふと、達弘と初めて会った時に彼が言った言葉を思い出した。
――きっとこの先もずっと、杏奈ちゃんには楠本家や楠本財閥のことで力を貸してもらうことが多くなると思うけど、その時はよろしくお願いするよ
まるで予言のようにそう言われたものの、その後は杏奈の方が達弘に命を助けられるような事件があったくらいで、自身が達弘や楠本財閥の力になれたことは、一度たりとも無い。
それに、彼の言った「きっとこの先もずっと」とは、一体何を指しているのだろう。
彼は杏奈に、これからの何をよろしくお願いしたというのか。
あるいは。
もし本当に杏奈が達哉と結婚した時には、楠本家に嫁いだ者として財閥にも多少は関わることもあるのだろう。あくまでも一つの「もしも」の話である上に、障害が多すぎて現実的ではない……と杏奈が思っている、あり得ない仮説だが。
それに今は思いつかなくても、「結婚」ではない形で杏奈の力が必要になってくることが、これから発生するのかも知れない。
どちらにしても達弘の言った予言のような言葉は、このタイミングで思い出したことも含めて、彼女に「まさか」と思わせるものだった。
頭の中に自然と、ウェディングドレスの飾られていたあの店が浮かんできてしまう。そして次に、あれこれと着せられたドレスの中で、一番フリルや花飾りが多くあしらわれた一着を身に纏った鏡に写る自分の姿が浮かぶ。あのドレスの色を白にしたら……。
と考えたところで、もう一度頭をぶんぶんと振った。
あのような場所に連れて行かれたせいで、余計に変な意識をしてしまっているのだろう。我ながら何て乙女チックな妄想をしているんだと思う。
「そんなことある訳ないじゃないか」
杏奈は自分らしくもない浮ついた思考を止めるように声に出して呟く。そしてぬいぐるみをヘッドボードの上にある目覚まし時計の隣へと置き直しながら時間をみると、髪を蒸らすのを終えるいい時間になっていた。
ベッドから立ち上がって、髪からタオルを外す。それを洗濯かごへと入れるために、彼女は部屋を出て行くのだった。
まだ見ぬ未来のことは、妄想するのではなく計画するものだ、と思いながら。
今日一日の出来事から、自分の中に生まれる雑念を振り払うことで精一杯だった杏奈は、だから、思い至ることができない。
この日があったからこそ、彼女の身の周りに様々な問題が溢れ始めるのだということに。
一章終わりです、ありがとうございました!
おそらく二章の分までは毎日更新で続くと思います。
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