誰しも痛みを抱えている3
ファミレスから出た杏奈は、しばらく歩くと空を仰ぐように見上げて深呼吸を一つした。
久しぶりに……どころか、ほぼ初めてに近いほどの精神的不安定な状態を経験して、真っ白になりかけた頭の中にもう一度思考を取り戻すための動作だ。
そうなってしまった原因はもちろん、先ほどの会話にある。
杏奈は達哉を擁護するようなことを言ったが、確かに擁護しようと思った部分もある。ただ同時に、その場を乗り切るための「言い訳」としての意味を持っていたのも事実だった。心の奥にある、また別の感情から逃げるために。
それは、自分自身への罪悪感。
より正確に言えば彼女が、そして彼女たち実験体が「前世」と呼ぶ自分の行いへの罪悪感だった。
今回のことをきっかけに以前(ここ一年くらい)のことを思い出してみる。
ほかの実験体たちの中には時々精神的に不安定になって、ひどければ精神崩壊を起こして死ぬようなこともあったと聞く。
今までは何でそんな状態になるのか杏奈には想像ができなかったが、さっきのような前世の記憶に結びつく何かしらの出来事から精神的に不安定になり、酷ければ死ぬこともあるような状態になったんだと、ようやく理解できた。
研究所で暮らしていた時には、研究者たちから驚くほど安定していると気持ち悪がられていたものだが、つまりそれは、日常生活の中で精神的な負荷がかかるような強い思い出を呼び起こしてしまうような、それこそ色々な思い出を、これまで作ってきていなかったということかも知れない。
そう思い至ると、須藤祐介という人間は何とも味気ない人生を送っていたのかも、と感じてしまう。
ただ、そんな過去(記憶)を持つ彼女にも不安定となるスイッチはあった。
それは須藤祐介としての最期となったあの行動が、果たして本当に正しかったのかと……杏奈という存在になってから疑問を感じ始めている部分だった。
あの瞬間は、ただ「生き続けること」を目標に生活していただけの自分より、夢を持っていて頭もよく、少々性格に難があるものの将来有望な幼馴染の七海にこそ、生きていて欲しいと思った。だから七海を助けて、だから自分は死んだ。
……しかし。
杏奈となって研究所で暮らし始めてからというもの、自分と同じ実験体たちが時々見せる辛そうな表情に触発されて、それまでしたことも無かった過去を振り返るということをするようになった。
そうしていく中でどうしても気になったのが、果たして七海は今、普通に生活できているのかということ。
自分のことをいつまでも覚えておいてほしいとは思っていないし、むしろ生きるのに邪魔になるのであれば忘れて欲しいと思うほどだったが、人間、そう簡単に誰かのことを忘れられるものではない。
両親を失った杏奈でさえ、これと言って彼らとの思い出があったわけでもないのに、立ち直るにはかなりの時間がかかった。むしろ自分を置いて二人だけで旅行に行ったことに、恨み節をぶつけてやりたいと思っていた当時の心情を鑑みれば、七海の身代わりになったあの行動は彼女の中に深い傷を残してしまう、良くないことだったのではないか。そんな風に感じてしまうのだ。
そして今回。
交通事故で恋人を亡くしたという達哉の過去の話は、杏奈の記憶と似ている。達哉や晶は遺された側だが、杏奈は遺した側として。
更に辛いのは、亡くなった少女がきっかけで晶と達哉がいがみ合っているということ。自分が死んでしまったために、残された人たちがいがみ合っているかも知れない可能性を突き付けられて、杏奈には落ち着いていることができなかった。
ものすごく怖くなってしまったのだ。
だからと言って、こんなことを今の友人たちに話せるわけがない。
完全に我を忘れて全てをぶちまけてしまうなんてことは無く、そしてすぐに平常心を取り戻すこともできた杏奈は、自分の感情をコントロールするのが上手いのだろう。
気持ちをもう一度切り替えるため、小さなため息を一つ吐く。
そして歩いているうちに見えてきた、いつも買い物をしているスーパーに足を踏み入れた。
いくら気分が落ち込むことがあっても、今買い物をしておかなければ、家に残っている食材は良くて夕食を作れる分くらいなのだ。
明日の朝と弁当が作れないのは、女になって少食になったとはいえさすがに食べ盛りの高校生としては辛すぎる。
タイムセールは終わっていても、買い物をしないわけにはいかなかった。
