目下のところ良い湯でした。
公衆浴場に似合わないランキング上位の男の登場にげんなりとした顔を見せるがマリトはそんなことは意にも介さないようにのびのびと湯船に浸かっている。
「なんじゃ坊主急に止まりよ――こ、これは陛下!」
こちらの後ろから入ってきたカラ爺も同様に良いリアクションをしてくれる、気軽に温泉に行ったら社長が入っているようなものだ。
いや、総理大臣とか天皇陛下? 王政であることを考えると百年前の後者くらいの勢いだろうか。
「こらこら、余り大きな声を出してくれるなドミトルコフコン卿、陛下はお忍びで来ているのだ。他の者に萎縮させては陛下の気遣いが無駄になるだろう」
続いて湯船に入ってカラ爺の背後を押す人物、ラグドー卿である。
――いや、あんたの方がよっぽど萎縮させませんかね?
まずマリト、こいつの体もなかなか引き締まっておられる。
文武両道と聞いていたが嘘ではないらしい、いつもはゆったりした服を着ているから分からなかったがアスリート顔負けの肉体美である。
ミケランジェロのダビデ像のポーズとか絶対に似合う、王様にそのネタやられたら噴出す自信がある。
だがそれよりもやばいのはラグドー卿、ターイズ最強の肉体の錬度はやばい。
カラ爺と同じで肉体に老いを感じないのは当然、だがカラ爺のように筋肉の鎧を纏っているような感じではない。
何と言うか一切無駄のない筋肉を極めたって感じ、こんな体の人と現代で出会ったら多分三日は寝込む。
速度、力、その全てを最大限、最高率に発揮できるために作り上げられた体と言うべきか。
まさに生きた至宝とはこのことかと感慨深くなる。
「ら、ラグドー卿まで……一体どうされたのですか?」
「陛下から突如この場を下見に来たいと言われてな、私はその付き添いだ」
「そういうわけだ、偶然だね友よ」
「おっ、そうだな――なんて言うと思っているのか? 故意だろうに」
「はっはっは、なんのことかな?」
イリアスがいることでこちらが行きたい箇所に行けないといった愚痴ならば過去にマリトに言ったこともある。
今日カラ爺が護衛を代わると聞いてこちらが公衆浴場に行くだろうと予想していたのだろう。
こちらの行動パターンを大よそ推測した上での待ち伏せだと推理する。
「時間までピッタリと言うのはなかなかに恐ろしいところではあるがな」
「陛下、かれこれ一時間ほど入っておられますが大丈夫ですか?」
「思ったよりずれてた、のぼせねぇの?」
「何度か涼んでいたさ、風呂は純粋に好きだからね。執務続きだと体が凝り固まって仕方が無いんだ」
そういやマリトの仕事はデスクワークだ、この辺の苦労さは現代日本人にも通じるところがあるのかもしれないな。
しかしこんなやばい級の人間が当たり前のように湯船に入っていて気づかれないものなのか。
「そもそも入り口の料金所でバレなかったのか? カラ爺相手でも驚いていたぞ番台」
「顔は魔法で変えて入ったのさ、ラグドー卿もね。中に入ってしまえばこの湯気だ、人の近くを避ければ然う然う気づかれるものではないよ」
「いや、ラグドー卿の肉体とか目線泳ぐぞ絶対」
「私はバレても大丈夫ですから、むしろ陛下の存在を隠す良い囮になれています」
確かにマリトは顔を見なければ驚くことは無いだろう、その横に威圧される肉体のラグドー卿がいれば視線はそちらに流れざるを得ない。
いやいや、そういうものなのか?
