晶、悪巧みする8
「お疲れ様です、『ふうと』くん」
この店で店員同士が呼び合う時は、相手が執事なら名前+くん、メイドなら名前+ちゃんがルールとなっている。それは同性相手でも変わらないのだが、これまで一度だって誰かをくん付けやちゃん付けで呼んだことのない杏奈にとっては、少しくすぐったいルールだった。
とはいえ、杏奈は「ゆうか」としていて雪兎は「ふうと」ということになっているし、こうして名前を変えていれば、あくまでお互い仕事仲間だと割り切って考えられる分はいくらかましだろう。
ちなみに、今日一日の助っ人でしかないもう一人の新人メイドである紗江は、「もも」という名前で働いているし、晶は「かな」だ。
「どうですか、仕事の方は? 見ている限り、結構慣れているように感じますけど」
「はい、実は過去に少し経験したことがあります。その時に教わったことそのままなのですが……問題ないですか?」
短期間の経験だったため、その知識を流用するだけで仕事がこなせるのか自信のなかった杏奈は、逆に質問を投げかけてみるが、
「やっぱりそうでしたか。大丈夫、全然問題ないですよ」
指導責任を持つはずの晶が完全に彼女を放置している……つまり何も教えようとしていない状態で、それと同じく、雪兎も杏奈の接客には不安を感じていないらしい。ひとまずは合格の評価を貰うことができて、杏奈はホッと一安心した。
「ありがとうございます。そう言って頂けると、自信が湧きます」
「キャラ作りも完璧ですよ。普段とはここまで違うキャラを持っていたなんて、正直驚いています」
「ふふふ、もちろんメイドとして働いている時だけですよ。優しくもアブナイお姉さんを演じるのは」
杏奈は化粧で普段よりも目尻が下がって見える目を細めて、悪戯っぽく笑う。
「危ないお姉さん、ですか?」
「はい。お姉さんを怒らせると、こわーいお仕置きが待っています」
そして言葉を返しながら、その目は変えずに口元だけニヤリと歪ませるのだ。
怖いお仕置きとやらが果たしてどんなものなのか。その表情を見せられた方は背筋がゾクリとしてしまうほど、見た目が変貌している。
「すごい、ですね。私も『ゆうか』ちゃんを怒らせないように気を付けます……」
恐怖を感じたのは、この手の仕事に慣れているはずの雪兎も同じだったようだ。心なしか、彼の体が杏奈から半歩ほど遠のいたような気もする。
それはあまりにも彼女の作り出す雰囲気がリアルだったためだが、このキャラ作りは、決して杏奈が女になったことで完成したわけではない。男の頃に七海にこのキャラを叩き込まれた時点で、今と同程度の完成度があった。
しかし、結局は言葉と雰囲気で相手を威圧するのが目的でしかなく、「それ以上したら、お仕置きですよ?」と言わなくてはいけないような状況になっても、実際には恐ろしいお仕置きなんて何も用意されていないのだ。
後から聞いた話では、七海にとっては、幼馴染の女装男子にそんな顔をさせて誰かを驚かせるだけが目的だったらしく、自らの仕込んだ「芸」がどれほどのものか確かめたいという気持ちだけで、メイド喫茶に潜り込ませようとしていたそうだ。
――一番恐ろしいのは七海だよ……
と、結局は執事としてのバイトになった忙しい二週間を乗り越えた後、恨みたっぷりな目で彼女に言った時のことは、今でもはっきり思い出せる。
その経験がまさかこんな形で活きることになるとは、人生何が起きるか分からないものだ。
「ちょっとー、メイドと執事が店内でいちゃつくの禁止―っ!」
そこへ達哉たちの座るテーブルから戻ってきた晶が、二人を引き裂くように間に割り込みつつ、杏奈の方へと不機嫌そうな目を向ける。
人の男にちょっかいかけるのやめてくれる? と言いたそうな目だ。
実際には彼女の思うような状況ではないのだが、確かに店員同士の私語が長くなるのはマズい。
「ではわたしは、お食事を運んできます」
ここは退散するのが吉だと思い、杏奈は、予想外に早く出てきた達哉たちの座る十三番テーブルからの注文品であるオムライスと、上にかけるためのケチャップを受け取った。
するとそんな彼女へ、カウンターの奥から白い調理服と帽子を身に着ける瀬口という名札を付けた青年が、半泣きで
