そんなわけで、万全の状態で。
ヒルメラ王女がいるとされる塔を登る。全ての準備を整え、後は彼女を止めるだけ……なのだが、その空気は重い。
彼の策は相手の動きを十年来の相棒であるかのように理解し、その行動すら誘導する必勝の策。準備が整ったというのであれば、後はもう結果を見届けるだけのこと。
それなのに彼からは不安の混じった気配を感じる。不確定要素があるのではなく、確定的な要素に対し、対処を考えついた上で不安を抱いているのだ。
……迷う必要はない。私は私のまま、彼の指示に従えば良いのだ。私が私らしく動くことが、彼の策を完成させる欠片となるのだから。
手元で魔力を弄り、簡易的な魔法を構築してみる。市街地で戦っている誰かが魔封石を撤去できる可能性があるため、一定時間ごとに魔法の構築を試しているが……っ!
「――魔法が使えるようになっている。誰かが魔封石の破壊に成功したようだ」
「思ったよりも早かったね。魔封石が攻城兵器の保管庫にあったか、誰かが単身で資材保管庫に向かったか……後者かな」
「魔封石の場所に見当がついていたのか?」
「ヒルメラの目的はこの国に痛手を与えることだ。ならこの騒ぎに乗じて資材を破棄することも計画に入っているだろう。国の抱えている資材を処分すれば、それだけ大きな物を隠す場所になるからね」
攻める時に使う攻城兵器と攻守に使う資材、確かにこの状況下で失われて困るのは資材の方だろう。
情報を得たいところではあるが、通信用の水晶を持っているのはミクス様だ。私達は引き続き孤立した状況でこの騒動にケリをつけなければならない。
「魔法が使えるようになったのはありがたいが、それはヒルメラ王女にも言えることだ。死霊術による抵抗が行われるだろう。私からあまり離れないようにな」
「ヒルメラ王女についてはそこまで問題はないよ。むしろ魔法が使えるようになったのはありがたいことだ」
彼の言葉に少し首を傾げた。私は基本的な魔法は使えるが、魔法を活かした戦闘はあまり行わない。ラクラのように反射的に魔法が使えるわけでもないし、エクドイクのように通常攻撃と魔法の両方を高い水準の状態で維持できないからだ。
彼はこの先の展開をどこまで見通しているのだろう。人によってはまるで未来視をしているかのように感じる先見の明を持つが、彼はその結果を憂いて表情を曇らせているのだろうか。
「……扉だ。蹴破るぞ!」
階段の先に現れた扉を蹴破り、中へと入る。高い塔の上に作られた部屋で、周囲には美術品などが設置されている。そのいくつかには大きな布が被せられており、その存在が奇妙な威圧感を放っていた。念の為探知魔法を使うも、反応があったのは一点のみ。
この場所は何か作業をするための場所のようで、天井は高く中央には十分に広い空間がある。
その空間の中に、一人筆を執り、イーゼルへと向き合っているヒルメラ王女の姿があった。
「鍵は開けてあったのに。ターイズの騎士はせっかちなのね」
「ヒルメラ王女……っ!」
「御使い様もようこそ私のアトリエに。この場所に最初に現れるのは御使い様だと思っていたわ」
ヒルメラ王女は立ち上がり、筆を向けていたイーゼルをこちらの方へと向けた。イーゼルに立てかけられていた絵、そこに描かれていたのは男性の胸像だった。歪さを感じる独特さがあり、それがワシェクト王子の絵なのだろうというのは伝わってきた。
しかしそれよりも気になるのはこの部屋に漂う臭い。油絵具のものに混ざっているのは明らかに血の臭いだ。
「どうかしら?お父様の血を使った赤色はとても良く映えていると思わない?」
「――っ!?」
血の匂いの正体を知り、ヒルメラ王女の穏やかな笑顔に背筋が凍る。この王女は父親を手に掛けて、あまつさえこのような……。
これまで実感こそなかったが、今の彼女を見て、この凄惨な状況を作り出したのが間違いなく彼女であると理解した。
「それで、御使い様は何をするためにここに?そちらの騎士様は臨戦態勢だけど、貴方からは殺気や敵意をまるで感じないのだけれど」
「……そうだね。正直なところ『私』に君に対する敵意はあまりないかな」
「あら、利用されたことくらい気づいているでしょうに。お優しいのですね、御使い様は。それで、私を説得しに来たのですか?」
「可能なら君にこの状況を収めて欲しいとは思っているけどね」
