初めての委員長2
「杏奈ちゃんは何か、部活に入ろうって考えてたりする?」
その道中、しばらくは二人とも何も話していなかったのだが、達哉は最後まで沈黙を貫くことはせず、不意にそんなことを訊いてきた。
その質問に杏奈は前を向いたまま答える。
「いや。委員長を引き受けたからな。特に部活は考えてないよ」
「そうなんだ」
「そう言うお前はどうなんだ?」
「オレは……やるとしたらバスケ部かな」
「バスケか。楠本、背が高いもんな」
女子の中でも背の高い方である杏奈は一六二センチなのだが、達哉と並ぶと、頭の天辺は彼の耳の上辺りまでしかない。
正確な高さまでは分からないが、達哉の身長が一七〇センチより低いことはないだろう。
しかし、あまりバスケの詳しいルールを知らない杏奈は、背が高い=バスケ部という短絡的な考え方しかしていなかった。
「背が高いだけじゃダメだけどね」
そう言うと達哉は、前に走りながら二、三回ドリブルの真似をすると、ダンクシュートをするように、真上へジャンプをしながら手を高く上へと伸ばした。
それを見て、杏奈は中学の頃もバスケ部だった男友達が良くやっていたことを思い出した。
エアダンクとでもいえば良いのか。
このスポーツをする人間は、よくする動作なのかもしれない。
彼がそれをしたのは一階の渡り廊下を歩いている時で、コンクリート舗装されただけの床はつまり地面と同じ高さ。天井までの高さは、二階から上と比べれば二十センチほど高くなっている。そんな場所で跳んだ達哉の手は、天井にかすりもしなかった。しかし、もし普通の廊下で同じことをしていたとしても、その指先が少しは白い天井に触れられるのだろうか。
きっと難しいだろう。
学校の天井だって、三メートル近くはあるように見える。
それでも達哉は自分の身長の半分近くはジャンプで来ているように見えたし、決してジャンプ力が低いわけでもなさそうだ。
ところがまるで手が届かなかったことを恥と思っているかのように、彼は着地するなり杏奈の方を振り返ると、
「オレって、ジャンプがそんなに高くないんだよね」
はにかみながら、謙遜するようにそう言った。
実際にバスケのゴール下でジャンプをしても、もしかしたらリングに手は届かないかも知れない。しかし、手首で押し出してその中へボールを入れるのなら、あまり難しくないくらいにはジャンプできているはずだ。
これは、女子に「そんなことない、スゴイよ」と言わせたいだけだなと思った杏奈は、
「じゃあ、バレーボール部にすればいいじゃないか。今のジャンプなら相手のアタックをブロックするくらい、余裕でできると思うぞ」
からかうようにニヤッと笑いながら、意地の悪い言葉を返した。
男相手だったらこう言うのもアリだろうと思うし、杏奈が望む男友達との付き合いは、こんな雰囲気のものだ。相手をからかうときには冗談を言って、言われたほうは「お前なぁ」と返す。それが、杏奈が今まで付き合いがあった男友達との関係だった。
しかし、言ってからしまったと思った。
さっきまで視聴覚室で考えていたことと、完全に矛盾してしまっているではないか。
今口をついて出てきた軽口も、初めて会ってから一週間しか経っていない相手にかける言葉としては、馴れ馴れしいにも程がある。
気をつけなくちゃと思いながら達哉の方を見ると、杏奈の反応が思っていたものと違ったからか、彼は少しその笑顔を曇らせて
「んー、バレーボールはちょっと……興味ないかな」
テンションの低い声でそう言い、杏奈に背を向けて歩き出してしまった。
まさか今ので機嫌を悪くさせたのかと思い少し焦った杏奈は、
「うそうそ、今のは冗談だよ。悪かったって」
取り繕うようにそう言って、達哉の隣に走って追いついた。
「気を悪くさせたなら謝るからさ、そんな落ち込むこと……あれ?」
しかし、少し様子がおかしい。達哉の肩が小刻みに震えているのだ。
うつむいたその顔を覗き込んでみると、なんと声を押し殺して笑っているではないか。しかも、その表情には感情がわずかににじみ出ている。
何かがツボにはまったようだった。
「なっ、お前……何だよそれ。落ち込んだかと思って、ちょっと焦ったじゃないか」
そして、今度は杏奈の方がふんっとそっぽを向いて腕を組む番だった。
確かに杏奈の返した言葉は馴れ馴れしいものだったが、達哉の落ち込んだフリも、それと同じように悪い冗談だ。
「ごめんごめん。そこまで慌てるとは思ってなかったから」
達哉は平常心を取り戻したらしく、そう言うとようやく顔を上げた。
