ゆえに帰った。
「ああ、頼りにしているぞ」
彼にそう告げてすぐ、その違和感はやってきた。
彼の姿勢が変わったわけでも、動きが止まったわけでもない。だけど私に預けていた彼の体の重心が、一瞬だけ不自然にずれたのを確かに感じた。
達人などが自らの重心を動かし、相手の掴みや投げの感覚を狂わせる技術に類似していたが、彼に限ってそんな技術はないと断言できる。でも今のはまるで、別の姿勢からこの状態に一瞬で戻した、そんな後の重心の動きだ。
自分でも考えていて意味が分からないが、異質に感じたことは間違いない。
どうかしたのかと、手っ取り早く確認するための言葉を彼に向けて言おうと、彼の横顔を見た。
「――っ」
彼の表情は変わっていない。だけどその顔を見て喉元まできていた言葉が出てこなくなっていた。
今まで気づけなかったのか、それとも今の一瞬で全てが終わってしまったのか。何かがあった。彼は何かを知り、何かを決断した。何かを選び、何かを捨てた。
「お、空気の流れがあるぜ、兄弟!出口までもうすぐだ!」
「――やっとか。黒の魔王の中じゃ、細かい構造までは把握できなかったからなぁ」
彼は私の視線に気づかないように先を見ている。彼なら今の私の動揺に気づかないはずがない。
本来ならば彼が隠し事をしていると気づいた時、どのような内容であろうとも共に背負う覚悟があるからと、私は即座にそれを知ろうとしてきた。
なのに、今だけはそこに踏み入ることができない。彼が辿り着いた結果を知ることに私自身が躊躇っている。
外に出ると同時に、私達の頭上を巨大な影が覆った。視線を上げると、そこにはダルアゲスティアに乗ったエクドイクやウルフェの姿があった。
「ししょーっ!」
ダルアゲスティアの着地よりも早く、地上へと降り立ったウルフェが彼へと飛びつく。
ここにくる前に再び碧の魔王の治療を受けたのだろう。疵痕一つ残らない綺麗な両腕を見て、彼は優しい笑顔でウルフェの頭を撫でた。
「よく頑張ったな、ウルフェ。無事で良かった」
「はい……っ!でも……っ!」
「全部わかってる」
「でも……ハイヤさんがっ……!」
「ハイヤは望んであの戦いに挑み、満たされながら逝った。『俺』を含め、止めることは誰にもできなかった。あいつのことで悲しむなとは言わない。だけど、誰かが悔いなきゃいけないことなんてない。そんなこと、ハイヤが認めないさ」
彼の安否を確かめられたこと、目の前で仲間を失ったこと、様々な感情が入り乱れ抑えきれなくなっているウルフェを、彼は宥めるように諭す。
そうこうしているうちにダルアゲスティアが降り立ち、ミクス様やエクドイク達が降りてきた。
「同胞、無事で何よりだ。一先ずは上手く事が進んだようだな」
「おう。お前もよくやってくれたな、エクドイク。その様子だと『俺』になりきって色々把握してたって感じか」
「ああ。同胞のようになり、同胞になりきり、同胞のことを理解するというのは中々に複雑ではあったがな」
「そらそうだろうよ」
エクドイクの姿は以前と同じままだが、どこか雰囲気が大人びているように感じる。魔族の特性である完全覚醒へと至り、その因子となった『彼』に似るものかと思ったが……自らの人格との線引をしっかりとしているのだろう。
『そう。おおよその展開の予測はエクドイクから聞いている。だが正確な報告は君の口から聞きたいね』
「おおう、マリトか……」
ミクス様の手に握られていた通信用の水晶から陛下の嬉しそうな声が聞こえてくる。今にも彼に抱きつきそうだったミクス様が静かだったのはこれが理由だったのか。
『だがまずは生還おめでとう。どのような結果であれ、また君の声が聞けたことが俺にとって一番の喜びだ』
「……おう。それじゃま、色々と増えた問題やらを報告させてもらいますかね」
その後全員でダルアゲスティアへと乗り込み、彼はこれまでの経緯を皆に話した。
黒の魔王が話した世界の仕組みについては、やはり皆には上手く飲み込んでもらえていないようだったが、彼はそれを含め今後の流れについて説明を続けた。
『ふむ……この世界に生きる者達に、この世界の在り方を理解させ、世界の変化を背負えるようにする必要があると。しかも永久的に』
「ああ。イリアスを信じた黒の魔王は、当面の間は見守ってくれるだろうが、見限られたらそれで終わりだ。その時はユグラが黒の魔王ごとこの世界を終わらせることになる」
『到達点もなければ、程度もわからない。それを維持し続けなければならない……か。うん、いずれは滅ぶね、この世界』
「陛下っ!?」
