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杏奈さんは少女初心者  作者: 秋瀬 満月
少女の初心者は高校生に。
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初登校日1

 トントントントン……。


 ダイニングとキッチンとリビング、その三つを仕切るものが何一つないただただ広い空間に、包丁でネギを刻む音が響きわたる。

 それは、他の家庭と比べても何も変わらない、朝食前の風景だった。

 ただ、台所に立って料理をする杏奈は主婦というわけではなく、高校の制服の上からエプロンをした、ごく普通の女子高生という見た目だ。


 しかし今日がちょうど高校の入学式で、学び舎に登校する最初の一日。いつもとはほんの少しだけ違う、特別な朝だった。

 恐らく今日を含めた四月の頭には、全国のあちこちで新しい環境に入っていく前の新鮮な気持ちや、これからのことに緊張を感じている人たちが数多くいるはずで、包丁を手に食材をきざむこの少女もまた、その中の一人である。


 新しい匂いのする制服に身を包んでいることを除けば、エプロンを着けて料理をすること自体は、杏奈にとっては日常そのもの。

 しかし、この国の女子高生の一体どれだけが朝から台所に立つだろう。それを考えれば、彼女のような家庭的な高校生というのは、とても珍しいのかも知れない。


 そんないつもとは少しだけ違う状況にどこかそわそわしながら、杏奈はできるだけ心を落ち着かせて変な失敗をしないように心がけつつ、二人分の食器に作った朝食を乗せると、それをダイニングテーブルに運ぶ。


 テーブルには、新聞を広げながらテレビとその両方を交互に見る女の人が座っていた。

 彼女は名前を如月香織といい、杏奈の今の保護者で自称でマッドサイエンティストを名乗る三十歳の独身。この人のことを、杏奈はいつも『かおりん』と呼んでいる。


 最近は前職をとある理由で失ってしまったために職探しをしていたが、この度めでたく再就職先が決まり、今日の午前中にはその職場近くに引っ越すことになっていた。

 しかし香織は「一人暮らしの経験が豊富なあなたなら、全然大丈夫よね」と言い、杏奈をこのマンションの一室に残していく決定をしたのだ。その判断をさせたのは「一人暮らしに慣れているから」とは別に、引っ越し先が杏奈の入学する高校から遠すぎるから、というのもあるのだろう。

 とはいえ、香織の言うとおり本当に一人で暮らすことに慣れている彼女は「ああ、また一人になるんだなー」と考えるだけで、特にそのことを気にしてはいないようだった。


「おまたせ、かおりん」

 そう言って杏奈は、ダイニングテーブルに二人分のベーコンエッグとレタスの千切りサラダ、ご飯、味噌汁を並べた。


 シンプルなメニューではあるが、しかし朝からそれほど多くを食べない二人にとっては、これくらいがちょうどいい量なのだ。


「あら、いつもありがと杏奈。いただきま~す」

 さっきまで眠そうに新聞やテレビに目を向けていた香織は、運ばれてきた朝食を見て目を輝かせながら、読んでいた新聞を無造作にたたんでポイと空いている椅子に放った。そして両手を合わせていただきますと言うと、箸を手にとってベーコンエッグを一口食べる。

「んー美味しい! これがないと朝が来たって気がしないのよね~」

 こんな風に朝から明るく元気なところが、如月香織という女性の特徴の一つだった。

 美味しいという香織の褒め言葉に少し照れ笑いをしながら、杏奈も「いただきます」と手を合わせて、ご飯を口に運ぶ。


 リビングとダイニングとキッチンが一繋がりになる部屋の中、テレビから人の声は聞こえてくるものの、二十二畳半もある空間にたった二人しかいないのは、何とも言えない寂しさがある。それでもこの部屋に彼女たちが来てから二ヶ月ほどが経った今となっては、杏奈にとってはこのテーブルで二人で食事をするということが当たり前になり始めていた。

 しかしそれもこの朝食が最後となる。次はいつになるか分からないことを思い出してしまうと、今さらではあるが更に寂しさを感じてしまうのだった。


「杏奈、今朝は顔が暗いけど、どうかしたの?」

 そのことが表情に出たのだろうか。香織は不思議そうに杏奈に声をかけた。

「もしかして、一人になるのが寂しくなっちゃった?」

「それも少しあるけど……」

 寂しいという気持ちを隠すためか困ったような笑みを浮かべ、そして少し言葉を詰まらせながら、杏奈はそれとはまた別の理由を口にした。


「今朝、久しぶりにあの夢を見たんだ」


「あの夢ってことは、研究所で目が覚めた時の夢……よね?」

 それはあまりにも抽象的な言いまわしだったが、香織にはそれが何を指示しているのか、その言葉だけで理解できたようだった。

 それもそのはずだ。杏奈はとある研究所で実験体として扱われていたのだが、香織はその研究所で働いていた職員で、二人はその頃から面識があった。杏奈や他の実験体たちの精神面を管理する役割をしていた彼女とは、よく話をしていたのだ。不定期に杏奈が見るというその夢のことも、その頃から何度も話をしている。