「あの……杏奈ちゃん」
ここまでついて来ていた紗江が、恐る恐る彼女に声をかけたのは、そんなタイミングだった。
ファミレスでは取り乱した様子だった友人にどうやって声をかけようかと悩んでいるうちに、十五分ほど杏奈の後ろを歩くだけになってしまった。
「ぅわっ! 紗江か、ビックリした……」
こんなところで声をかけられるとは思っていなかった杏奈は、不意打ちを受けてびくっと体を震わせる。
「ごめんなさい。ずっと声をかけようとは思っていたんですけど、タイミングが無くて……」
「いや、こっちこそ気付かなくてごめん。ついて来てくれてたのか」
紗江に話しかけられて、杏奈はかごを手に持ったものの、それを戻そうとする。
心配してついて来てくれた友達を、このまま買い物に付き合わせるのは悪いと思ったのだ。
「あ、大丈夫ですよ。私もご一緒しますから」
しかし紗江はにこやかにそう言って、杏奈に買い物をするよう促す。
真奈は不安定だった杏奈に付き添ってほしいと言っていただけで、彼女が平常心を取り戻した今、紗江は再びファミレスに戻っても問題は無いはずだ。ところがそうしようとはせず、杏奈と並んでスーパーへと入って行った。
「先ほどはすみませんでした。今思えば、晶ちゃんにあんなことを訪ねるのは、不謹慎なことでしたね」
「いや、あの話を聞いたら、誰だって驚くし晶の心配をしたくなるよ」
六時半という、まだ夕食の買い出しに来ている客が途絶えていないこの時間は、並んでいる商品の質もそれほど悪くはない。
夕方のタイムセールは既に終わり閉店間際でもないため、お買い得な食材はない。それでも杏奈は、話しながらでもより良さそうな見た目の野菜を選んでは、かごの中に入れていく。
「そ、そうですね……。でも、実際に私が聞きたかったことは別にあるんです。お友達が亡くなったというその悲しい出来事を、晶ちゃんはどのように乗り越えたのか。私は、それが知りたくて」
「悲しみの乗り越え方?」
「はい。私はまだ身近に亡くなった人はいないんですが、誰かともう逢えなくなってしまった時や大切にしていたものを無くした時とかには、悲しい気持ちを引きずってしまうので」
「ああ、そういうことか。でもさ、これはあくまでわたしの予想だけど……」
紗江がその答えを求めた相手は晶だったが、ファミレスで感情任せに言葉を紡ぎ出す彼女の様子を見ていた杏奈には、その質問に晶がどう答えるのか何となくの想像がついた。
ただ本人からの直接の返答ではないので、「あくまで」と断って自分の予想を杏奈は口にする。
「晶はきっと、まだその悲しみを乗り越えられてないんじゃないかな」
「乗り越えられていないんですか?」
「多分ね。だから楠本に冷たい態度をとって、その気持ちを誤魔化しているというか……込み上げてくるのを抑え込んでるって感じだったよ」
晶が恵里子という少女の話をし始めた時、妙に表情が固くなっていたのだ。傍から見れば明るい表情ではあるのだが、それで固まっている。言うなれば達哉が見せる笑顔の仮面のような物だった。
そして声も、どこか無理に明るくしているような雰囲気でもあったのだ。
そうした変化を感じ取って、杏奈は彼女がまだその過去に対して気持ちの整理ができていないのだろうと思った理由である。
「そうですか……。だとしたら、これからはその話をしない方が良さそうですね」
「そうだな、それがいいと思う」
「はい」
あくまで杏奈の予想とはいえ晶の心情を聞いて、紗江はすっきりとした笑顔を見せた。
ただ、それも一瞬。
杏奈は紗江と会話しながらとはいえ、目はずっとあちこちに並ぶ食材へと向けられたままだった。
使い切ってしまった食材を見つけては取りに行き、保存ができる安いものを見つけてはかごに入れ、とにかく売り場を動き回るのだ。
あまりにも慣れた様子で素早く次の場所へと移動していく動きに、紗江は付いて行くのがやっとだった。
彼女は入学式が終わった後にも杏奈と一緒に買い物をするためこの店に来ていたが、あの時は夕方に再び買い物をしに来る前提で、あくまで昼食を作るための材料だけを買いに来ていたこともあり、かなり悩みながらのゆっくりとした買い物となっていた。
それがこれほど違っていれば、戸惑うのも当然だろう。
先ほどの話題がいったん途切れてからは、杏奈との会話は「どんな基準で選んでかごに入れているのか?」を紗江から質問するくらいになっている。その問いかけに対する杏奈の答えは、しっかりしている時もあれば適当に勘に頼っただけだったりと、ピンキリだった。