もちろん戻ったのは心だけでなく、その顔にも元通りの無表情の笑顔だったが。それを見た杏奈は、隣を歩く男子に聞こえないくらいの小さなため息を吐いた。
感情が揺れ動いた後なら、油断してそのまま感情を顔に出してくれると思っていたのだが、ここまでともなると、何か大きな執念のようなものを感じてしまう。
「もういいよ、お互い様だったってことが良く分かった」
そう言って顔を前に向けてみると、渡り廊下の終わりが近づいていて、すぐそこはもう一般教室棟だ。その入り口を入れば、目の前が職員室になっている。
さっさと鍵を返してしまおうと、ジャンプするような大げさな一歩で一段高くなっている一般教室棟に踏み込んだ。
……のだが、そんな杏奈の目の前でガラッと職員室のドアが勢い良く開かれて、それと同時に勢いよくスタートダッシュを決める一人の男子生徒の姿に驚き、思わず杏奈は段差へと乗せた足を再び一歩後退させる。
「ったく、しょーがないヤツだな」
独り言なのか、それとも職員室に残された誰かに向けたのかは分からないが、少し離れた場所にいる杏奈にも聞こえる声で言いながら、男子生徒は真っ直ぐに伸びる廊下を走っていったのだ。
「廊下を走るな」とはどんな学校でも言われるであろう常套句ではあるが、それをまさか職員室のど真ん前で無視するとは、とんでもなく肝の据わった人なのだろうか。……と、良く見ると彼は左腕に「生活委員」の腕章をつけているではないか。
学校によっては風紀委員とも言われる神海高校の生活委員。本来なら校内の風紀を守ったりするのが仕事のはずだが、その委員会に所属する本人が規律を乱していては元も子もない。もしくはそうせざるを得ないほど切迫した状態なのか。
しかし彼が走って行ったその先には、校長室もあるのだが……。
そんなことを考えていると、開きっぱなしになっていたドアからまた、一人の男子生徒が廊下へと出てきた。その人は走り去る生活委員に向かって、
「あまり熱くならないことだ」
と忠告を発した。
その様子を見ていた杏奈は「いやいやそこは廊下を走るなと言うべきだ」と心の中で突っ込みを入れる。なぜなら、その人は先ほどまで視聴覚室で「第一回生徒会定例ミーティング」の議長として、クラス代表たちの前に立ち話をしていた、生徒会長その人なのだから。
目の前で一体何が起きているのか分かっていない杏奈ではあったが、とりあえず彼の方へと歩み寄って、
「会長」
と声をかけた。こんな状況でも、全校生徒の代表であり自分が所属する委員会(クラス代表)のボスでもある彼には、挨拶くらいしておくべきだろう。そう思ったのだ。
生徒会長は杏奈の声に反応すると、ゆっくりと振り向いた。
「お疲れ様です」
「やあ、楠本君に如月君か」
「あ、名前を憶えて下さったんですね。ありがとうございます」
「いやいや、君たちのような美男美女は校内にそう何人もいない。すぐに憶えるものさ」
この人がいつも見せる自信に満ちていて少し威圧感はあるが怖さのない微笑みの表情と、発する爽やかな声色には、普通なら嫌味か何かに聞こえてしまう言葉でも全くいやらしさがない。
その雰囲気からは、生まれながらの生徒会長、そして指導者気質を感じるのだ。
「視聴覚室の戸締りをしてくれたのか。では、その鍵は私が返却しておこう」
「ありがとうございます」
杏奈は、会長から差し出された手の上に鍵を乗せた。
すると突然、何を思ったのか会長はきゅっと杏奈の手を握ると、手の平を上にして指を開かせた。
いきなりのことに驚いてされるがままになっていると、その手を見た会長は、
「少し、手が荒れているようだな」
つぶやくような声でそう言ったのだった。
「へっ? そうですね……毎日食器洗いをしてるので、洗剤のせいだと思います」
指摘されて杏奈自身も握られていない左手を見てみるが、少しかさついているかも? と思うくらいで、気になるほどがさがさに荒れているというわけではない。
そんな細かいところに気が付かれても、自分では気にしたこともないのだから反応に困ってしまう。
「そうか。毎日のことで大変だとは思うが、女性は手のケアも怠らない方がいい」
杏奈の手をじっと見つめたまま「千恵美君が良く効くものがあると言っていたな」と続けるが、一向に手を放してもらえる気配がない。かといってヘンな下心があるようにも思えないので、振り払うこともできなかった。
もし、今ここを何も知らない生徒が通りかかったら、どう思うのだろうか。
校舎内のしかも職員室の前で堂々とバカップル演出しやがって。
そう勘違いされても、全く不思議ではない。