 現在ではその研究は続行不能、そして中止となり、研究チームはそれと同時に解体され今ではもう研究施設の建物が残っているのかも怪しい。ちなみに香織が新たな職を探すことになったのも、そこでの職を失ったことによる。


 では、そこではどんな研究が行われていたのか? それを杏奈は詳しく知らない。


 研究所では、実験体は「記憶を移しかえる実験」の結果生まれたという、あまりにも抽象的すぎる説明しかされてこなかった。それがどういう意味なのか訊いても答えてもらえなかったし、そこの職員であった香織も

「世の中には、知らない方がいいコトもあるのよ」

 と言うだけで、あの施設で自分たちには何がされる予定だったのか、今も分からないままである。


 ただ、その身をもって経験したと言えることは、性別が変わってしまったということだけ。


 研究施設で目が覚める以前は男子中学生で、男だった時の最期の記憶は、大型トラックに轢かれて死を確信したということ。

 そしてもう一つ分かっていたことは、実験体と言われるからには、自分には人権がなく、何かの実験に使われるのだろうということだった。しかし、身体測定に似たことは月に一度か二度やっても、薬を注射されるとか病原体を体に入れられるとか、『実験体』や『人体実験』と聞いて思い浮かぶような何かをされたことが、実際には一度もなかった。


 今でこそ、研究が中止になって普通の人間と変わらない生活ができるようになったものの、研究所にいた頃の自分でさえ、本当に実験体だったのだろうかと今でも思っているほどだ。

 そのことを考え始めると出口のない迷路に入ってしまった気がして、いつも適当なところで考えるのをやめる。こうして普通の生活が始まっているのだから、これからのことを考えたほうがマシだと。


「杏奈の場合、強い不安を感じている時にその夢を見る傾向があるわよね」

 恐らく杏奈のことを誰よりもよく分かっている香織は、研究所でのデータを思い出したのだろうか、まるで既に分析されているようにそう言った。

「強い不安?」

「きっと、これからの生活のことじゃないかしら? 女になって初めての学校だもの」

 香織は先程からの変わらない笑顔でそう言うと、味噌汁をすすった。


 確かに彼女の言うとおり、最近の杏奈は、これから始まる学校生活に多少の不安を感じていた。

 とはいえ、自分自身ではそういうことをあまり気にしないようにしていたつもりだったし、何かを深く長く悩むような性格はしていない。

 もし香織が言うように不安な時にあの夢をよく見るのだとしたら、杏奈自身が思っているよりも強い不安を、心の中に抱えているのかも知れない。


「女として……か」

 自分の性別を再認識するようにつぶやいた杏奈に、香織は少し意地の悪そうな笑みを浮かべて言う。


「でも。あなたがスカートを穿いているところなんて初めて見るけど、ちゃんと似合ってるのよねー」

「えっ、そ……そうか?」


 普段は動きやすさを重視してジーパンとシャツやパーカーという、オシャレの「お」の字も見当たらない上、女らしさなど全く存在しない服を選んでいる杏奈は、スカートを穿くのは制服購入時に試着した時と長さ調節をした時以来、三度目だった。香織は制服を試着している時はそこにいなかったため、この姿を初めて見るのだ。


 その服装を他人から褒められたこともそうだが、穿きなれるはずのないこのスカートでは椅子が太ももに直接あたって、何だか変な気分だった。

 店の人にスカートの長さをどうやって変えるのか聞いて、とりあえず裾を太ももの半分ほどが見える程度まで自力で上げてみた。よく見る、少し短いスカートを穿いている女子高生、といった状態だ。


 姿見鏡の前に立った時は文句のない見た目だったが、これくらいの長さともなると、心もとない感じが色々なタイミングで出てきてしまう。

 自分でやっておいて何だが、スカートの丈の短さも間違いなく違和感の原因だということだ。


「もっちろん。元が男だったとは思えないくらい、大胆にキメたイマドキ女子高生よ」

 しかし、女の大先輩である香織は高評価のコメントである。表情はそのまま意地の悪そうな笑みだったが。


「最初はもっと安全路線で行くのかと思ってたけど……やっぱり男の子たちも、女の子はスカートを短くした方が良いって思ってるものなの?」

 香織からすれば、杏奈の姿は文句のつけようも無い完成度なのだが、だからこそ、この女としては初心者すぎる元男子が何を考えているのか分からない部分もあるらしい。


 普段はあれだけ色気の出ない服を好んで着ている少女が、制服のスカートを身に着けた途端にまるで全て分かっているかのようなギリギリの長さを見せつけてきたのだ。これはもう、男の心理を知り尽くしているであろう彼女が、異性(元同性)たちの視線を最大限集められる最適解を自ら実演しているとしか思えなくなる……のかもしれない。


