ゆえにやり直す。
川に流される糸を眺めながら、日光の暖かさに飲まれていく。日本でも付き合いで釣りをしたことは何度かあったが、こうして自発的に釣りを楽しむ日がこようとは当時の自分では考えもしなかっただろう。
「ご友人、釣れていますかな?」
「ミクスか。まあボチボチだ。こっちの世界の川は鉱山の近く以外は綺麗だから、魚も多くて助かる」
「ほほぉ。確かに悪くない釣果ですな。ところでそこに正座している方々は一体……」
現在イリアスとラクラ、エクドイクの三人がこちらの後ろで正座をしている。ミクスとしてはできればスルーしたかったのだろうが、ミクスに向けられる視線を無視し続けることはできなかったのだろう。
「そこの三人は途中から釣り竿ではなく、剣だの魔法だの鎖だので乱獲を始めてな。向こうに干してある何故かずぶ濡れになった『俺』の服が自然に乾くまでの間、罰として正座をさせている」
「ご友人がエクドイク殿の上着を着て、エクドイク殿が自作の鎖帷子を装備しているのはそういった理由なのですな……。ラクラ殿はさておき、ラッツェル卿とエクドイク殿は何をしているのやら……」
「申し訳ありません。ラクラに煽られて、つい」
「すまない。ラクラに煽られて、つい」
「ラクラ殿……」
「もう散々怒られたので、そっとしておいてくださいぃ……」
ラクラはセレンデでの一件以来、『盲ふ眼』を封印された状態で生活をしている。その影響で視力が極端に下がり、眼鏡などでは矯正できない状況となっていた。
常に誰かと一緒に行動をしなければ日常生活にも支障が出るのだが、名誉の負傷ということでユグラ教からは当面の間有給扱い。当人は誰かに甘える口実ができたということで割と今の状況を楽しんでおり、いつも以上に調子に乗りやすくなっている。
本来ならば原因の一端を担うこちらとしては強く言えないのだが、当人がワザと怒られたがっている気配がするので、そのへんは容赦をしないようにしている。ラクラなりの気遣いなのは分かるが、それでトラブルを起こされるのはどうなのか。
ちなみにマセッタさんも同様に休みを貰っている。彼女の怪我は既に完治しており、今はハークドックと一緒にクアマ魔界でジェスタッフの仕事を手伝っているとのこと。
こちらの監視の任務はメリーア一人に任された形になっているが、こちらがターイズで骨休めをしている間はマーヤさんもいるわけだしな。
「それで、わざわざ釣りを見に来たってわけでもないんだろう?」
「ご友人に会いたい気持ちが一番ではあります。『紫』殿からの言伝で、もう少ししたら碧の魔王がターイズにくるとのことです」
「そっか。それじゃあターイズ城に行かなきゃならないか。エクドイク、服を乾かしてくれ」
碧の魔王からはターイズに戻ったらすぐに顔を見せろと言われていたのだが、休息を取りたいと願っているこちらの話をいずれかの魔王が伝えてくれていたらしい。それで『次に起きた時にこちらから出向く』という感じになっていた。
皆からすれば、あまり会ってほしくない相手ではあるのだろう。だけどまあ、向こうには向こうなりに伝えておきたいこともあるわけだしな。
「乾いたぞ、同胞。ところでミクス。紫の魔王は何故お前を言伝に?」
「『紫』殿はノラちゃんの研究のお手伝いをしておりますからな。暇人の私が抜擢されたのですぞ。何か気になることでも?」
「そこには『蒼』もいるのだから、飛行のできるベラードの方が早かったのではないかと思ってな」
「ベラード殿でしたらルコ様のおやつ作りを手伝うと、確固たる意思を見せておりましたぞ」
「ググゲグデレスタフの時もそうだけど、悪魔って意外とグルメなのかもな」
その中で舌の特異を持つデュヴレオリがあまり食事に拘りを見せない理由は……過去に食べた『紫』の料理の感想を言いたくないからなのではないだろうか。『紫』の料理の腕はもう十分高いレベルなのだから、素直になった方が得だというのに。
城へと向かい、マリトのいる執務室へと顔を見せると、そこにはマリトにしがみつき駄々をこねているバラストスの姿があった。
「ねー!ちょうだいよー!ケイールが欲しいのー!あの子だってまんざらじゃないんだからいいでしょー!」
「だから俺に頼むなと言っているだろう!ケイールとお前の問題は当人同士で解決しろ!」
