ゆえに嗤う。
俺が送り込まれたのは、かつて大悪魔ベグラギュドによって育てられていた洞窟の中だった。
世界は狭く創られており、魔界の外からは出られないと、俺以外の生命体は存在しないと説明されていた。
太陽と月が交互に現れるだけで、何一つ変化が生まれない世界。経過していく日数を数えていたが、それも不毛だと判断してからはしなくなっていた。
体を動かし、疲れを感じられる鍛錬さえできれば、この膨大な時間の中でも時を忘れることはできたのかもしれないが、この世界で俺は過度に魔力を使うことを禁じられていた。現実世界では『蒼』達が俺の肉体を創り変えている。その肉体の変化の更新状況に不具合が生まれないようにするためだ。
俺は洞窟の中から出て、外の景色を見て回った。メジス魔界しか再現されていないこの寂れた場所でも、視界の変化があるだけマシだと感じたからだ。
しかしそれもすぐに飽きた。喉も乾かなければ空腹も感じない。疲れもなければ眠さも感じない。そんな状態で歩き続ければメジス魔界全土を歩き回ることはすぐだったのだ。
動くことを止め、考え事をする時間が増えた。これまで色々なことがあったのだから、それを振り返るのも悪くないと思いついたからだ。
あの時こうしていれば、もしこうなっていれば、そんな仮の世界の妄想をすることはそれなりの暇潰しにはなった。
そんなことを繰り返している内に、ふと一部の知り合いの顔が思い出せないことに気づいた。どんな顔をしていたのか、どんな声をしていたのか、どれほど頭を巡らせても靄の中に隠れた記憶を取り上げることはできなかった。
この事実に気づいた俺は、すぐさま地面に絵を描き始めた。皆の顔を、共に過ごした記憶を忘れないよう、形として残そうとしたのだ。
だが地面に描いた絵は吹く風によって次々と消されていく。だから俺は洞窟や岩壁に絵を刻むことにした。
より鮮明に思い出せるように、岩を切り崩し、像を彫った。一つでは足りないと、同じ人物のものを何体も何体も彫り続けた。
気づけば何もなかったメジス魔界の荒野には、無数の石像が並ぶようになっていた。
時間の流れを忘れ、皆のことも忘れない。この作業を続けていれば……そう思った時、ふと石像を見比べてみた。
同じ人物のはずなのに、何かが違う。これも、これも、これも、これも、少しずつ違っている。
記憶のずれが起きたのかもしれないと、始めのうちに作った像と見比べた。だが、見比べてもどちらが正しいのか判断ができなくなっていた。
既に正しい記憶を思い出せなくなっていた。自分の記憶に自信を持てなくなっていた。
像を見ても、皆の姿を鮮明に思い出せない。刻まれた名前を読んでも、その人物との思い出が脳裏に浮かばない。
忘れないように、忘れないように、何度も何度も皆との記憶を辿り続けた。それでも手のひらで掬う水のように、大切だったはずの記憶がこぼれ落ちていく。
残せる記憶に限りがあることを悟り、一人ずつ、また一人ずつ、残しておきたかった者達の記憶を諦める。
『蒼』、メリーア、レイシア……記憶に残っているのは片手で数えられる人数との記憶だけ。そんな彼女達の記憶も、どれもがおぼろげで姿を思い出すことができなくなってしまっている。
ただ皮肉にも同胞のことだけは忘れようとせずとも覚えていることができた。元々名前を知らなかったおかげで、俺は『同胞』という単語の意味だけを理解していれば良かったからだ。
そんな名前だけは覚えていた同胞も、既に姿は覚えていない。声も、共に語った言葉も。ただ靄でしか頭の中に浮かばない同胞の記憶と紐付けられていたのは『変わるな』の一言だけ。
「変わるな……か」
いつものように残った記憶を心に留めておくために、頭の中で繰り返していた時だった。自分の出した声に意識がはっきりとする。まだ自分は声が出たのかと、こんな声が出たのかと。