 もっとも杏奈からすればそんなつもりは全くない。


 今日から通う神海高校では、校則の中でスカートの長さについて規定されている項目は存在しておらず、つまり、自己判断で風紀を乱さない程度にスカートの長さを調整してかまわないらしいのだ。

 ただしそれは杏奈の勝手な解釈で、スカートのホック下には学校の校章がついていて、腰元で巻いて短くするとすぐ分かるようになっている。そういった仕組みがある以上、長さを変えることは想定されていないのかもしれないが、歴史のある学校でそれはないだろうと思ったのだ。


「んー、わたしは、制服のスカートを穿くなら短くした方が良いかなって思っただけだけど」

 だから、こんな「何となく」の気持ちで服装をセッティングしている。


 それに、普段穿きなれないスカートだからこそ現実感がなく、この姿で一日中過ごすのだという大前提がすっかり抜け落ちていたということもある。こうして、着替えをしてから初めて椅子に座ってみて、今のスカート丈に心もとなさを感じ始めている状態だった。

「でも……もうちょっと長い方が良いかも」

 その違和感を口にしながら、少しもぞもぞと動いて腰かけている体の位置をずらしてみたが、もうすでに椅子のクッションが体温で温まっていたらしく、むしろ動いた部分で余計に冷たさを感じる羽目になってしまった。


「わざわざ戻す必要なんてないわよ。すごく似合ってるんだから、そのまま行って男の子たちの視線を独り占めしてきなさいな」

 モテモテ間違いなしね、なんて何を根拠にしているか分からないことを言いながら、香織はうふふっと楽しそうに笑う。


 しかし杏奈は、その言葉を聞くと表情を少し憂鬱なものへと変えた。


 なにしろ、体が女になっていても、心で男を異性と認識できるかはまた別の問題だ。そんな今「男たちからモテる」状況を想像すると、誇らしいというよりげんなりする気持ちの方が強くなって、そんなことにはなりたくないとすら思ってしまう。


 きっと杏奈が一人で着替えている時に男が目の前に現れても、ほとんど驚くこともなく着替え続けてしまうだろう。むしろ、その部屋に女が入ってきた時の方が驚いてしまう可能性すらある。


「やーね、そんな顔するほど嫌だった? 冗談よ、ゆっくり女の子になっていきなさいな」

 笑顔とは程遠くなった杏奈の表情を見て、香織は苦笑いをしながらそう言った。そして「ごちそうさまでした」と言うと、空になった食器を持って流し台の方へ歩いて行く。


「今日は私が食器を洗っておくから、杏奈は食べ終わったらそのままにして、学校に行く準備をしてちょうだいね」

「え、でも……」

「いいのいいの。入学式から遅刻なんて、格好悪いじゃない」

「まあ、そうだけど」


 香織はそう言ったのだが、杏奈は洗い物を済ませるための時間もちゃんと計算した上で、今朝は着替えなどの準備をしていた。

 朝食だって、ちゃんと予定通りの時間に食べ終われそうなのだ。

 だからそこまでしてもらう必要はないのだが……しかし、杏奈は少し考えてから、

「分かった、今日はお願いするよ」

 と言った。


「そうそう、こんな日くらいおねーさんにまっかせなさい!」


 香織はそう言いながら、リビングのソファの方へ歩いて行こうとしたのだが、何かに気づいたらしく杏奈の隣で立ち止まると、

「あらら。杏奈ってば、ホントに女の子の初心者なのね」

 面白そうに笑いながら、椅子に座っている杏奈のスカートの裾をクイクイと引っ張った。


 一体何事かと引っ張られたスカートの方へと目を向けると、椅子の背もたれにスカートの後ろの裾が引っかかって、布がめくれ上がっていた。

 下着が丸見えになってしまっている。

 いつもパンツスタイルで生活しているせいで、杏奈には座る時スカートの方まで注意が届かなかったようだ。


「そうやってホントに異性の視線を惹き付けちゃうのかしら?」

「ち、違うって! 今度から気を付けるよ」

 杏奈はスカートを直さないまま小さくため息をつき、「ごちそうさま」と椅子から立ち上がる。


「午前中のうちに初心者マークを買ってきてあげましょうか? 首から下げられるように紐も付けて!」

「それはさすがに、バカにしすぎだ……」


 ちょっと失敗しただけなのにいいようにおもちゃにされた杏奈は、ムッとした顔で香織に背を向け、自分の部屋に今日の持ち物の最終確認をするため、戻っていった。

 女の初心者でも人間の初心者ではないのだから、さすがに香織の言葉は少し言い過ぎだっただろう。


 杏奈が出ていったあと、パタンッと閉まった廊下へ続く扉を見ながら、

「こんならしくない意地悪するなんて……不安なのは私の方、よね」

 香織は少し後悔するように苦笑いを浮かべながら、小さな声でそう言った。


 そんな彼女の声を掻き消すように、部屋にはテレビのスピーカーから出ているコマーシャルの声と音楽が、いつもより大きく響いているようだった。


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