「君が手を入れた公衆浴場を視察したかったと言うのは本当だ、せっかくだから君と都合が合うタイミングを狙っただけのことさ。たまには裸の付き合いも悪くないだろう?」
「悪いとは言わないがな、でもカラ爺の負担が……」
「だ、大丈夫じゃよ、ふぁふぁ……」
カラ爺、見事に覇気を失っている。
さっきまで物凄かった筋肉まで萎縮しているように見えてしまう。
ウルフェに酷い仕打ちを受けたときや嫁さんに叱られた時のようだ。
「ドミトルコフコン卿、この公衆浴場の中に限ってはラグドー卿が彼の護衛を見よう。貴公はゆっくり満喫すると良い」
「――では坊主。達者での」
「あ、わりとサクッと見捨てられた!?」
カラ爺はすいーっと浴槽の奥へと消えていった、酷い裏切りを見た。
マリトの存在感はかなりのものだ、イリアスとてマリトに睨まれれば竦んでしまう。
それはカラ爺とて同じ、ましてや上司のラグドー卿も一緒なのだ。
今、壮絶な肉体のラグドー卿に圧されているのだがカラ爺からするとマリトの存在も同様の圧力を感じているのだろう。
「――まあ仕方ないか。騎士である以上王様と一緒というのは気が張って仕方ないだろうしな」
「そうとも、君の存在がどれだけ助かっているか分かってくれてなによりだ」
「そりゃどうも、だがこの関係はお前が自分で作ったんだからな」
「分かっているよ、欲しい者は自力で手に入れる主義だ。だが自分で得た者に感謝したって良いじゃないか」
「既に得物扱いされてるのか、忠誠とか誓った覚えはないんだがな」
「君に忠誠心を求めたことはないよ、対等と君らしさ、それが俺が求めているものだ」
「らしさねぇ……ん?」
現状左側手の届く距離にはマリト、一人分のスペースを挟んで右側にラグドー卿が湯船に浸かっている。
一瞬マリトがフレンドリーで距離感をつめているかラグドー卿が遠慮しているかと思ったのだが――
「ひょっとしてすぐ横に暗部君いたりする?」
「ええ、もちろんいますとも。流石は陛下の友人ですね」
ピタリ、と左肩に濡れた手を置かれる。
軽いホラーだ、先に気づいていなければ悲鳴を上げていたかもしれない。
「透明人間ってのは湯船に入るとその部分が逆に浮き出ると思っていたんだがな……」
「この姿隠しの魔法は周囲からの認知を誤魔化すものです、私と言う存在がいないという前提の世界として皆さんの視界に映るのです」
「わりと論理とかに絡んでる凄い魔法だったんだな」
単純に透明になっているというわけではなく、暗部君がいることで現れる変化を認知できないという魔法。
暗部君は今も真横に浸かっているのだがその事実が認識できない、存在し無い場合の光景が目に映っているということになる。
精神操作系の魔法に抵抗のあるこちらにもその影響が現れているということは人に干渉しているという代物ではない。
認知と言う概念に干渉しているのだろうか、そういった規模の魔法にもなると原理も何も分からない。
チート勇者の血筋だ、気にしたら負けだろう。
てかあんまり触れられるとその辺の感覚があやふやになり始めて混乱してきそうなんだが。
「普段は一人で風呂に入っているけどさ、こうして様々な拘束を取り払って語り合える場と言うのも悪く無いものだ。君のおかげでこの場所の居心地も良くなっているようだからね」
視界を外に移す、その先にはこちらが提案して用意してもらった設備が何点かある。
まずは水風呂、わざわざ湯を沸かして入る場所なのに冷やす意味があるのかと言われたが長時間入りたい人間からすれば水風呂はかなり必需品。
一応水風呂が苦手な人のために体を倒して涼めるハンモックチェアー的な物も用意してもらった。
長時間居られるようにすることで公衆浴場を一種の娯楽施設化しようとしたのが目的である。
好き者ならば湯船一つで十分なのだろうが金を払って使用するからにはそれなりの快適性が無ければ収益は薄い。