「メイドさーん、後で俺にもケチャップ文字書いてくれぇー」
と声をかけてきたのだ。
「え、えぇっ!?」
しかしあくまでヘルプでしかない杏奈は、彼の口にした言葉に、そしてその原因不明な半泣き顔にただただ驚くしかない。
恐らく賄いという形でかなり遅い昼食を摂ろうとしているところに、注文が入って来て食べるに食べられない状況が続くことを悲しんでいるのだろうが、客ではない彼にそんなサービスをしてもいいのか、彼女には判断することができない。
「こういうのってやってもいいの?」
通らない声だったとはいえ恐らく距離的に聞こえていたであろう晶に問いかける。
「んー、たまにやるね。それ持ってった後で書いてあげたら?」
色々と事情を知っているらしいバイトの晶は、特に気にしない様子で言う。
ちなみにまだ彼女は雪兎と杏奈の間を遮る形で立っていて、邪魔者はさっさとどっか行っちゃえ、と視線だけはまだ敵意剥き出しである。
「また後で書きに来ます」
調理係の彼にそう言い残して、杏奈はケチャップをエプロンのポケットに入れて十三番テーブルへと向かった。
「お待たせいたしました、こちら、ふわトロ半熟オムライスになります」
「お、待ってましたっ!」
そして案内をしながら皿をテーブルに置くと、達哉の正面に座る少年が、オムライスの方へと目を向けた。
どうやらこの品は、彼の注文らしい。
「よろしければケチャップで文字をお書きいたしますが、どうなさいますか?」
「もちろんお願いします! えーっと、こうくんLOVEでっ!」
ケチャップ文字の内容を指定しながら、彼はふっふーんと勝ち誇ったような笑顔を正面に座る達哉へと向けた。
対して達哉は、いつもは見せないような座った目で彼の目を見返しながら、
「浩市……」
何やら憎々し気だった。
しかしこの二人の間に何があったにせよ、今は店員である杏奈に干渉する理由は無い。相変わらず男子相手の時には表情豊かな達哉のことも意識の外に追いやり、皿の上に乗せられた、大きいようであまり面積のない卵の上に、「こうくんLOVE」の文字とそれを囲うハートマークを書く。
途中、ずっと達哉がこちらに視線を向けているのを笑顔で無視し続けるのが、少し大変だった。
「お待たせいたしましたご主人様。ごゆっくりお召し上がりください」
なぜか向けられる視線によるプレッシャーの中、ミスなく書き上げた杏奈はそれを達哉が浩市と呼んだ少年の前に置き、一礼して再びカウンターのある店の奥へと引き下がった。
もしかしたらと思っていたが、杏奈の場合は晶のように呼び止められることはなかった。
未だ達哉が杏奈の存在に気づいていないことも考えられる。
しかし根拠はないものの、メイドの「ゆうか」がクラスメイトの如月杏奈であることを達哉は気づいていると、杏奈本人は感じていた。先ほど晶が呼び止められた時に、その情報を話していたのではないかということも。
それでも呼びかけてこなかったのは、杏奈を呼び止めたところで、何か話す用事も無いからだろう。機嫌が良ければ「仕事どう?」と訊いてきたのかも知れないが、話せることもそれくらいしかない、薄い関係なのだ。
もし逆の立場だったら呼び止めるだろうかと考えれば、杏奈ならノーである。
「『ゆうか』ちゃん、おつかれー」
「お疲れ様です、『ゆうか』ちゃん」
そしてカウンターの近くまで戻ると、早くも休憩を終えた紗江が特大グラスに大盛りのパフェを運んで行くところで、晶がそれを送り出そうとしていた。紗江がパフェと一緒に十三番テーブルの伝票を持っていることから、恐らくそれが達哉の注文品なのだろう。
「二人とも、お疲れ様」
挨拶をしながらも、視線が一瞬だけパフェの方へ向いてしまう。
何という大きさ。
それ以外に感想が出てこないほど、そのパフェはグラスも内容量も半端では無かった。
現実から離れそうになった思考を引き締めるため、杏奈はそのパフェを持つ少女の方へと視線を向ける。
「『もも』ちゃん、休憩終わるの早かったね」
「んー、あの子も心配性なとこあるからね。三十分は休んでたし、大丈夫じゃ無い?」