途中まで穏やかな会話の流れで、彼や陛下もそれに向けて真摯に取り組もうという姿勢を感じられていたのに、突然の断言に思わず声が出てしまった。
『ラッツェル卿、この世界には変わらないものは確かにある。だが黒の魔王の意思が不変でないことは君が証明したのだ。仮に貴公が思い描く展開を永久的に維持することができたとして、この世界を観測する黒の魔王の判断基準が同じように不変とはならない。それに黒の魔王が世界を見限る新たな理由が生じないとも限らない』
「それは……」
黒の魔王は世界を滅ぼすと決意してから、これまでユグラの説得を拒み続けてきた。彼女からすれば世界を滅ぼすまで、その意志を永遠に貫こうという覚悟があったのだ。
だがその意思は彼と私によって揺らぎ、新たなものへと変革した。結果としては喜ばしいことではあるが、その変化した事実が永久的な不変がないことを示している。
もしも今回のように黒の魔王の心を変えてしまう存在が現れたら、それが悪意に満ちたもので、世界を終わらせるための意思が含まれていたとしたら……いや、それでも――
「マリト、あまりからかってやるなよ」
『はっはっはっ、中々の無茶振りについ、ね』
「え……?」
『ラッツェル卿、貴公は己が信じる道を進み続けると良い。今話したように、今後正道を進むだけでは解決しえない様々な問題が生じるだろう。貴公がいかに完璧であっても、だ。だが道を進む上で最も重要なことは本筋を見失わないことだ。様々な問題を考慮し、見据えている未来を見失っては元も子もない』
「……はいっ!」
『道を示す者の役割は、堂々と進み後に続く者を安心させることだ。よそ見を誘う問題程度、我々に任せろ』
あれだけの覚悟をしておきながら早速不安に思ってしまったことを、任せろと言い切ってくださった陛下の言葉には迷いがない。もちろん簡単な問題でないことは確か、それが分からないほど私も愚かではない。だが陛下は他者と協力し合うことの意味を示してくださったのだ。
誰もが同じように進むことはできない。だからこそ、個々ができる最善の方法や役割を自覚することが大事なのだと。
「もちろん全てを任せっきりってのもダメだけどな」
『それはそうだよ。過激な思想の連中が団結しようものなら、神やユグラの手からこの世界を取り戻そうと、無謀な戦いを挑む者も現れかねないからね』
「まったくだ。あんな連中から世界を奪うために戦いなんて仕掛けてたら、人類が何度滅んでも足りないっての」
『それも一つの解決策ではあるけどね。不変が不可能ならば、新たな手段を模索する。それが人の生き方だ。ユグラの時空魔法を阻止する手段が完全に潰えたわけじゃない。せいぜい与えられた時間の内に最善の解答を導き出してみせるさ』
黒の魔王相手に私は随分な啖呵を切った。もちろん最後まで背負うつもりはあったが、それを実現できる保証なんてどこにもない。
それでも陛下のように、力強く後押ししてくれる人達がいる。その事実がある限り、私は迷わずに進み続ける事ができるだろう。だけど――
「おう、そうしてくれ。ここから先はこの世界の連中の出番なんだからな」
「――私は……い」
『はは、隠居を決め込むにはまだ早いだろ』
「いや、『俺』は――」
「私はっ!君と共に進みたいのだっ!」
彼の次の言葉を遮るように声を荒げてしまった。周囲の驚きの視線が私に集まり、少しの間空気が静まり返る。
「イリアス……」
「……話してほしい。黒の魔王の城から出る時、君に何があったのかを」
「――まあ、そうだよな。気づかないわけがないか」
彼は少しだけ気まずそうに頭を掻きながら、視線を空へと向け、少しだけ沈黙した。
「――この世界を創った『神』さんに呼び出された。そこで少しばかり話やらをして、元の時間、場所に戻された」
『……どんな話をしたんだい?』
「この世界のことに関しちゃ、大した内容は話してないな。ユグラナリヤを呼び寄せた結果の観測は引き続き行う。だから当面は干渉するつもりはないとさ」
『……君のことについては?』
「『俺』には元の世界の住人である資格がある。黒の魔王によって不正に召喚された立場のままじゃ困るってさ。だからその資格を捨ててこの世界の住人として生きるか……元の世界に戻るか、好きな方を選べって言われたよ」
この皆の沈黙は、皆が彼の選んだ答えを考えていたのだろう。
少なくとも彼は選択をした。どちらかの世界を選んだのだ。
先程まで話を促していた陛下も、その先を尋ねられないでいる。彼自身もその先を話すのを躊躇っている。