凛々しく男らしい見た目からあまりそうは見えないが、もしかしたら、こういう勘違いされてしまうような行動を、全く気にせず行うような人なのかも知れない。
「会長、後輩の女の子にいかがわしいことをして頂いては困ります」
この状況をどうするべきかと考えていると、また一人、今度は女子生徒が職員室から出てきた。
彼女は生徒会副会長だったはずだ。胸に書類の束を両手で抱いているところを見ると、何かの仕事の後だったのかも知れない。そういえば、クラス代表会議には出席していなかった。
「千恵美君、ちょうどいいところに出て来てくれた」
会長は相変わらず杏奈の手に視線を向けていて気付いていないが、副会長は表情こそ笑顔ではあるものの、米噛みの辺りをひくつかせ、右手が今にも書類の束から離れて拳を作りそうな勢いだった。ものすごく怒っているのである。
もしかしてこの二人は、かなり仲がいいのかも知れない。それも、異性として意識するという意味で。だとすればこの状況は、浮気を疑われているのではないだろうか。
まずい。この流れは非常にまずい。
杏奈が、さすがに手を振り払ってしまおうかと考え始めたときだった。
「君が以前言っていた手荒れに効くというあれ、彼女に教えてあげてくれないかね」
相変わらず視線を上げようとしない会長は、そのままの体勢でそう言った。
「手荒れに効くあれ……薬用ハンドクリームのこと、ですか?」
「うむ。彼女も毎日洗い物をしているそうだ。そのせいか、少々手荒れがあるのでね」
副会長はその言葉に、拍子抜けしたような表情になった。そしてちょうど彼女の表情が変わったタイミングで、会長は杏奈の手を放すと顔を上げる。
その顔を見てようやく誤解だったと分かったらしく、副会長の顔には優しい笑顔が浮かんでいた。
副会長は、かなり表情の変化の早い人のようだ。「分かりました」と言うと、杏奈の方へと体を向ける。
「私が普段使ってるのは、明智製薬の薬用ハンドケアクリームというモノです。強さが三段階ありまして、少しの手荒れであれば一番弱いモノで大丈夫だと思います」
「あー、それ知ってます。あのにおいがキツイやつですか?」
「ふふっ、チューブを開けたときのにおいは相当ですよね。でも薄く塗れば気にならないですし、それを我慢するだけの効き目がありますから」
「そうなんですか。確か家に一本あった気がするので、帰ったら使ってみます」
「ええ、オススメですよ」
そう言って笑った副会長に、杏奈は「ありがとうございます」と頭を下げた。
しかし杏奈が顔を上げたときには、彼女はもう真剣な表情になって、生徒会長のほうを向いていた。
「それで会長。これの件は、早めに何とかしないといけません」
胸に抱く書類の束に目をむけて言う副会長に、そのことをすっかり忘れていたらしい会長は思い出したように「おお、コンピューター室か」と言うが、
「その前に、この鍵を戻さなくては」
と、もう一度職員室へと入っていった。
鍵を返す場所は、杏奈の記憶が正しければ入ってすぐ右手の壁側に、各教室の鍵をかける場所があったはずだ。その用事はすぐに終わるだろう。
二人にまだ仕事があるのであれば、これ以上邪魔をするのはよくない。
「それじゃ鍵も返したし、オレは部活見学に行ってくるね」
解散の空気を感じ取ったのだろうか。杏奈が生徒会長と話し始めた時からじっと二人の様子を見ていた達哉は、そう言うと昇降口の方へと歩いていった。
「ああ、お疲れー」
後姿に杏奈が声をかけると、達哉は背を向けたまま手をあげて返してきた。
その後姿を見送り、
「わたしも、失礼します」
と副会長に挨拶をした杏奈は、教室に戻るため階段へと足を向けた。
これで今日は学校でのやるべきことが全て終わったのだが、この後は真奈たちと待ち合わせの約束があり、一度教室に戻らなくてはいけない。
六時間目の終わりのチャイムが鳴ってすぐ杏奈はクラス代表として会議に出るため教室を出たが、真奈と晶と紗江の三人は部活に関する用事があるからそちらへ行くと言っていた。
「そっちの会議が終わるころに、一度教室に戻るね~」
と晶が言っていたから、あの様子だと一緒に帰るか杏奈も連れて部活見学に行くかするつもりなのだろう。
クラス代表会議は予定通り午後四時に終わっている。
鍵を返しに行ったり、会長たちと少し話したりしていた時間を考えると、もう三人は教室で杏奈を待っているかも知れない。
あまり長く待たせるのは悪いと思い、急いで階段を上った。
面白いと思っていただけたら、ブックマークだけでもしていただけたら嬉しいです。
評価や感想、誤字脱字などの指摘もありましたら、
よろしくお願いします!