そして、何かが動き始める1
杏奈は慣れない手つきで穴の開いた切符を取り出すと、それを改札機に通した。普段から鉄道を利用する機会がほとんどないため、その動作に少しもたついてしまう。そんな彼女が改札を通り抜けるのを急かすように後ろでICカードを認識させるピピっという音が鳴ったかと思うと、すぐにまた電子音が続く。
日曜日の今日、この駅にはかなりの人がやって来ていた。
それもそのはずだ。
杏奈がやってきたここは緑ヶ丘駅。すぐそばには緑ヶ丘商店街があり、駅から少し離れた場所にはカラオケやボーリングなどの入るレジャー施設も数多く建っている。
友達と遊ぶなら、恋人とデートするなら、一人で暇な時間をつぶすなら。この辺りで休日の開いている時間を持て余したらどこへ遊びに出かけるかと街頭アンケートを取れば、半分以上の人がこの緑ヶ丘に行くと答えるかもしれない。
それほどこの場所にはいろいろな遊びスポットが固まっていて、平日も休日も人が絶えないのだ。
しかも緑ヶ丘商店街は、「欲しいものがあればあそこに行けばいい」と言われるほど何でもそろうというイメージを人々に持たれている。
それを証明するように、
「ボクの普段着もほとんど緑ヶ丘で買ってるんだ~」
と晶が言うほどだった。
晶の普段着といえば、見れば一目でそれとわかるロリータファッション……特にゴスロリと呼ばれるものだ。
杏奈には細かいことは分からないが、白だったり黒だったりピンクだったりと色のバリエーションが豊富なばかりか、夏に着るのは暑そうな重ね着をするものから、かなり露出度の高いものまで彼女は持っているらしい。
曰く、
「和ロリもあるんだから侮れないよね!」
とテンションが上がるほど、緑ヶ丘商店街にはメジャーな物からそれはもうマニアックな代物まで、何でも揃うらしい。
真奈が補足で、
「服だけではない。店が色々あってな、必要なものは大抵そろうんじゃ」
とも話していたことから、「何でもそろう」のが晶の趣味に合ったものだけではなさそうだということも分かる。
だからといって、食品など毎日の生活をする上で頻繁に必要になるものは身近な場所ですべてそろってしまうため、杏奈がすすんでここまでやってくることはまずない。しかし今日こうしてやって来たのは、昨日の晶たちとの会話があったからだ。
普通に生活するだけであれば身近な店ですべて足りるものの、今ある家電類が機嫌を悪くしたり長い眠りについてしまうと、代わりのモノをどこへ買いに行けばいいのかという情報が、杏奈には無い。正確には全く無いわけではないが、そういった店は車で行かなければ到底たどり着けないような、遠くに建つ店ばかりなのである。
一人暮らしをしていて車の免許が取れる年齢でもない彼女にとって、実際のところそういった店舗へ行くのは不可能に近い。
しかし昨日、そういったものを売っている店が電車で行ける緑ヶ丘商店街にあるという話が出たため、特に用事が何もなかった今日、店の場所を確認するだけしてみようと思って来たのである。
それに、友人たちの口からはそろって良い評判しか聞こえてこないこの場所には、杏奈としても前々から興味があった。散歩がてら歩き回ってみるのも、時間を持て余した今日の予定なのだ。
そんな彼女は駅の出口へと続く階段を下りて外に出ると、小さく「おぉっ」と感嘆の声を出した。
商店街の入り口は駅の西側出口を出てすぐにあると聞いていたが、まさにその言葉通りで、駅のロータリーとほぼ隣接するような形で、噂の緑ヶ丘商店街の入り口はあった。
ロータリーには三、四メートルほどの高さの時計台が立っていた。そこを待ち合わせの目印に使っているらしく、周りにはかなりの人だかりができている。
「さて……と」
小さく呟いて、杏奈はどうするべきかと周りを見回してみた。
しかし、人の多さから期待をしていたものの、案内所のようなものは近くにはないらしく、交番のようなものも見つからない。地図を見るならコンビニだが、そういったものもすぐ目に付く場所にはなかった。
何か代わりになるものはないかと探していると、ちょうど人垣が途切れたその先に、案内板らしきものを発見する。
右も左も分からないこの土地のことを知るため、杏奈は迷わず案内板へと向かった。
ちなみに、現代に生きる女子高生である杏奈はもちろんスマホを持っている。スマホの地図アプリを開けば現在位置なども分かって便利なのだが、機械音痴を自覚する彼女には、こういう時にスマホを取り出すという発想がそもそもなかったりする。
周りを行き交う人たちがスマホの画面を見ていることには気づいているのだが、今の状況にスマホが使えるということを思いつかないのだった。
◇◇◇◇
緑ヶ丘商店街の全体が描かれた地図を、杏奈が見始めて十分。
それだけ経っても、未だどうしたものかと困り果てる姿がそこにはあった。
図に描かれた商店街は、東西南北に大きな通路が『#』の字を描くように通っていて、さらに中へ『十』を書くように通路が延びているらしい。初めて来た人でも、一番外の道を一週まわれば、ほとんどの店にたどり着ける。