そして十分にも満たない短時間で夕飯から明日の弁当用までの材料をかごに入れると、
「まあ、こんなもんかな」
と言ってレジに並ぶのだった。
「杏奈ちゃんって、主婦力高いですよね」
買い物の様子を最初から最後まで隣で見ていた紗江は、思わずそんな感想を口にしていた。
「主婦力? ……そうかな」
「そうですよ。お料理も上手ですし、買い物も手際がいいですし、多分お裁縫もできるんですよね?」
「まあ、少しだけどな。ちょっと衣服が破れたからって捨てるのはもったいないし、裾直しなんかに余分なお金払いたくないし。と言ってもそれくらいで、晶の足元にも及ばないよ」
「いえ、晶ちゃんはお料理も、多分お買い物も満足にできないでしょうから、主婦力が高いわけではないと思います」
「あはは、それは確かに」
主婦力という基準で晶を見る紗江に、杏奈は冗談だと分かった上で笑いながら同意した。
「あの子の被服の腕は、どっちかって言うと女子力だろうからな。逆に、わたしは女子力なんて皆無だよ」
主婦力と女子力は相反するものだと言うように、杏奈は自分に足りないものを、自虐的に口にする。
「え、でも杏奈ちゃん、お菓子作りもできるんじゃないですか?」
「それも少しは、だな。ケーキもチョコもクッキーも作ってみたことあるけど、シンプルなものしか作れないんだよ」
「そういうのが作れるなら、女子力があると思いますけど……」
「それがさ、作るだけなら男にも作れちゃうんだよ。問題は『カワイイ』お菓子を作れるか、そしてそれに『カワイイ』包装ができるか。そこをクリアして初めて女子力なんだって……昔友達に力説されたよ。わたしもその通りだと思ってるし」
そこが無理なんだよな、と苦笑いをしながら杏奈は言う。
実際、杏奈は男の頃からお菓子作りだってできていた。正確には七海に手伝わされて始めたものだったが、それでも一人でそこそこ良いモノが作れるようになる程には上達していたのだ。そんな時に冗談交じりで「おれも女子力上がってきちゃったな」と口走った時に、今杏奈が口にした言葉がそのまま、七海の口から飛んで来たという過去がある。
杏奈はこの程度の「男だった頃」の過去を思い出しても、精神的不安定にはならない。恐らく「死んだ」という記憶を持つからこそ、そういった記憶が「前世」のモノであると割り切りやすかったからだろう、と自己分析していて、だからこそこうして過去を交えた自然な会話をすることができるのだ。
「なるほど……カワイイ包装ができてこそ女子力、ですか。確かにそんな気がします」
そして杏奈の言葉に、紗江は納得していた。
身近にも洋菓子職人を目指す男子がいたということを、思い出したのである。
プロを目指しているとはいえ、アマチュアの頃の彼らでもケーキやクッキー、マドレーヌだって作れるはず。ではそれで「女子力」が高いのかというと、違う気がしたのだった。
作ったお菓子にカワイイ包装までできてこそ、女の子らしさが出る。女子力に繋がる。
「包装まで含めて女子力だと言われると、私はちょっと自信が湧きます」
紗江は「ふふっ」と可愛らしく笑って言った。
ただ七海のあの言葉は、実際の所自分より上手くケーキを作った幼馴染の男子に対する強がりから出たものだった。
しかし例えそうだったとしても、その言葉はかなり説得力があった。言われた本人も、後からこうして聞くことになった紗江も、違和感なく納得しているのだから。
ちなみに当時から、杏奈は七海の言うカワイイお菓子を作ることも、カワイイ包装をすることもできていない。
いつも、食べられるものを作って持ち運べるように包んで終わり。そんな状態なのだ。
「わたしには、ここは女子力に自信がある! って言えるものが無いんだよなー」
精算された品物をいつも持ち歩いているエコバッグに入れながら、杏奈はもう一度そう言った。
「あと一歩、だとは思うんですけどね」
「でもその一歩が長いんだよ……」
買ったものをエコバッグに入れ、かごを返して、二人は店の外へと出る。
「わたしはこのまま帰るけど、紗江はどうするんだ?」
入ってきた道へと再び出たところで、追いかけて来てもらってしまった少女へ、今後の予定を問いかけた。
「そうですね、二人のいる所へ戻ってもいいんですけど……今日はこのまま帰ります。杏奈ちゃんとも、もうちょっとお喋りしたいですし」