回転率も大事だが利用率を上げることも大事なのである。
全く新しい娯楽施設ともなると受け入れてもらえるのに時間が掛かる、そこで目をつけたのが公衆浴場なのだ。
また場所によって温度に違いが出るように工夫してもらっている、これは大した労力では無かった。
足元に転がっている発光した魔石を手に取る、ほのかに熱い。
巨大な湯船に浅めの仕切りを用意してもらい、温度維持の為の魔石の配分をバラけさせ温度差を作ってもらったのだ。
これで温い熱いの好みも解消、万人受けの用意は整った。
後は小さめの湯船に薬草や香草をブレンドした袋を投入しての薬風呂も別途に用意してある。
この世界は第二の体力タンクである魔力があるために薬草の効能はやや信憑性が低い。
なのでヒーリング効果に関してはそういった魔石を放り込んでもらい、どちらかといえば香りの良い風呂として使用させている。
人によっては香水を使う手間が省けてありがたがられているようだ。
個人としては薬草風呂本来の効能を期待していた、魔力が無い人間には薬は大事なのです。
そして何よりもウケが良いのはサウナだった。
乾式と湿式と両方作ってみたのだがどちらも好評。
乾式は日本でもポピュラーなタイプ、湿式は高温の石に水をかけ蒸気を発生させて使う物だ。
汗を洗い流す施設で汗をかくと言う行為は受け入れられるか心配ではあったが人気も人気。
騎士とかにも好評で我慢勝負などにも用いられている。
ただし調子に乗って湿式に水を掛け過ぎて大変なレベルになったりするので注意書きなどで『肉体強化禁止』『騎士と一般人の我慢勝負禁止』等と良く分からないルールが追加されている。
人によっては炎のブレスも凌げる肉体強化、そりゃ我慢大会で使用してそれを基準にすれば他の人はとんだ迷惑だろう。
このサウナの影響で水風呂の親和性も上がったといって良い。
「せっかくだからサウナにでも入るか、マリトは執務で疲れてはいるけど汗はほとんどかいてないんだろう?」
「お、そうだね。先に風呂は堪能していたけどそっちはまだだったんだ」
「私は既に、熱と静かに向き合うあの環境。なかなかに良いですな」
ラグドー卿が後ろから来た理由はそれか。
さてどちらに入ろうか……お、カラ爺が湿式に入っていったのが見えたな。
邪魔しちゃ悪いだろうし乾式を選ぼう。
湯船から出る、すると壁の奥から女性の声がちらほら聞こえる。
天井を渡った先は女湯だ、賑わいから女性にも人気が出ているようで何よりである。
「さぁーサイラ殿にラクラ殿! 次はサウナに入りますよー!」
「はーい!」
「ちょ、ちょっと待ってくださいー!」
「ミクス様、走られては危険です! ウルフェはノラと一緒にいてくれ」
「わかったー」
「あー良い湯なのだー」
……なんだか聞き覚えのある声だらけなんだがおっかしいな、確か今日の待ち合わせではミクスとノラはいなかったと思ったんだが。
「なぁマリト、ひょっとしてミクスも誘ったのか?」
「いや、誘ってはいないよ。行く予定だとは昼頃に伝えたけど」
なるほど、それでミクスはノラを連れてこの場所に。
ついでにこちらを誘おうとした時イリアスを見つけ連中を連れ出したと見るべきかな。
まあイリアスもこう言った場には休日にしか来られないし、満喫しているようでなによりだ。
しかし一番年寄り臭いリアクションがノラって……。
「ま、いっか」
「おや、てっきり興味深々かと思いましたが。どうやって覗くかなどその発想力で考案したりはしないのです?」
「誰かさんみたいに透明じゃないんでな、そういう悪さなんて微塵も考えないぞ」
「はっ! そういえばそんな利点もありましたね。……まあ女の体には興味ありませんので」
「怖い発言止めよう? そこはマリトの護衛を優先とか言ってくれれば格好が付くんだけどな、だいぶ台無しだわ」