「だってー!あの子ここ辞める気ないんだもん!ほら、王様命令でパパっと切るだけでいいからさー!」
実に大賢者らしからぬ台詞ではあるが、大学の教授等、何かの才能に秀でた人物は大抵どこかに強い個性があるものだ。むしろこういった自分の欲望に素直な点が大賢者の域に届いた要因だったりするのだろう。
「お、友よ。君もこいつに何か言ってくれない?」
「そう言われてもな……。なぁバラストス。別にケイールが騎士を辞める必要はなくないか?」
「だってあの子剣の才能ないじゃない!剣を振る暇があったら私の絵を描いてほしーのー!」
実に言いたい放題である。ケイール本人が聞いていたら乾いた笑いが出ていそうだ。しかしバラストスが本人ではなくマリトを頼っているのは、バラストスがケイールを説得することができないと白旗を上げたからである。賢王を説得した方がまだ可能性があるって、流石はルコの弟だ。
「互いに妥協し合うことも大事だとは思うんだがな。騎士の道はケイールにとっても憧れだったわけなんだし」
「ぶー。良いじゃない。私のものになってくれれば、私の全てを与えるんだから」
「憧れに向かって努力する姿も悪くはないだろ?」
「そんなもの、絵を描く時に私を見つめる瞳と比べたらどうでもいいのー!」
よし、諦めよう。これ以上踏み込むと、確実に巻き添えを食う。どうせケイールは自分の選びたい道を選ぶし、困るのは絡まれ続けるマリトだ。ここは巻き込まれない方向でいくとしよう。
「友よ。君の顔から俺を見捨てようという強い意思を感じるよ」
「以心伝心で嬉しいよ。それよりも碧の魔王が来るんだろう?そっちの準備はしなくて良いのか?」
「あんな奴、もてなしたいとも思わないね」
実に賢王らしからぬ台詞ではあるが、顔も声も好みも一緒ともなれば同族嫌悪も相当なものだろう。何もしてないわけではなく、ルコがもてなし用のお菓子を焼いているのだが、それが余計に嫉妬心を煽っているようだ。
ルコとしてはマリトと瓜二つ、それもターイズ王家のご先祖様である碧の魔王をぞんざいに扱うわけにもいかない。ついでに取引ではあるものの、誰かさんの命の恩人であることを理解してくれている。こと碧の魔王に対してはマリト以上に大人の対応をしているのだ。
「え、碧の魔王くるの?ちょっと私も見てみたーい!」
「神経を逆撫でするだけ……いや、悪くないな。同席を許可しよう」
こいつ……碧の魔王を苛立たせたいがためだけにバラストスを同席させようとしてやがる。自分が苛ついているから、きっと碧の魔王も苛つくだろうという確信を持っているのだ。それで良いのか賢王。場合によっちゃ現世界最強の魔王が敵になるんだぞ。
しかしそんな心配をよそに、バラストスは偶然通りかかったケイールを発見し、そちらの方へと行ってしまった。実に気まぐれな大賢者である。
そんなこんなで準備をしているうちに、碧の魔王がニールリャテスと共に現れた。常に不機嫌そうな顔をしたマリトといった碧の魔王と、一緒に外出ができてご満悦のニールリャテス。ここまで空気に差がある主従もなかなか……『金』とルドフェインさんも似たようなものか。
「少しは休めたようだな」
「おかげさまでな。帰ったら顔を見せろって言っていた割には、随分と待ってくれたな」
「俺を誰だと思っている。俺以上に休息の価値を理解している者がいるとでも?」
年がら年中寝ている魔王が言うと妙な説得力があるな。お前は寝すぎだろうとか少し思ったけども。
「お前は寝過ぎだろうに」
「マリトよ……」
「俺ほどになれば手足を動かさずとも、夢の中で仕事ができる。未だに筆を取り、羊皮紙なんぞに向かい合う原始的な人間と一緒にするな」
「うわ、それちょっと羨ましいな。『俺』もさ、夜遅くまで作業をしてるとよく怒られるんだよ」
「友よ……」
「貴様は人間なのだから、人間らしく働け。貴様が魔王になることがあれば、方法くらいは教えてやろう」
「友を人外の道に誘わないでもらえるかな?」
しかしこの二人の会話を交互に聞いていると、一人芝居を見ているような感じで脳が少しだけ麻痺してしまう。いっそマリトには面でも被ってもらおうかな。
「――まずはネクトハールの件、礼を言おう。貴様を治療した対価、確かに受け取った」