そして紗江はそう答えながら、カバンからスマホを取り出してSNSの画面を開いていた。
恐らく、今言ったようなことを二人へ伝えるのだろう。
「そっか、分かった」
話題はちょうど一区切りしたと思っていた杏奈だったが、まだ話したいと言われて悪い気がする訳もない。
彼女が二人への連絡を終えるのを待って、再び駅方面へと並んで歩き始める。
「……で、話したいことって?」
話したいと言ったとなれば、紗江には何か話題があるのだろう。
そう思って杏奈はその内容を訊いてみた。
「それなんですけど、杏奈ちゃんは男の子に好かれる秘訣って、何だと思いますか?」
そして切り出された話題は、また何とも甘酸っぱさとほろ苦さの漂うガールズトークネタだった。
杏奈としても拒否する理由のない話題に、乗るのはやぶさかでもないのだが、何故そこへと移り変わるのかは分からなかった。
「男に好かれる……秘訣? 何で?」
無意識のうちに、もう一つ疑問を投げかける。
「さっき、お料理やお裁縫は主婦力だってお話してましたよね。女子力はお菓子作りだけではなくて、例えばカワイイ包装までできないといけない……とも」
「そうだな」
「ネットを見ると良く、男性にモテるには女子力が必要! というようなことが書いてあります。ですが、今日学校で先輩たちがしていたことはどちらかと言うと主婦力を上げる特訓でした。……それを男の子たちに見てもらって、効果があったと思いますか?」
そして、紗江は真剣な表情でそう答えた。
その言葉に、杏奈は「あー、なるほどな」とうなった。
今日の本来であれば部活に勤しんでいたはずの時間に、かなりの疲れを貯めてまでしたことに、本当に「意味」があったのかが分からない。彼女はそう思ったのだ。
「でも男を掴むなら胃袋を掴め、とも言うくらいだから、少なくとも料理上手っていうのはアピールポイントになると思うけどな」
本来の目的が「一人暮らしに役立つ技術を付ける特訓」であって「異性へのアピール」ではなかったため、少なくとも晶の用意した内容は本来の目的には合っているものだったと、杏奈は思っている。
しかしそこへ乗っかってしまった第二の目的、それによって集められた楠本達哉を筆頭にした男子たちには裁縫なんて興味ないだろうし、女子からのアピールが心に響いていなければ、一時間半という長い時間を無駄に過ごしたことになる。
晶たちの話を聞く限り少なくとも達哉へのアピールは失敗に終わったようだが、杏奈は良く言われるジンクスを引き合いに「成功の可能性」を出したのだった。
「そうですね、それはあるかも知れません」
少しの間うーんとうなって、紗江は唐突に、
「杏奈ちゃんは『胃袋を掴め』が成功したような体験はありますか?」
と言ったのだった。体験談のリクエストである。
「んー、わたしは料理ができたからなぁ」
何も考えずに「胃袋を掴まれたことは無い」との意味を込めて発した言葉は、
「ええ、なのでプライベートな場面で何かないかと思ったんですけど」
しかし紗江には伝わらなかった。
それもそのはずで、杏奈は「自分が元男」であることを前提に答えたのだが、そんなことを彼女が知るはずもないのだ。傍から見れば完全に話の噛み合わない答えを返したことになるのだが、幸い紗江は、杏奈の言葉を「主婦特訓なんて場でアピールしたこと無い」と捉えたようで、大きな違和感を与えることはなかった。
「へ? あ、あープライベートか。……わたしは今まで、男に手料理を振る舞ったことがないんだよ」
彼女に言われてようやく自分の失言に気づいた杏奈は、しどろもどろになりながら、答え直す。自分の不注意とはいえ、一瞬で背中に嫌な汗をかく破目になっていた。
「そうですか……。でも、杏奈ちゃんほどお料理が上手であれば、男の子の胃袋を掴めるかも知れませんよね」
「どうかな。もし偶然そういう機会があったとしても、相手に最初からその気がないのであれば、作ったものを食べたからって好きになるとは思えないよ」
「そう、でしょうか」
「事前に小さくアピールしておけば、少しは違うかも知れないけどな」
「小さなアピール?」
「ほら、ダイニングテーブルに座らせて、「今から作って上げるからね」とか言ってさり気なく肩に手を置いてみるとか、ブレザーを脱いでハンガーにかけてからエプロン着てみるとか、もっと小さくだとリップ塗ってから料理に入るとか……かな」