せっかく口に出した言葉なのだから、その意味を考える。老いも育ちもなく、こんな世界で変わることなどないと、そう思っていたのはいつのことか。俺はすっかりと皆のことを忘れてしまっていた。
この世界にいる目的こそ覚えていたが、そこに至るまでの過程のほとんどが失われてしまっている。
意欲を失ってしまった今、この世界に居続けることに本当に意味はあるのか。時間の流れは、俺の心の中の熱を完全に奪い去っている。俺はすっかりと変わってしまった。その自覚だけはある。
「なぜ、俺はここに居続けている」
この世界にいることが耐えられないのであれば、出てしまえば良い。そうする術だけはいつも脳裏の奥に残されていた。この世界を創り出した魔王が、俺のために残るように仕込んでおいたのだろう。
久しぶりに目を開き、自分の体を見る。体に巻きつけてある鎖、これを使えばこの世界から出ることは簡単だ。自害すればこの世界から精神は追い出され、現実世界へと戻ることができる。
気づけば鎖に魔力を流し込んでいた。俺はこの何もない世界に居続けることに辟易としていたのだろう。止める理由などどこにもない、既に失われている。そう思っていた。
「……っ」
だが魔力が体を巡ると、全身に感じるものがある。この魔力は俺のものではない。何も覚えていない俺が、こんな温かさを感じる魔力を持てるはずがない。
久しぶりに今この世界にいる意味を思い出す。そうだ、今現実世界の俺の体は新たに創り変えられている。そしてその魔力を提供しているのは……彼女達なのだ。
何も思い出せない状態であっても、欲は残っていた。俺は自らの魔力に意識を委ね、その中に含まれている感情に想いを馳せた。
「――『蒼』、メリーア……」
はっきりと名前を口にできた。忘れていたはずの記憶が、確かにあった。ここにある俺の記憶は長い時間の中ですり減ってしまっているが、この体に溢れる魔力は今も進行形で彼女達から与えられているのだ。
『また貴方に会いたい。少しでも早く会いたい。それだけが私の願い』
体に流れてくる魔力から聞こえた声。これは『蒼』が込めた想いなのだろう。『蒼』だけじゃない、メリーアの声も聞こえてくる。
そこからかつての記憶を読み取る。自らの心と照らし合わせ、失った記憶を再構築していく。
「……はは、随分と無駄なことをしていたものだ」
空想に耽ったり、地面や壁に絵を描いたり、一心不乱に像を彫り続けたりと、様々な工夫をしたが、なんてことはない。現実世界との繋がりがあるのは俺自身の心、体なのだ。
彼女達は今も俺のことを想っている。想いを願いへと昇華し、願いを魔力に込め、俺へと送り届けているのだ。
ゆっくりと起き上がる。動かすことを忘れ、体の感覚などとっくに失っていたはずだった。だけど今は熱を帯び、かつて以上に動ける自負がある。
「これが、自身と向き合うという感覚か」
答えは自身の中にあると確信した。ならば己の体の中にある魔力から、求めている答えを導きだす。
思えば最初からその術は知っていたのだ。メジス魔界で蛇の怪物と化した魔族、その魔力から記憶を読み取った時のようにすれば良い。
魔族となった自分の体。その意味、目的、そしてその先への道がはっきりと見える。理が俺を魔族として定義した際に、最適解として導き出した因子が。
心に刻まれた恐怖。俺が完全覚醒するための試練とは、その恐怖を理解し乗り越えることなのだ。
そのために必要なのは乗り越えていると自覚すること。魔族の体にその事実を理解させなくてはならない。
「ああ、問題ない。これならば既に乗り越えている。ならば成れるはずだ」
ありもしない扉へと手を掛けたように感じた。その先に踏み込むことが、理に干渉することなのだと理解し、迷うことなく扉を開いた。
◇
「――成ったか」