「ミクスも来るのならばルコも誘わせるべきだったかな、まあ今度提案しておくか」
思春期を過ぎた男達は達観した感じのまま乾式サウナに入っていった。
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「いやー、いい汗かけますねー!」
「まったくですなー、ご友人のアイディアだそうです!」
「お兄さん凄いねー!」
カラカラと乾燥したサウナの中で笑うサイラとミクス様、確かに訓練で流れる汗とはまた違った趣がある。
最近汗が出るほどの鍛錬をしていなかったし、これはこれで悪くない。
一方ラクラは辛そうでこの中の誰よりも多くの汗を流している、大丈夫だろうか。
「ふふふ……そうですね……これは色々減りそうです……」
「ラクラ殿、汗で減る体重は水分を失うだけなので体格には変化ないですぞ」
「なん……ですって」
「代謝が良くなる分微妙な効果はあるかもしれませぬが……ああ、でも後で飲む酒が美味しくなりますな」
「それなら我慢できそうです」
「無理はダメですよー、でもイリアスは凄いねーほとんど汗かいてない!」
サイラがこちらの隣に座って様子を窺ってくる、言葉を発しないこちらにも気を使える良い子だ。
しかし細い体で、実に女性らしい……いや、いやらしい目で見てはいけないな。
「なるべく汗が出やすいように魔力強化は抑えているのだがな……どうやら満足できるだけの汗を流すにはそれなりに時間が掛かりそうだ」
「気にしなくて良いよー私達は一度水風呂に入って戻ってくれば良いだけだもん、だけど子供が入れないってのはちょっと大人って感じがするよね私達!」
「そ、そうか?」
十五歳未満は入らないようにと言う注意書き、確かに自分の体調の限度が分かっていない子供ではこのサウナは危険だろう。
親が付き添っていれば大丈夫だとは思うが……親と子供の体の作りは違う、予防策といったところか。
ちなみにミクス様とノラの合流は予想外のことだった、買い物をしていると偶然出会った。
せっかくなのでとそれぞれの自己紹介を済ませ雑談、サイラとミクス様は性格もお互い明るいこともありすぐに意気投合した。
ウルフェとノラも妙に波長が合っている模様、お互いに天才肌なだけあって何かを感じているのだろうか。
結局そのまま一緒に買い物を済ませ帰宅することになったのだがミクス様が急遽この場所に行こうと皆を誘ったのだ。
聞けば今男湯の方に陛下がお忍びで来ているとのこと、彼が弄ったこの公衆浴場を体験してみたいとのことだ。
例の暗部君も来ているのだろうか、湯気やらお湯に触れれば逆に目立つのではないだろうかあの透明魔法は。
「これならきっと兄様も満足していることでしょう! ですがご友人がいればもっと良かったのですが……」
「彼は結局まだ帰ってこなかったからな、どこをほっつき歩いているのやら……」
カラ爺が護衛にいることだし心配はない、その状態で何かあるとすればパーシュロの時同様騒ぎになっていることだろう。
案外ここに来ているのかもしれない、普段私がいることで行けない場所の一つだろうしな。
「それにしてもミクスってマリト様のこと好きだよねー、妹じゃなければ良かったとか思ったこともあるんじゃないの?」
サイラはミクス様を対等に扱っている、と言うよりミクス様がそうさせた。
自分のことは冒険者のミクスとして扱って欲しいと、サイラはそれを快諾した。
ミクス様も陛下と彼のような関係の者を作りたかったのだろうか、それとも元々冒険者の立場で堅苦しいのが嫌いなだけなのか……私は流石に様を付けずにはいられない立場なのだが。
「いえいえ、兄様の妹であることを損だと思ったことは一度たりともありませんですとも! 兄様を好いている想いは一重に憧憬の念であります、恋心などとても持てる相手ではありません」
