そして、何かが動き始める2
今日は四月最後の日曜日。神海高校に入学してから、そしてこの楠本達哉という人物に初めて会ってからまだ一ヶ月も経っていない。しかしその間にも、学校では彼のこの笑顔という無表情を何度も見てきた。主に、女子と話しているときに。
杏奈としてはその表情自体は嫌いではないのだが、素を見せようとしないその態度には、あまり好感が持てないでいた。
だからといってあからさまに遠ざけたり意地悪く態度を冷たくするようなことはしないし、むしろそういう露骨な態度をとる人間にはなりたくないと思うのが杏奈だ。
「確かにな」
そうしない代わりではないが、相槌を打つ一方で達哉の微笑みの向こうにある本心を射抜くように、これでもかというほど真直ぐな視線を彼の目に向けた。女相手となるとこうしてプライベートですら感情を隠し続けるその一貫した姿勢が、単なる冗談ではないことを確かめようとしたのだ。
鋭い視線を向けられた達哉はといえば、一瞬驚いたように目を大きくしたのだが、表情が出たのもその一瞬だけで、すぐに元の微笑みへと表情を戻すと彼女の目を真直ぐに見返す。彼らの視線が重なっている間、その場だけ時間が止まってしまったかのように二人は身動きをしなかった。
傍から見れば、二人はまるで熱い視線で見つめあう恋人同士のように見えただろう。
しかし、彼らの間にあったのはわずか数秒間の無言の攻防。障害物などお構いなしにその向こうへ至らんとする矛と、あらゆる脅威にも屈さぬ強固な盾、そのぶつかり合いだ。
やがて杏奈の方が先に視線を外し、その戦いは盾の勝利で終わりを告げた。とはいえ、彼女は興味を失ったわけではない。何の前触れもなく杏奈が向けた視線に対し、物怖じる様子がないということは、彼にもかなりの決意があるのだと読み取ったのだ。
それほどまでに強い意志があるのであれば、それを尊重するのが彼女の性分だった。
「……で、お前はどうするつもりなんだ?」
「杏奈ちゃん面白いね。突然睨みつけてくるなんて、どうしたの?」
つい今しがたのやり取りを無かったことにして話を進めようとしたのだが、どうやら彼の方にその気はないらしい。杏奈が向けた視線の意味をどこまで察したのかはわからないが、あの行動はかえって達哉の興味を惹いてしまったようだ。
「別に。お前のその笑顔が崩れたりしないかなって、少し試してみただけだよ」
杏奈は小さくため息を吐くと、その質問に素直な答えを返した。
加えて
「こういうプライベートで話してる時にも営業スマイルされるのは、あまり好きじゃないっていうのもあるけど」
と鋭く尖った一言も添える。
しかも、夏に向けて早くも熱量を上げてきている太陽の温度すら一瞬忘れてしまいそうな、冷たい声音である。
達哉の固い笑顔の盾を前に、形として敗けとなった杏奈の負け惜しみも含まれた一言ではあったのだが、さすがにこれはやり過ぎだったのかも知れない。
言葉をぶつけられた側は気丈にもその顔から笑顔を消すことはなかったが、困惑の表情も同時に浮かべていた。
「うーん、そう言われると困るけど……でも、やっぱり杏奈ちゃんは面白いね。まさか面と向かってそんなことを言われるとは思わなかったよ」
「あーいや。わたしも言ってからひどい言葉だなって思った。ごめん、謝るよ」
「いいよ、全然気にしてないから」
達哉はそう言うと、今度は楽しそうな笑顔で笑う。
学校では見たことのないその表情は、失言してしまった杏奈の後ろめたさを忘れてしまうほどだった。感情の読めない笑顔という名の仮面とは大違いで、受ける印象も全く違う。
表情を固めて感情を隠している姿ばかり強く印象に残っているせいか、杏奈は達哉のことを、他人との付き合いのために明るく接しているだけで実は付き合いの悪いヤツなのではないかと思っていたのだが、それは思い違いだったらしい。
「でもそう言ってくれるなら、杏奈ちゃんといる時はやめようかな。この顔を作って人と接するのは、やっぱり息苦しいところもあるんだよね」
杏奈の言葉に自分も本心を出そうと思ったようで、達哉は明るい雰囲気の表情を見せた。
あの表情を維持しているのは、杏奈が思っていたよりも窮屈なものだったらしい。
「それはそうだろ。その分周りに気を配ってるってことだろうし。お前はいつも、相手に気を遣ってるんだろうな」
「あはは、それが性分だからね」
「……疲れないのか? それ」
杏奈自身も学校ではそれなりに周りへと気を配っていると自負しているが、それはあくまでクラスで委員長を任されているからという所が大きい。つまり、彼女の中では仕事をしているという意識があるからこそ、できているのだ。もしそれがプライベートとなると、誰か一人ならともかく誰に対しても常に気を遣うなんてことはとてもできそうもない。
ただ、それができないからといって親しくなれないわけではない。気を遣い親切にしすぎてしまうと、逆に距離が縮まらないことだってあるだろう。
「慣れればそうでもないよ」
しかし達哉は笑って言った。
「ふーん……?」
対して杏奈はその顔を怪しむように目を細める。楠本達哉の笑顔は信用ならない。そういうかのような目だ。
またも二人の睨み合いになる……かと思いきや、今度の杏奈はそれほど達哉を長い時間睨むことなく、すぐにその視線を柔らかいものにすると「まあいいや」と言って話題を変える。