「蘇生魔法の研究成果の一部は今も厄介な奴に握られているけどな」
「落とし子を束ねる男、リティアル=ゼントリーか。この世界に生まれ続ける落とし子と向き合うのはこの世界の役目。貴様に課せられたものではあるまい」
「関わっちゃいけないってわけでもないだろう?」
「そうだな。貴様が努めるのであれば、俺も猶予くらいは与えてやる」
この世界を理の中で存続させるための監視者。それが碧の魔王が自らに課した役目だ。人間を見限りながらも、見捨てきれないこの魔王は心のどこかでこの世界を信じているのだろう。
さて、これまでの取引が終わった以上、新たな交渉を切り出す良いタイミングではあるのだが……今は止めておくか。ウルフェやラクラが自分の負傷の回復よりも、こちらのメンタルケアを希望している以上はその意志を汲み取るつもりだ。
「そっか。ありがとうな」
「――今回の戦いの話も聞いている。貴様の管理している落とし子が両腕を失ったそうだな。何故俺に交渉を持ちかけない?」
「そりゃあタダってわけにはいかないだろう?」
「無論だ。交渉は対等の価値があってこそ成り立つのだからな」
「その対等の価値を用意するために無理をすると、『俺』以上に心を痛める奴らがいるもんでな」
「……ふん。実入りのある取引になるのであれば、席くらいはいつでも設ける。せいぜい英気を養うことだ」
この話は碧の魔王にとっても、あまりいい気分のする内容じゃなかったな。だがやっぱりこいつはマリトに似て、芯のある魔王なのだと再確認できたから良しとしよう。
「ああ、その時は良い商談になるよう期待しているよ。碧の魔王」
「『碧』で良い。その方が『金』共への意趣返しになる」
「はいよ。確かに嫌そうな顔をするだろうな」
マリトとニールリャテスも既に凄い顔をしているが、そこは触れない方向でいこう。
「話を変えるが、貴様の中にある『黒』の魔力についてだが……管理はできているようだな」
「傾向が分かれば流石にな。他人の夢とか見たくもないし、定期的に対応しているよ」
この異世界に『俺』を誘った黒の魔王。その彼女の魔力は今もなお『俺』の体の中に存在し、時折俺の意識に干渉してきていた。その顕著な例が夢に見る黒の魔王の記憶だ。
まるで自分が経験してきたようなリアルな感覚、黒の魔王の意思が自分の中に根付いていくのは中々に気持ちが悪かった。
「それで構わん。自我すら持たぬ意思の残骸ではあるが、『全能の黒』ならばそこから貴様の体を乗っ取るくらいは平然とやってのけるだろうからな」
「やっぱりそういう類の呪いだったのな」
黒の魔王が『俺』をこの世界に召喚した目的。それは魔力を持たない人間を召喚し、黒魔王殺しの山から脱出させ、その後はその人間の自我を奪い、本来の自分の体を取り戻すために行動することだったのだろう。
「つくづくあの女は運がないな。魔喰から逃れるため、自らの精神に適合する存在を異世界から引きずり込めたと言うのに。よもやそのための侵食の対抗策を持つ者を選んでしまったとはな」
分の悪い賭けではあったが、彼女はその賭けに勝った。脆弱なだけの人間ではあったが、その人間は黒魔王殺しの山を見事に脱出し、近くにあったターイズに保護された。
これで自我さえ乗っ取ることに成功すれば、黒の魔王は再びこの世界に復活する機会を得ることができていた……。しかし異世界から引き寄せてしまった男が、よりによってその計画と致命的に相性の悪い『俺』だったのだ。
「まあ乗っ取られたくはないからな。せいぜい気をつけるとするさ」
「そうしろ。俺も『黒』は二度と相手にしたくはない。……頃合いか。話は済んだ。帰るぞ、ニールリャテス」
「……えっ!?はっ、はい!了解です!」
突然立ち上がった『碧』に対し、慌てて立ち上がるニールリャテス。こいついつから呆けていたのやら。
二人が部屋を出ようとしたタイミングで、ルコが扉から入ってきた。焼き菓子の甘い香りが部屋に入り込み、お腹が鳴りそうになる。
「す、すみません。準備が遅れて――」
「構わん。土産用に包んでいて遅れたのだろう。それだけいただこう」
こいつ、ルコがお菓子を持ってくるタイミングをずっと待ってたんじゃないのか……いや、多分そうだ。さっき頃合いとか言ってたしな。