「ああ、でも分かるかも。私も騎士の皆さん相手だと結構緊張しちゃって、多分マリト様の前でも萎縮しちゃうんだろうなー」
「兄様の凄さは知れば知るほど味が出ますからな」
なんだろう、その乾物の様な表現は……だが意味は理解できる。
私が両親を失い、父の様な騎士を目指した時は先王の時代だった。
その時は陛下のことは名前しか知らぬ存在でしかなかった。
傑物だの将来賢王となると言った噂も聞いていなかったわけではないが私とは関係が無いと鍛錬に勤しんでいた。
その当時には多少の驕りもあった、自らを鍛え上げあらゆる者を護れる騎士こそが国で最も誇らしい存在であるとさえ思っていたほど、父への憧れが私を盲目にしていたのだろう。
騎士の任命式の際には王の前で忠誠を誓う必要がある、私は儀式の一環だと割り切り参加していた。
これさえ終われば騎士として国を護ることができる、早く終わらせて父と母の墓前に報告に行かねばと式典の最中も意識は外にあった。
その時には既に陛下が先王より玉座を受け渡された後、陛下の前に膝を突き陛下と初めて対峙した。
若い王だ、彼もまた私と同じように自らの道を歩んでいる者なのだろうか、過酷な鍛錬を受けた私に見合う王なのかと……だがその傲慢な気持ちは打ち破られた。
『イリアス=ラッツェル、貴公はその剣を何のために取る?』
陛下のその瞳、その言葉に私は初めて心が折られそうになった。
私の全てを見透かし、その上で問うているのだと理解した。
陛下の言葉を聴いた瞬間に、陛下の背負っているものが僅かに垣間見えた、それだけで自分の矮小さを嫌と言うほどに思い知らされた。
あらゆる騎士と手合わせをした、そのどれでも臆したことは無い。
かのラグドー卿が相手でも私は正面から勇敢に挑めていた。
だというのにその言葉一つで私はその場から逃げ出したくなってしまった。
実力では劣るはずの相手に恐怖したのだ。
その時は事前に言うべき言葉を考えていたため、その言葉に返事をしたのは覚えている。
だが何を言ったかを覚えていない、自分の薄っぺらな言葉は記憶に残らなかった、恐らくは陛下の心にも届かなかったのだろう。
それ以来私は騎士道に強く固執した。
余計な慢心や傲慢を振り払い、より高みの精神へ至らねば陛下やこの国のために剣を握ることなど許されないと強く思い……。
「イリアス? 顔色悪いけど大丈夫?」
サイラの言葉ではっと我に返る、どうも昔の恐怖を思い出してしまっていたようだ。
「あ、ああ。昔陛下に一蹴された時のことを思い出してな……」
「ありゃー、それは辛い思い出ですな……兄様に睨まれて平気な人はほとんどいませんから……あのラグドー卿も兄様との鍛錬の際に持つ剣が震えたと言っていたと聞いています」
「ラグドー卿がそうならば、ターイズの騎士は誰でも震えるだろうな……流石は陛下と言ったところか……王に成られてからと言うもの、その立場を見事に全うしておられる。一体どのようにすればアレほど変われるのであろうな」
「いえ、兄様は昔から変わってなどおりませんよラッツェル卿」
「そうなのですか?」
「はい、せっかくですから私の惨めな過去と共にご説明しましょう、兄様の凄さを!」
惨めて……しかしミクス様の陛下への絶対の信頼感の元となった話ともなれば気にはなる。
ミクス=ターイズ、陛下に並び神童として生まれた王女。
幼年期に限ればその才覚は陛下を超えていたとも噂されている。
「あれは私達がまだ幼かったときのことです――」
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才覚ある王女として生まれた私は母から絶大な期待を寄せられていました。
唯一の王子である兄様が王位を継ぐモノだと多くは口にしていましたが私の才覚を知った者はその言葉を変えていました。
そのことに私は気を良くしていたのです、私のことを知ってくれたものは誰よりも私を評価してくれるのだと。