「それで……ってさっきも訊いたけど、お前は今からどうするつもりなんだ? 誰かとのデートは無くなったって言ってたじゃないか」
「それは考え中なんだよね。もし杏奈ちゃんが今からデートしてくれたら、このまま帰らずに済むんだけど」
「何でそうなるんだ……。わたしはお前とそんなことしないぞ」
「わー、すっごい普通にフラれた!」
杏奈が自分から確認したこととはいえ、彼女に達哉と二人でデートをするという気はなかった。何より彼女にもここに来た理由というモノがあり、遊びに来た達哉とはそもそもの目的が違う。
しかし、彼女の用事はそれほど時間のかかるものでは無く、むしろごく短時間で終わってしまうと言ってもいい。それでも意気込んで店が開店しはじめるような早い時間を狙ってきたのは、慣れない土地を一人で歩くせいで、迷うことも見越した上でのことだ。
もしここに土地勘のある人間がいれば、それこそ「家電製品を扱う店の場所が知りたい」という杏奈の目的は、すぐにでも終わってしまうだろう。その結果、時間がかなり空いてしまうのは間違いない。
「まあでも、わたしがここに来た目的を手伝ってくれるなら、そのお礼ってことで後の時間は一緒に遊ぶっていうのも悪くはないかな」
そう思ったため、「気は乗らないけど」という気持ちを込めて遠回しに条件付きで了承しようとしてみれば、
「あ、もしかして本当は杏奈ちゃん、オレとデートしたい?」
常に人に気を遣うという達哉はどこへやら。いつも学校で遠目に見る性格とは全くの別人としか思えないような調子のいい言葉が飛んできた。
普段は周りの男子がかすむほどの紳士っぷりだが、今の彼は同い年の男子たちと変わらないお調子者である。いや、杏奈の言葉に対するお返しをされてしまったのかもしれない。何というか、仲のいい同性の友達と馬鹿な会話をしているような気さえしてくる。
「……はぁっ、やっぱりいい。一人で行くよ」
それに引っ張られたのだろう、杏奈も晶たちと接するような「いつも通り」の態度になっていた。
良く分からない冗談を飛ばしてくる晶に対するのと同じように、杏奈はふいっとそっぽを向いて歩き出す「フリ」をする。
「えー、それはひどいよ杏奈ちゃん。オレも一緒に行っていい?」
すると彼女の予想通り、達哉は唇を尖らせた。立ち去るフリは悪ふざけだと見破られているようだが、どうやら彼は、かなり本気で杏奈と一緒にいるつもりのようだ。
「まあ別にいいけど。面白いところに行くわけじゃないぞ?」
何が面白いかは人によってその感覚は様々ではあるが、少なくとも杏奈にとって、いわゆる電気屋には特に面白いと思う要素はない。ましてや店の場所の調査という目的となれば、余計に「お仕事」のようなモノになってしまう。
その気持ちを示すように、
「どこに行くの?」
という達哉の質問にも、
「どこかに家電製品を売ってる大きな店があるって聞いたから、そこを探しに行くんだよ」
感情のあまりこもらない声で、事務的にそう答えるだけだった。
「場所は知らないんだ。何か買いに行くの?」
「いや、何かが壊れる前に場所だけ知っておきたくてさ。それだけ」
「ふーん? でも……それならここじゃなくてもいいんじゃない?」
達哉は杏奈の言っている意味は理解したようだが、彼女の身の周りのことについてはほとんど知らないらしい。
彼の言う「ここじゃなくてもいい」とはつまり、電車でわざわざ来るまでもなく、ここ以外にも家電量販店はあちこちにあるんじゃないか。そう言っているのだ。
「まあそうなんだけど、わたしには保護者ってのがいなくてさ。車が使えないんだよ」
「え? あ……ごめん、知らなくて」
杏奈の家庭事情に警戒しないまま踏み込んで、しまった、と達哉は思った。いくら普段の彼が紳士的とはいえ、この手の複雑な領域に足を踏み入れてしまってはリカバリは難しい。特に、まだあまり親しくない相手ともなればなおさらに。
だからこそ彼は普段から、そういった方向へ話題が向かないように注意を払っているのだが、今の注意力が欠け落ちた素の状態では、その辺りへの気遣いもほとんど行えていないのだった。
「気にしなくていいよ、もうずっと前からだからさ。で、ちょうど昨日、紗江たちにこの商店街にも店があるって教えてもらったんだよ」
「そうなんだ。じゃあちょっと歩くけど、色々そろうところがあるから、そこに行こっか」
「楠本は場所を知ってるのか?」
「うん、一番大きいのはあの店だと思うから」
「そっか。実はわたしここ初めてなんだ、そこまで道案内してもらっても良いか?」
「もちろんいいよ」
達哉は杏奈の言葉に頷くと、二人のいる場所から一番近い商店街の入り口である東朱雀門と呼ばれる門のオブジェクトをくぐって、その奥に続く朱雀門通りを歩き始めた。
デートは杏奈の目的が済んでから、という話ではあったが、手が触れあいそうな距離で並びながら歩く二人の姿は、傍から見れば恋人同士のように見えるほどだった。
ただ、杏奈が気づくことはない。
彼が他の少女たちと並んで歩く時とは、少しだけその距離が近いということに。
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