そういえばニールリャテスはルコについてどう思っているのだろうと彼女を見る。ニールリャテスは一時期ターイズにいた。ならばルコの姿くらいは何度か見ていたはずだ。過去に見知った顔の人物に対し、『碧』が僅かながらにも意識を向けていれば思うところもあるだろう。
「……じぃ」
「あの……?」
「……いえ、なんでもありません!少々懐かしい顔でしたので、つい」
「そ、そうですか……。あ、こちら貴方の分も……」
「えっ。いやいや!私が我が王と同じ土産をいただくなど――」
「参考に貰っておけ。俺の城で俺のために菓子を焼けるのはもうお前だけなのだからな」
「――っ!は、はい!」
ニールリャテスはどこか嬉しそうな顔で、ルコから菓子の入った袋を受け取った。ミクスの時と同じように、敵意を含むのではと考えたが、どうやらそれは杞憂に終わったようだ。
ルコを見つめていたニールリャテスから感じ取れたのは、親密さを含む哀愁のようなものと僅かな背徳感だけだった。
◇
後悔ならいくらでもある。君に力を授け、機会を与えてしまったこと。君に名前を呼ばれなくなるのが嫌で、代わりの対価を選んでしまったこと。自分の可能性に慢心し、君を絶望に突き落としてしまったこと。
与えたかっただけなのに、僕は君から奪ってばかりだ。君の笑顔をもう一度だけ見たい。それだけのためにやってきたのに、世界はそれを許そうとはしない。
君がいる世界だから、君と出逢えた世界だから、君のために残そうとした世界だったのに。ああ、どうして僕はこんなモノを大切にしていたのか。どうして君だけを優先できなかったのか。
今となってはもうどうでもいい。何もかもがダメになったのだから、僕にできることはこの世界には残っていない。だから――
「……ん」
まどろみの中で自分の意識が覚めていることに気づく。まだ眠いはずなのに、こうして意識が現実に戻ってくるということは、体の方は十分に休めたということなのだろう。
この余韻を楽しむのは好きだ。酒や薬に頼らずとも心が穏やかになれる。肌に触れる毛布の感触も、この時だけは極上の宝のように感じられる。
「おい、起きたのかユグラ?」
「――ゴミみたいな声」
「よし、起きやがれ。さもなきゃぶん殴る!」
毛布を引き剥がされ、自分を包んでいた温もりが外へと散っていく。その消失感に現実を思い出し、意識が徐々に鮮明になる。
「……おはよう。テドラル」
「お、おう……。その名前で呼ばれるのも久々だな」
「ああ、ごめんごめん。昔の夢を見ていたからね。お留守番ご苦労、『色無し』」
「その態度はその態度でムカつくな」
「あはは」
このやり取りも懐かしい。だけどやっぱりここには彼女の姿はない。いるはずもない。彼女の居場所を奪ってしまったのは僕なのだから。
「――なぁ、帰ってきた時に言った言葉……あれは本気なのか?」
「うん。もうこの世界じゃ『黒』は救えない。だから時空魔法で全部やり直すことにしたんだ」
いよいよ最終章(予定)です。
ニールリャテス視点での話はあまり語られないと思いますので、後書きにてオマケ話を。
ニールリャテスはもともと碧の魔王の側仕えでした。ルコのご先祖様と同じ職場の関係だったりします。仲は良好だったようです。
自分を慕い、ついてこようとした者達を魔族として受け入れていた碧の魔王でしたが、ルコのご先祖様だけは『庭師は不要だ』と魔族にしませんでした。
ルコのご先祖様の王を慕う想いを知っていたニールリャテスですが、何故王が彼女を受け入れなかったのか、当時は理解できていませんでしたが、魔族となったネクトハール達が壊れていく様を見て、碧の魔王が拒んだ理由に感づきました。
現代にて、ハイヤを探すためにターイズを調べていたニールリャテスはルコを何度か見かけています。そんなルコがマリトと婚約しているといった話を聞き、『やっぱり、そうなるんですね』と内心思っていました。
ルコの菓子を受け取る碧の魔王の姿を見て、少しばかりヤキモキもしていましたが、碧の魔王の言葉の意味を察してホッとしているようです。
『人の王としてならば、彼女を選んだかもしれません。ですが我が王は魔の王として、私を認めてくれている』と。
でも毎回紙一重で即死しかねない一撃をお見舞いしてくる碧の魔王。ニールリャテスの乙女心を見透かしているくせに容赦ないな。あいつ。