そう思い始めてからは幼いながらに兄様に対して対抗心をいつも燃やしていました。
勉学も、剣術も、どれも必死に特訓し、兄様と比べ合い勝ち越してすらいたのです。
それを知った者達の徐々に私こそ次の王に相応しいのではと、その心変わりが何よりも嬉しくて私は何度も勝負を挑みました。
『参った、ミクスは凄いな』
兄様は負けても悔しがることも無く温和な顔で笑っていました。
兄様の実力は本物でしたが、本気さを感じられません。
本気で努力をしていた私からすれば陰ながら兄様を見下していました。
過去にいけるのならばこの時代の私の四肢を斬り落としてしまいたい程の思い上がりです。
もちろん男であり、年が上とだけあって油断はしないようにしていました、
少しでも慢心すればすぐに追いつかれる距離にあったのは違いないのですから。
ですがあの日、兄様と護衛と共に森に獣狩りに行った時のことです。
私はいつものように兄様に勝ち越すために張り切っておりました。
しかし、護衛の方々が先行して獲物を探していては兄様に勝った気持ちになれないと考え、つい馬を走らせて一人森に入ってしまったのです。
護衛の方々も一応は心配して追いかけたのですが、そこは危険な獣の出ない森でそこまで必死にはならなかったのでしょう。
ですので私は簡単に一人で森を探索することができました、そしてついに大物、大きな雄鹿を仕留めたのです。
兄様が仕留めていたのは兎が数匹、しかも護衛の指示の下です。
私は興奮を隠しきれず喜んでいました。
――それが原因で背後に迫っていた巨大な熊の気配に気づけなかったのです。
『ヒッ!?』
本来ならばいる筈の無い巨大な肉食獣、恐らくは数年前の魔物の襲来の際に本来の縄張りから逃げていたのでしょう。
そして私が鹿を殺し、その血の臭いを辿ってきたのでしょう。
咄嗟に弓矢を撃ちましたが決定打にはなりません、むしろ熊を興奮させ間違いなく敵だと認識させてしまったのです。
私は無様に震え上がり、泣き出し、まあその、出せる水分は一通り流していたと思います。
熊は無慈悲に私に駆け寄り、その爪を振り下ろしました。
目を瞑り、自らの死を覚悟しました。
ですが痛みはまるで無く、静かなままです。
不思議に思い目を開けるとそこには兄様がいたのです。
森に詳しい護衛よりも早く私を見つけ、そして熊の爪をその両腕を盾にして防いでおりました。
子供の不安定な魔力強化など微々たるもの、猛獣の爪は兄様の両腕の骨を間違いなく砕いておりました。
服が、皮膚が、肉が裂け、骨すら見えていたと思います。
しかし兄様は両腕を降ろすどころか解体用のナイフを構え、熊の前に立ちふさがったのです。
そんなこと、大人でも容易い真似ではありません。
『貴様、誰の許しを得て俺の妹に手を出そうとした』
初めて聞いた声、抑え切れない怒りと殺意が込められた言葉を聞いて私は目の前で私の命を奪おうとしていた熊以上に兄様に震え上がりました。
もしもその時兄様の目を見ていたら気を失っていたかもしれません、それほど周囲の空気が変わっていたのです。
兄様との鍛錬の時私は本気でした、ひょっとすれば殺意さえ込めていたかもしれません。
ですがそんなものは兄様からすれば児戯でしかなかった、もしもこんな声で、その先にある目で睨まれていれば私なんて皆の前で醜態を晒していただけでしょう。
暫し熊は兄様を最大の脅威として威嚇していましたがそう長く持つことなく森の中へと逃げて行きました。
それを確認して振り返った兄様はいつも通りの温和な顔でした。
そしていつも通りにこう言ったのです、
『鹿を仕留めたのだね。やはりミクスは凄いな』
その後護衛に発見され兄様は即座に治療を受けました。
腕は元通りに動くようになりましたがその痕は僅かに今でも残っています。
