晶、悪巧みする6
ヘルプとはいえほとんど部外者である杏奈は、部屋にあるものだからと勝手に使わず、まずは関係者に声をかけたのだった。
そして木箱を開けると、下地用のクリームとスポンジを取り出して、顔に塗り始める。
メイド服への着替えは上手くできたものの、普段からほぼメイクをしていない杏奈は服と自分の顔があまり合っていないと思い、メイクで調整しようと思ったのだった。
「あ、あれ? 晶ちゃん、このパニエってどうやって留めるんですか?」
杏奈の対応も終わってようやく自分も着替えができると、あてがわれたロッカーでゴスロリを脱ぎ始めた晶だったが、パーツを確認して着替えを順調に始めていたはずの紗江から、再び声をかけられた。
「普通に留まると思うけど。左の外側に紐が出てるでしょ?」
彼女は脱いだ服をハンガーにかけながら、ちらりと紗江へと目を向ける。
もう既に何度も店のバイトに入っている晶は、当然、服の構造を隅々まで覚えている。わざわざ見て確認するまでもなく、返事を返した。
「紐……ですか?」
言われた通り左側に目をやってみるものの、それらしい先端は見つからないようで、
「安全ピンならありますけど」
紗江は代わりに見つけたものを口にした。
「安全ピンって。なにそれ」
しかし、流石にそれは何を指しているのか分からないようだ。晶は上下とも白のレースという、ゴスロリの質感に合わせているのかそれとも単なる背伸びか、かなり判断に困る下着姿でとことこと紗江の近くまでやって来た。
「これなんですけど……」
「ふーん。もうさ、適当に安全ピンで留めちゃえばいいんじゃない? 貸して!」
本来であれば、ウェスト部には一目見てすぐに分かるほどの長さの紐が垂れ下がっているはずなのだが、紐は無く紗江の言う通り安全ピンだけが刺さっている。
それを見た晶は、細かく調べるのが面倒になったのだろう。紗江が押さえることで何とか固定されているパニエから安全ピンを抜き取ると、きゅっとウェスト部分を引っ張ったかと思えば、雑な手つきでピンを差して留めてしまう。
「大丈夫なんですか? これで」
「多分ねー」
あまりにも手抜きな処置をされて紗江は不安そうな声を出したものの、晶はあっけらかんとした様子で自分のロッカーへと戻って行ってしまった。
確かにずり落ちなくなったし、生地にもピンにも無理な力がかかっているようには見えない。よほど強い力で引っ張らなければ安全ピンが壊れたりする心配もないのだろう。しばらく触ってみて問題がなさそうだと判断し、紗江はワンピースを頭から被りにかかった。
他には大きな問題もなく着ることができ、エプロンの位置調整やリボン結びをやってカフスの具合を確かめている間に、後から着替え始めていたはずの晶もすっかり変身を終えていた。
「……やっぱり、このスカート短くないですかっ!?」
そして露出度の高いメイド服に、紗江はもう一度抗議の声を上げた。
内側からふわりと広げられたスカートの裾は彼女の太ももの半分より上にきてはいるものの、それは下にパニエがあるため、当然である。もちろん覗きこんでも下着が見えることはなく、スカート裾から覗くフリルの長さも晶が着ているそれとほぼ差は無い。
ただ、彼女にとっての問題は中が見えるかではなく、足の露出している長さだった。
中学の頃からスカート裾の長さは膝下にしてきた紗江には、いきなりももの部分が半分も露出する格好となるのは恥ずかしいのだ。
「えぇー……?」
顔を赤らめて必死に裾を抑える紗江には、流石の晶も「そんなこと言われてもなぁ」とかなり思案顔になっていた。
仕事で着る制服に寸法での間違いがない以上、そこを恥ずかしがられてしまっては対処のしようが無いのだ。
「大丈夫だよ、紗江」
そこに、これまた恐るべき手際で化粧し続ける杏奈が、道具箱へと使っていたファンデーションを戻しながら声をかけた。
しかし彼女の言葉を聞いた二人は、「ん?」と不思議そうな顔でそちらに視線を向ける。
普段の杏奈と比べても言っている言葉自体はほとんど変わらないのだが、その発音の仕方が明らかに違っていたのだ。
いつもであれば下げ調子の発音で「大丈夫だよ」というのだが、今のそれは完全に上げ調子だった。杏奈らしからぬ、上品さすら感じられる優しい言葉遣いである。
「ちょな……誰っ?」
「あ、杏奈ちゃんっ!?」
そして二人の前にいたのは――正確には鏡に映った杏奈の顔は――良くよく見れば辛うじて杏奈と分かる……気がしなくもない、顔の輪郭すらもかなり変わったように見える少女だった。
「どうやったらそこまで顔変わるの?」
と晶はぼやいていたが、杏奈はそれにやんわりと微笑むだけで答えると、今度は少し色の濃いコンシーラーを箱から取り出す。そして、まるで正面から見ると平らのようにも見える今の顔に、かなり薄く「影」を付けてふっくらとした頬を作っていく。
「午前中話してたこと覚えてる? 晶が服で自分を変えられるって言ってた話」
「覚えてます……けど」
「それと一緒だと思うよ」
「一緒、ですか?」