そしてちょうど地図の真ん中には、廿夜ノ蔵という大きな蔵が描かれていて、どうやらこの蔵を中心に発展してきた商店街のようだ。
ところが困ったことに、パッと見て分かる情報といえば、それほど多くない道の配置と中心に大きく描かれた蔵の名前だけだった。
なにしろ、緑ヶ丘商店街というのは一辺が一キロほどもある大きな範囲の総称なのだ。
このパンフレットを広げたくらいの大きさしかない地図上では、とても店一軒の名前まで書くことはできない。
それを補うためなのだろう。一つ一つの建物の場所には番号が書かれていて、地図の周りにずらっとその番号と対応する店の名前が書いてあった。
しかし、それを見たところですぐに分かる訳もない。
店名を覚えて地図上の番号を探しても見つけるのに相当時間がかかってしまう上、今の杏奈のように「こういう店に行きたい」という漠然とした情報だけでは、店名からは何を売っているのか見当も付かず、どこへ行けばいいのか分からないのだ。
案内図が案内することを諦めている。そう言わざるを得ない状態である。
ここだけ妙に人口密度が低くなっていることを少し不審に思っていた杏奈だったが、通行人は案内図を見やすいように開けて歩く一方、この分かりづらい図を見ようとする人が誰もいないせいなのだろう。
肩をすくめて小さくため息をつき、杏奈はどうしたものかと考える。
分かりづらいとはいえ全体図はあるおかげで、おおよその全体と現在位置を把握することはできたのだから、このまま突入してしまうのもアリではある。
よほど恐ろしい方向音痴でない限り、一番外の道を周ってここに戻ってくるのは難しくなさそうだ。
それに今日、杏奈は一人だ。万が一歩いていて迷子になったとしても誰にも迷惑はかからないし、知らない土地を自分の足で歩きながら店を覚えるのもまた楽しいだろう。
当たって砕けるつもりで緑ヶ丘商店街へ踏み込むことを決断した杏奈は、体の向きを変えて足を踏み出し……かけた。
「わっ!」
地図を見るのに夢中になりすぎていたのか、いつの間にか隣に人が来ていたことに気づいていなかったのだ。
幸いその人との距離はあまり近くなかったため、踏み出したその足がぶつかることはなかったのだが、謝ろうとその人の顔を見たところで、今度は目を丸くして驚いた顔になる。
「行きたい店がどこにあるか分かった? 杏奈ちゃん」
なぜなら、まるでそうすることが当然であるかのように話しかけてきたその男が、杏奈の良く知る相手だったのだから。
「楠本!? ビックリした……」
その相手というのは、杏奈のクラスメイトですぐ後ろの席に座る、楠本達哉。
杏奈と達哉は同じマンションに住んでいるが、彼がバスケットボール部に入っているため、登下校の時には全く顔を合わせない。この一か月足らずの内にすっかり学校の中でしか会わない相手となっていた存在に、まさかプライベートでばったり出くわすとは思ってもいなかったのだ。
杏奈は「何でこんなところに?」とありきたりな言葉をかけそうになり、しかし学校で時々この男とデートしたという話が聞こえてくるのを思い出して、
「……今日も誰かと待ち合わせか?」
と言った。
「うん、ちょっとデートの約束をね。さっきドタキャンされちゃったんだけど」
達哉は杏奈の質問にそう答えながら、ドタキャンされたことをあまり気にしていないという様子で、笑顔のままスマートフォンをジーンズのポケットから取り出して見せた。
つまり電話かメールか、それとも何かしらのSNSを通して都合が悪くなったと連絡があったということなのだろう。
「へぇ、お前でもドタキャンされたりするのか」
杏奈はそうつぶやきながら、とても珍しいものを見るような目を彼に向けた。
学校ではいつも嬉々とした女子たちに話しかけられているし、体育の前後の着替え中にはこの男と休日にこんなデートをした(したい)という話が繰り広げられたりもするほどで、ファンの女子たちからはテレビの中の有名人と同等か、それ以上に熱い視線を浴びる男子……それが楠本達哉なのだ。
休日はさぞあちこちの女子(主に実在するらしい非公式ファンクラブのメンバー)からデートをせがまれているのだろうと杏奈は予想していたのだが、あまりにも引っ張りだこにされているイメージが強かっただけに、ドタキャンされている姿は想像できなかった。
それだけ、普段の噂話を聞いているだけでも、達哉と一緒に過ごす時間を作るにはかなりの努力や運が必要になるのだろうと思っている。どうしてもキャンセルしなくてはいけなくなったその誰かはお気の毒様だな……と思いながらも、彼女にとって結局のところは他人事なのだった。
「時々はね。相手の子にも色々あるはずだから、急に予定が入ったりするのは仕方ないよ」
そしてキャンセルされた側はといえば、とくに怒る様子も無く、いつも通り感情が全く読めない笑顔の仮面を着けていた。
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