私は自らの過ちを咎められる覚悟を決めていましたがそれもありませんでした、兄様が虚偽の報告をしていたのです。
『ミクスに負けまいと追いかけていたら鹿に襲われてしまった、ミクスがいなければ危なかった』
と。
当然そうなれば兄様の過失として兄様が父上のお叱りを受けることになりました。
私は兄様を超えるべき敵と見ていたのに、兄様からすれば護るべき妹でしかなかったのです。
この敗北が切っ掛けで私は知ってしまったのです、兄様は全てにおいて私を凌駕していると。
敵意を向けていた私の機嫌を取るためだけに拮抗してみせ、わざと負けていただけなのだと。
ごく一部の方々だけがそのことを理解しておりました、その方々は私が兄様に勝った時も兄様が陛下に相応しいという意見を変えなかった者達です。
私は恥じました、兄様を直視できなくなり、まともに話すこともできなくなりました。
兄様はそのことを悲しまれましたがそれで良かったのです。
私はその後自分を磨き続けました。
自分の力を全てを見せながら成長していた私と、その全てを隠しながら在り続けた兄様はそれで丁度互角だったのです。
兄様に勝ちたいという思いは微かも残っていませんでしたが兄様の妹としてこれ以上恥じたくない一心で。
努力は実を結び、兄様が王位を継承する時期になってもまだ私が王に相応しいと言ってくれる母やその仲間達が残っていました。
しかし私はその差を知っているのです、王に相応しいのは私ではない。
父上もそれを理解していましたが、他の者達はそうではありませんでした。
腹違いと言うこともあるのでしょう、自分が生んだ娘が他の子に劣ると認めたくない気持ちも理解できます。
これ以上は兄様に迷惑になる、そう思った私は躊躇うことなくターイズを捨て冒険者となったのです。
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「なんてこともあったかなぁ」
サウナで話を振っていたら何と言うかえらい話を聞かされた、あのミクスがかつてはマリトに敵対心全開だったとは想像も付かん。
しかし熊を追い払うてどんな幼少期だよ、こちとら最近熊さんに襲われたんだぞ。
「本気で挑んでくる相手に接待プレイだなんて酷いことするな」
「確かに実力差はあったさ、でも喰らい付いてきてくれる良い競争相手であったことは確かだったんだ。子供の年の差は大きい、数年先に生まれた俺が有利なのは当然なんだ。でもそのことで手加減していることがバレちゃってからはああいう関係になっちゃってねー。他の妹達はそもそも競争相手にすらならなかったんだよ?」
色々とミクスの奇行の理由も分かった、そりゃあ喰らい付くので必死な状態で王位を競わされちゃな。
王座への執着があればそれでも競うことはできたのだろうが、幼い頃にとっくにその意思はへし折られていたようだし。
マリトに余裕ありすぎたんだよなぁ、ミクスも可哀想に。
救いがあるとすればミクスがポジティブにマリトを神格化して受け止めたという点か。
「結論としてはお前が悪いな、最初から全力でやってりゃ起こらなかった事件だ」
「耳が痛いなーわかってるよ、だから責任とか全部取ったんだよ?」
「あそこまでになるとお前が話して元の関係ってのは……無理そうだな」
「そうなんだよねぇ……、この傷とか見せたらもう色々だめそうで」
マリトの両腕には微かに古傷が残っている。
別に異常があるわけではない、皮膚に痕が残っている程度だ。
だがミクスからすれば過去のトラウマがごっそり蘇る痕跡になるだろう。
「わりと酷ぇ奴だよなお前」
「そうだね、過去に戻れるなら自分の四肢をへし折って言い聞かせてやりたいよ『ミクスはお前にとって都合の良い妹じゃないんだぞ』ってね、両腕壊れても平気な子供だしそれくらいはね?」
「穏便じゃねぇな」