「そう。メイド服を着た紗江は柳橋紗江じゃなくて、メイドの一人なんだって意識するんだよ。ご主人様をおもてなしして、喜んでもらう。そのための姿なんだって」
その話し方から妙な違和感を覚えていた二人だったのだが、杏奈が徐々に「大人びた女性」へと変化していくにつれ、落ち着いていて優しい話し方がむしろしっくりくるようになっていた。
すると自然とその話自体にも説得力が出てきて、
「メイドとして、ご主人様に喜んでもらうための姿……ですか」
噛みしめるように呟いて、紗江は鏡越しに今の姿をもう一度見つめた。
そこに映るのは間違いなくメイド服を着ている紗江の姿だ。その様子をちらりと見た杏奈は更に語りかける。
「コスプレなら自分で着て楽しい形でいいと思うけど、今の紗江は制服姿だよ。それを着たってことは、お客様のために働くということ。制服ってさ、そうやって気持ちを切り替える意味もあるものだから」
目元を整え、薄くチークを塗ったところで化粧道具を片づけると、杏奈は振り返って紗江と向き合った。
その顔にはもはや、彼女たちがよく知る如月杏奈という少女の面影はほとんど残っていない。若作りのメイクとは真逆の大人の演出をするためのメイクで、しかも不自然さが全くないのが逆に不自然なくらい完璧に仕上がっている。
メイドになりきるため、骨格すら変わったような錯覚を覚えるほどのメイクをするのはやり過ぎとも思えるが、それはつまり、杏奈にとっての気持ちの切り替え方だった。
それを実際に示すことで、説得力を更に上げたのだ。
「……分かりました。私もそうなれるように、頑張ってみます」
確かに自分には意識の切り替えができていなかった。
杏奈の言葉でそこに気づいた紗江は、まずは意識改革からだと、笑顔で頷く。
「さすがに杏奈ちゃんほど思い切ったことはできませんけど」
「これは……わたしなりのやり方だよ」
恥ずかしそうな表情の消えた紗江を見て、杏奈も微笑みを浮かべた。
「……っていうか杏奈、実はメイド経験者だよね」
そして、仕上がったメイクがあまりにも服と彼女の作るキャラに合っていて、晶は信じられない、という表情で言った。
被服研究部のモデルとして作った服を渡した時に、難なくどころか予想以上に着こなした杏奈を見て、コスプレに慣れているのだろうと晶は感じ取っていた。しかし単なるヘルプとはいえメイドという仕事にここまで入り込んでしまう姿には、驚きを隠せなかったのだ。
「んー、中学二年の学校祭で、出し物を二日ほどやらされたくらいかな」
「いやいやいや。絶対それだけじゃないでしょ」
この職場は晶にとってお気に入りの場所であり、自分が存在していることを実感できる数少ない場所でもある。ちょっと変わった飲食店のバイト……などでは決してないのだ。
初めて二ヶ月でようやく仕事にも慣れて、キャラも定着してきた晶からすれば、杏奈のレベルがお遊びを二日やった程度のものではないことくらい、すぐに分かる。
自信を持てるようになった自分の気持ちが、そしてアイデンティティが脅かされている。晶はそんな危機感を抱いてしまい、つい、はぐらかすような態度の杏奈に、言葉が強くなってしまう。
「実は……夏休みに二週間、友達の知り合いがやってる店に行ってたことがあるんだ」
「二週間って、毎日ほぼフルで?」
「うん。日曜日に一日休んだんだったかな。……ごめんね、中学生の時の話だから、バイト経験って話しづらくて」
追及の結果返ってきた言葉を聞いて、晶は顔を伏せた。
館喫茶・崎篠は、バイト勤務時間は最大六時間ほどになる。
二ヶ月とはいえ晶が実際に勤務した時間は今日までで合計七十二時間ほどで、フルタイム計算では十二日分だ。そしてもちろん、連続して何日も入っていたわけではないし、研修時間も入っている。
対する杏奈は、連続七日と一日休みを挟んで六日ほどと考えられる。続けて入っていればその分、晶よりもコツをつかむまでの時間は短かったかも知れない。その予想から彼女が抱いた経験値差のイメージは、杏奈の方が圧倒的に高くなっていた。
となれば、いくらブランクは長くても「杏奈ならカンを忘れないよね」というのが晶の感想だ。これでは負けていても仕方がない。そう結論付けた彼女は顔を上げると、
「そっか。それじゃボクは、なーんにも心配する必要なさそうだね」
明るい笑顔で言うのだった。
もちろん、「でも、ボクも負けてないんだから!」と対抗心を燃やすのは忘れていない。
「あはは、でも決まりごととかはレクチャーしてもらわないと、何もできないよ」
「私も、一から教えてもらわないといけませんし……」
「大丈夫大丈夫。開店までの時間は短いけど、基本はパパッと教えちゃうからさっ! 後はやりながらでも覚えられると思うよ」
心の中では、絶対杏奈よりも凄いメイドになってやると対抗心の炎をより一層大きくしながら、晶は二人を連れて更衣室を出ると、フロアに繋がる通路へと進んで行った。
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