完全に個人の趣味嗜好がばれてしまうプチアピール例を並べて、杏奈は苦笑いを浮かべる。
今日は珍しく、男だった頃の知識が良く活かされる日だった。
「それ、アピールになるんですか?」
「人によるとは思うけど、ボディタッチとか女の子っぽい仕草とか脱ぐ動作って、満更でもない相手にされるとやっぱドキッとしちゃうものだからな」
「ダメですよ杏奈ちゃん、発言がおじさんっぽくなってますー」
「ははは、わたしくらい男っぽさを身に着けると、女の子にドキッとすることもあるからさ」
だからと言って、ネタにしすぎるのはいかがなものだろうか。今の彼女の発言は、捉え方によっては特殊なシュミを持っているのではと勘違いされてもおかしくない、そんなものだった。
「もー、晶ちゃんみたいな冗談、やめてください」
とはいえ身近なところにいたずらと冗談が大好きな友人がいる紗江には、こういった発言もきちんと冗談だと理解してもらえる。
そこは流石は晶の友達とも言えるし、流石は晶の影響力とも言える。
しかし、冗談にしても品が無いのは確かだった。杏奈はごめんごめんと軽いノリではあるが紗江に謝る。
「でも実際には、今みたいなアピールも気づいてもらえないことの方が多いですよね。そんな時には、もっと大胆なことが必要なのでしょうか……」
杏奈の冗談を受け流した紗江は、再び真剣な表情へと変わって呟くように言った。
その言葉は杏奈へ話しかけたというよりも、ほとんど自分自身への問いかけであり、頭の中で考えていることが口から滑り落ちたものだった。
呟いてからというもの、彼女は考え込むように少し視線を下に落とすと、時折小首をかしげている。
恋する乙女が想いを寄せる相手の攻略法を求めているのだろうと、杏奈は感じとっていた。その相手が誰だとは直接口にはしていないものの、恐らくは楠本達哉だろうということも。
とはいえ、杏奈も達哉を攻略する方法なんて全く知らないし、攻略しようとも思っていないために有効な手立てを思いつくわけでは無かった。
分かっているのは、多くの女子……例えばさっき真奈が言っていたファンクラブとやらに入っている人たちが様々なアピールをしても、あの男の心が決して揺らいでいないということ。彼の家のことを思えば、当然軽はずみな男女交際なんてできないことは分かるが、それならむしろ女子とのデートすらしないくらい、もっと身持ちの固い生活をしているものではないかと、杏奈は思っている。
ファミレスで晶は、達哉が「今まで一人としか付き合ったことが無い」と言っていたが、常識的に考えれば、彼に今まで一人恋人がいたという事実ですら多いはずなのだ。なぜなら、日本で最も有名な財閥の子息であるなら、許婚という関係の誰かがいてもおかしくないのだから。
もしそんな相手がいるのに恋人を作ったとなれば、その方が問題である。
あるいはその話がご破算になっていたとしても、一般人から恋人を探すというのは、少し違和感があった。楠本家の名前があれば、もっといい相手から、もっといい縁談が舞い込んでくるはずだ。一般の女子なんて、相手にしている暇もメリットもあるワケが無い。
常識的に、型にはまって考えれば、こう思うのが当然だった。
いや、これですらドラマや映画の見すぎかも知れない。
達哉は達弘とは違って、世間一般の人々に「あいつが楠本財閥会長の弟だ」と知られているわけではないのだ。つまり、普通の人たちからは「一般人」として見られている。
だから、彼は杏奈が思っているほど窮屈な立場ではないのだと言われれば、なるほどと納得するしかない。
そうやって思考を巡らせた後での杏奈の結論は、一回りして「あいつは複数の女を手玉に取る遊び人」となるのだった。
というように杏奈の中にある印象が全く変わらなかった楠本達哉ではあるものの、それでも彼の一番になりたいと思って行動する少女たちがいる。
彼自身は何を思い、様々な少女たちとデートを繰り返しているのか。女子と接するときに見せる笑顔の仮面のその奥には、一体何を隠しているのか。
恐らくその仮面を取り除くことのできた人間が、謎の多い少年の次の交際相手に選ばれるのだろう。
杏奈は、紗江を含めた恋で悩む少女達に春の訪れがありますようにと、心の中で祈るのだった。
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