決して短いわけでは無かったが、それでも一時間と決められている休憩時間にはまだ達していない。とはいえ休憩は合計一時間であればいいようで、
「初めての接客だし、後でまた休める方がいいよ」
と先輩メイドが言ったため、休み時間を分散するのもありか、と納得する。男だった頃のバイトでは、休憩時間なんて取れないこともあった。取るなら一度にまとめてということが多くて、そういう考え方が新鮮だったのだ。
そんな話をしていると、休み時間が取れていない人から声をかけられていたのを思い出す。
フロアの方へ眼絵を向けても接客が必要そうな状態ではなさそうだったため、杏奈は奥のカウンターまで行ってその向こうに呼びかけてみた。
「瀬口さん、ケチャップ文字書きに来ましたよ」
「え、マジで書いてくれんの!?」
ところが彼は、自分で頼んでいたにもかかわらず期待していなかったようで、やる気がなさそうにフライパンに入れた何かを菜箸でかき回していたのだが、杏奈が声をかけると目を輝かせて「ちょっと待って!」と言う。
そしてフライパンの中身を皿の上に盛ったケチャップライスへと乗せると、
「んじゃ、これに適当に頼むよー」
と再び(今度は嬉しそうに)半泣きになっていた。
どうやら、ケーキなどを乗せる皿に一、二センチほどの平らな形にケチャップライスを整え、客に出す品としては焼きミスしたらしい卵を、そぼろ丼のそれに似た程度まで固く焼いて乗せたらしい。
面積で言えば、メニューのオムライスよりも大きく、メッセージも書きやすいものだった。
「はい、少ーしお待ちくださいね」
杏奈はそれに、「せぐちさん おりょうり ガンバレ!」と三行に分けた丸文字と、左上と右下に小さなハートを二つずつ書いて「どうぞ」と皿を返した。
今日だけしか入る予定のない彼女に、たまたま巡って来た要望だ。残りの仕事時間も元気が出て来そうな感じの応援メッセージにしてみた。
なにせ、どこかいじけた雰囲気すら醸し出していた彼があのまま料理器具を操ったのでは、また失敗を繰り返す危険性がある。それを防止するために力になれるのであれば、この程度お安い御用だ。
「うぉー何だこれ、こんだけなのにめっちゃ嬉しいぞ!?」
「仕事が終わる時間まで折り返しですよ。ここからも頑張りましょう」
「うっす! 何か久々超元気出たわー、メイドさんマジありがと!」
瀬口が両手で皿を掲げながら奥に去って行くのを見送り、杏奈も微笑みながら振り返った。些細なことではあるものの、あれほど喜んでもらえたところを見ると、こちらも嬉しくなる。
背後から、
「これ撮ってツィートしよっ!」
「おいバカやめろ、絶対どっかで炎上するっ!!」
とはしゃぎ過ぎな声が聞こえてくるが、カウンターは少し奥まった所にあるため、恐らくフロアの方までは聞こえていないだろう。
「『ゆうか』ちゃんって意外と女子力高かったんだ……。ボク、結構驚いてるんだけど」
「ふふふ。今はメイドなんだから、とーぜんとーぜん」
「でもさ、あれだけできるんなら何でいつもは隠してるのさ」
「もちろん、普段はメイドさんじゃないから、だよ」
メイド服を着てメイクをした上にキャラ作りまで行っている杏奈ではあるものの、できることは全く変わっていない。
晶からすればさっきのは杏奈の持つ女子力の「一部」に見えたのかも知れないが、残念ながらあれは、彼女が今できる全てを出した正真正銘の全女子力である。
元々男であった経験を活かして、どんな感じのメッセージなら元気づけられるかを考えるヒントにした上、小さくハートを書いてみよう、などの飾り付けはあれが精一杯だったのだ。
だというのに今のキャラが裏目に出て、つい、自身のハードルを上げる方向にはぐらかしてしまった。
そのおかげで、晶からはじとーっと怪しいものを見る目つきで見つめられてしまっている。
しかし、言った言葉が完全に嘘になるとも限らない。
今の杏奈では女としての生活を続けていくのは前途多難であるものの、こういった小さな経験から、少しずつできることを増やしていければ。そう思っているのだ。
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