「最終的にはミクスも立派に成長していた、そろそろ年齢差なんて気にならないだろうから最後に王位を争うのも良いかなとは思ったんだけどねぇ」
「そこでも負けてやるつもりだったのか?」
「いいや、こればかりは成るべき者がなるのが常だよ。ミクスがこちらを打倒できたなら清々しく道を明ける程度の話だ。こちらが相応しいのなら譲るつもりは無いさ」
その辺が聞けるならマリトの王としての立場はやはり磐石なのだろう。
ミクスは劣等感を植え込まれ、最後には王座を譲ってしまった。
王に成るものならばそこは最後まで競うべきなのだ。
それが惨めな敗北になろうとも、国を背負う覚悟はそんな誇りや立場を犠牲にしても容易に持てる物ではない。
「王としてはお前の方が相応しいだろうよ、兄としては及第点出せるか微妙だがな」
「だよねー……今度他の妹達も誘って食事会でもするべき?」
「おう、そうしろそうしろ」
命がけでミクスを護れたのだ、マリトが兄失格と言うことは無い。
これも一種の兄妹の形なのだろう、だが結局の所ミクスの見立ては間違えていない。
マリトは常に圧倒的な立場を築いていたのだ、それこそ必死に食い下がる妹相手に手加減をしなければ競う相手すらいないほどに。
そんな孤独を責めることは酷なことだ、マリトだって幼少期は子供であったのだから。
そう考えると対等に話せる異世界人と言うのはマリトにとって子供時代からの寂しさを解消する良い相手なのだろう。
うん? てことはコイツの子供時代の寂しさを紛らわすためにこの国に残されてるってことだよな?
うーん……ま、いっか。
その後一通り満喫した後に公衆浴場を出る。
異世界人らしくコーヒー牛乳やフルーツ牛乳を提案したかったんだけども、砂糖の普及がいまいちなこの世界では酒よりも高くなっちゃうんですよね。
一応冷たい水が飲めるようにはしている、それと近場の酒場でこの世界の人達には我慢してもらおう。
「おや、ご友人ではないですか」
「ししょーだ」
「あら、尚書様」
「あ、お兄さん」
「にーちゃんなのだ」
「なんだ、君も居たのか」
入り口でばったりとミクス達と合流。
どいつもコイツもすっかり息抜きしてやがる。
あ、いやウルフェはこちらの側のカラ爺を相変らず警戒している、いつもよりもちょっと強めだ。
「おう、居たぞ。マリト達は少し先に帰ったがな、王様が長湯しちゃ他の客の迷惑だろうって文句言っといた」
「文句て……陛下にそういう言い方ができるのは君くらいなものだな」
「他にいてやればもうちょいマリトも子供らしい少年時代を送れたんだろうがな」
「……そうですな、ご友人がいてくれて良かったですぞ!」
「痛いて」
バンバンと背中を叩かれる、痛い。
これは微妙に嫉妬も混じっているのだろうか、結構痛い。
「そういえばミクスの話もしたな、今度他の妹達も集めて食事会をしたいってさ」
「あ、あああ兄様がですかっ!?」
「他の妹達もお前みたいに恐縮してるんならお前が代わりに集めてやれよ、喜ぶぞ」
「で、ですが兄様のすることを私なんかがしゃしゃり出るのは……」
「何言ってんだ。お前が一番の妹だろうが、いい加減誇ってやれ」
マリトはお前のことくらいお見通しなんだぞと。
ミクスは少し固まっていたが、嬉しそうな笑顔で再び人の背中を叩く。
さっきよりも勢いがあるが痛みは低い。
「ご友人がそういうならば仕方ありませんな! では私めが一肌脱ぐとしましょう!」
「痛いて」
互いに認め合っている関係なのだ、マリトとミクスの関係ももう少しすればそれなりには柔らかくなるだろう。
しかしまあ、良く似た兄妹だよな、うん。
「あ、脱ぐと言ってももう風呂は済ませましたからな、これ以上服は脱ぎませんぞ? ご友人が望めば別かもしれませぬが……」
「そんな謎な説明はいらん」
「ご友人はつれないですなぁ、もう!」
「痛いて」
最後のは純粋に痛かった。