エクドイクの体を創り変え続けていく最中、ついにそこに干渉する力が発生した。時の流れに打ち勝ち、完全な者へと成ったことを示す抑止の意思。
もはやこれ以上俺が手を加える必要はない。『金』が呼び戻すまでもなく、奴は自力で戻ってこれるだろう。
「……え、どうしたの?」
重そうな瞼を開きながら、『蒼』が様子の変化に気づく。休憩を挟みながらも常時魔力を差し出し続けていた影響か、疲労の色は隠しきれていない。
「処置が済んだ。目覚めるぞ」
「え、あ、ちょ、ちょっと待って!」
「待つか、馬鹿者」
散々急げと呼びかけた者に、ようやく応えたのだ。その者に待てと俺が伝えたところで、止まることなどできるものか。
精神が肉体に戻った際の負荷を最小限に抑えるように調整していく。最後の仕上げとしては安い施しではあるが、起き上がり歩もうとする者を赤子扱いする必要もあるまい。
「――どれくらい経った?」
目を開きながら、エクドイクはその言葉を口にした。数百年は経過したはずの精神状態で、意思の揺らぎを何一つ……いや、より一層強めているか。
エクドイクの声に気づいたのか、仮眠を取っていた『金』と『紫』も目を覚ましたようだ。
「案ずるな。三日ほどだ。戦況は何も変わらん、そろそろ最後の侵攻があるだろうというくらいだ」
「間に合ったか。良かった」
エクドイクは自身の体の様子を確かめつつ、全身に魔力を巡らせている。仮想世界で経たものが、現実世界にも反映されているのかを確かめているのだろう。
だが確かめるまでもない。既に俺の肌が感じている。エクドイクは成った。俺が想像した通り、いやそれ以上の状態へと踏み入っている。
「……エ、エクドイク?」
「ん、随分と顔色が悪いな『蒼』。そっちに寝ているのはメリーアか。随分と長い間魔力を供給し続けてくれていたのだな」
「え、ええ……。そ、その大丈夫……なの?」
「――ああ、大丈夫だ。俺は何も変わっちゃいない。……ただ、そうだな」
エクドイクは起き上がると、『蒼』へと近づきその顔を間近で見つめる。突然の行動に驚き顔を赤らめながら距離を取ろうとする『蒼』だったが、エクドイクの両手が流れるような動きで『蒼』の頭の後退を遮った。
「な、ななな、なに!?なんなの!?」
「いや、久しぶりに見る顔だからな。……うん。目の隈は多少気にはなるが、変わらず愛しいままの姿で安心した」
「――ッ!?」
なぜか『金』と『紫』がこちらに視線を向けている。なんだ、その『何か余計なことをしたな?』と言わんばかりの顔は。知るか馬鹿者。
「さて、エクドイク。貴様が既に成ったことは見れば解る。だが決戦の前にもう一つ、やるべきことを済ませるとしよう」
「やるべきこと?」
「仮想世界では過度な魔力の扱いを禁じていたわけだからな。理に干渉する術を手に入れたからと、そのまま本番に赴くわけにもいかぬだろう。最後はこの俺自ら、戦い方を教えてやる」
意図的に理に干渉でき、覚醒状態にも成れる。だがそれでは『黒』の魔族の背中に追いついた程度。俺が打てる他の手段は既に準備が済んでいる。後は少しでもエクドイクの力を底上げしていかねばならない。
「そうだな。胸を借りさせてもらおう。感謝する、碧の魔王」
「――礼ならば結果で示せ」
真っ直ぐな視線を向けるエクドイクを見て、自身の心中に少しだけ雑念が混じるのを感じた。
かつて同じような眼差しを向けてきた者達。彼らが皆この域へとたどり着けていれば……そんな甘えた考えだ。
不完全なれど、一人残ってくれた。それで満足出来ぬとは、強欲な。人のような未練を溢すなぞ、随分と感化されたものだと自身を鼻で嗤った。
碧だって羨ましがる時はあるのです。
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フランス語訳の方も出たりと、コウ先生頑張っておられる。こちらもできることをしていきたいところ。