彼ならこの世界を選んでくれるだろう。その期待は十分にある。だけど彼が元の世界に戻ることを諦めたことはなく、その未練を私達はいつも感じていた。
私が声を荒げてしまった理由や、彼が気まずそうに話す理由。それらが望まない答えの可能性を膨らませ、思考や言葉が紡がれるのを阻害してくる。
「君は……この世界の住人になることを選ばなかったんだな」
「――ああ」
それでも私は尋ねた。答えはもう分かっていたからだ。彼を呼び出した『神』の力はユグラと同じ、いやそれ以上なのだろう。
彼が元の姿勢に戻されたことで崩れた重心のずれ以外、彼が別の空間で時を過ごしていたことを知覚する術などなかった。
時間の流れすらも自在に操れる存在ならば、既に彼の選択の結果を形にしているだろう。
もしも彼がこの世界の住人になることを選んで戻ってきたのならば、既に彼の体が創り変えられているはずだ。
だけど彼は変わっていない。初めてあったその時から、魔力を感じられない体。なんの兆しもない。別の世界の住人のままだ。
「色々と特典もつけるとは言われたんだけどな。それこそユグラナリヤと同じように、才能を創り出す力もくれてやるって。だけど全部丁重に断った」
「……どうして」
「『俺』はこの世界が好きだ。この世界のことを考えれば間違いなく『神』さんから与えられた力を使うことになる。でもそれじゃあ『俺』がすることは全部『神』さんの干渉にしかならない。それじゃあイリアス達の覚悟を踏みにじることになっちまうからな」
私が黒の魔王に、この世界を『神』の干渉に負けないようにすると約束したから、彼は『神』の干渉と成らない道を選んでしまった。
そうだ。彼はこういう人なのだ。大切なモノのためならば、善にも悪にもなる。どのような在り方も受け入れ、自分にできることを成し遂げようとする。
だからこそ彼は最低限の力しか持とうとしない、力を得る機会すら得ようとしない。力を持ってしまえば、それを使わずにはいられないから。
「私の……せいで……」
「それは違う。仮にイリアスがユグラナリヤを倒して、世界を完璧に救っていたとしても『俺』は同じ選択をしていた。そうすることが、この世界と向き合うために必要なことだと思っているからだ。この脆弱な体のまま、この不安定な心のままで、異世界なんかじゃなく、『俺』の生きる世界として、目一杯に受け止めたかった」
魔力を持たない彼の立場を不便だと思ったことは一度や二度ではない。それでも彼は私達と同じように、いやそれ以上に必死に世界と向き合ってきた。
だからこそ、私は彼と共に歩みたいと願っていた。そして彼を心から……。
「――そうか。ならば私ではどうもできなかったということか」
ならば私は最後まで私らしく彼を見送ろう。彼の選んだ道を嘆くのではなく、彼らしく誇りある選択だったと讃えられるような、彼の愛した世界の住人として。
それが彼にできる私の精一杯の姿だ。名残はあっても未練のない別れを――
「おう、だから『俺』にできることなんてほとんどないからな?過度な期待はするなよ?」
「ああ……ん?」
「ん?」
何か違和感がある。これまで空気を読んでくれてしんみりとしていた周りの皆も首を傾げている。
「……この世界の住人になることは拒んだわけだな?」
「そう言ったな」
「そして、元の世界に戻ると」
「いや、こっちの世界にいるけど」
「何故だっ!?」
「いちゃダメなのかっ!?」
これまでにないほどに察しが良くなっていたのに、一瞬にして思考がいつものようにこんがらがり始めた。あれ、でも彼が『神』に提示された条件は……ええと……。
『……ええと、君は黒の魔王によってこの世界に不正に召喚された立場だ。だからこの世界の住人として生きるか、元の世界に帰るしか選択肢はなかったんだろう?』
そう、それ。
「ああ。だから一回帰ったぞ。んで『神』さんに呼ばれて戻ってきた。正式な手続きで転移したならこのままでもこの世界に居て良いって話だったからな」
「はぁっ!?」
『うわぁ……お役所仕事……』
神「これで不正はなかっただな!ナハハッ!」
主「いやこれ不正のもみ消しじゃ?」
最後辺りでも無駄に引っ張る主人公。
イリアスも過去最高レベルの察しの良さだったのに。
あ、皆様の応援のおかげでコミカライズ四巻の評判も上々です。ありがとうございます。
SNS等でもちょこちょこ口コミで広まっているようで、作者として非情に嬉しい限りです。
主人公が脳内でも秘密主義なせいで、序盤の盛り上がりが弱い物語ですから、この作品の良さを伝えてくださっている方々には感謝してもしたりません。
さーラストに向けてスパートだー。