ヒルメラ王女はイーゼルから絵を取り外し、少し離れた場所にあるテーブルの上に置いた。そしてそのままこちらへと向き直り、感情のこもっていない笑顔で語りかけた。
「説得をしたいのかしら?御使い様はどのような言葉で私を説得しようとするのかしら?お父様やチサンテのようにお兄様はそんなことを望んではいない、お兄様が悲しむと、そんな分かりきったことで私を諭すのかしら?」
チサンテ王子とユミェス王女の消息も不明だと聞いていたが、おそらくは既に……。
ヒルメラ王女は敬愛するワシェクト王子のためにこの騒動を起こしている。説得をするのであれば、やはりその点を突いていくしかないのだろうが……。
チサンテ王子やセレンデ王ならば、私よりもきっと賢く説得することができていただろう。それでもヒルメラ王女を説得することはできなかった……。彼ならばできるのだろうか……しかし、他に説得に使える要素など皆目見当もつかない。
「説得?しないさ、説得というのは得を説く行為だ。君は自分にとって最も得するよう動いているのだし、『私』にそれ以上の得を用意はできないさ」
彼の言葉に唖然としたのは私だけではなかった。ヒルメラ王女もまた、その笑顔に驚きの感情が混ざっているのが見える。
「……言葉と行動が一致していないように感じるのだけれど?」
「そうかな?元より君の目的はほぼ達成されているからね。今更君に何かをしたところで意味はないと理解しているさ」
彼は先ほどまでヒルメラ王女が絵を描いていた場所まで移動し、そこに置いてあった筆を手にとった。
「長く使われている筆だけど、先がボロボロになっているね。今日一日で物凄く乱暴に扱ったんだろう。『私』達に対し、どれだけ自分が狂気に染まっているのかを見せたくて頑張ったんだね」
「何を――」
「君は狂ってなんかいない。君が行っているのは全て狂気に染まったフリだ」
彼の言葉にヒルメラ王女の表情が固まる。彼はそんなヒルメラ王女に対し、静かな表情のまま、その内面を暴いていく。
「君は自分が狂っているように見せる必要があった。国を傾かせ、ワシェクトに王位を継がせる機会を作っても、ワシェクトに溺愛されていた君が首謀者では彼にいらぬ疑いが掛けられる可能性があると危惧して。だから完全に自分一人がやったのだと証明するために、狂気じみた行動を取った。チサンテやユミェスは死んでいるかもしれないけど、案外セレンデ王はどこかに拘束された状態で生かされているんじゃないかな?」
彼は筆を置き、周囲を見渡す。そこにはセレンデにあった遺跡に置かれていた石像などがところどころに並べられている。
「面白いことを言うのね、御使い様は。私が狂っていると言うのではなく、狂っているフリをしているだなんて」
「動機も既に分かっている。表立った理由こそワシェクトのためなんだろうけど、実際は君自身の満足のためだ。君はワシェクトにしてもらったように、ワシェクトに自分を捧げたいんだろう?」
「……そう、そこまで分かるのね」
「ヒルメラ、最初に君と会った時から君がワシェクトに特別な想いを抱いていることは分かっていた。君はワシェクトの献身さに惹かれていたんだろう?」
ヒルメラ王女とワシェクト王子、ワシェクト王子の方が妹である彼女を溺愛している関係かと思っていたのだが、ヒルメラ王女もまたワシェクト王子に兄妹の絆を超える感情を抱いていた……。
そこまでは聞かされていたが、その根底にあるものは私も知らない。彼の憶測の域なのだろうが、それが事実であることはヒルメラ王女の様子の変化から伝わってくる。
「ワシェクトは次期国王の座を競い合う王子の立場を捨ててでも、君の絶対の味方としてあり続けた。君はその迷いのない献身さに心を打たれ、憧れてしまった。だけど君は内心焦っていた。君はセレンデ王と直接の血の繋がりを持っていない。周囲の目からも王位継承の資格なしとみなされた立場だ。君には捧げる立場がなかったんだ」
彼の目はいつもの通り、深く深く、相手を取り込もうとしているかのような瞳をしている。ヒルメラ王女の本心を暴くだけではなく、彼女の感情を揺さぶるための言葉を選びながら語っている。
今の彼は自分のことを『私』と呼んでいる。この時の彼は人情と言ったものが欠如しているかのように、相手の心をかき乱す。今の彼は自分がヒルメラ王女であるかのように、その心情を語っている。
「君はあらゆる方法で彼に自身を捧げる方法を考えた。だけどワシェクトはそれを受け取ってはくれなかった。受け取ってくれた時もあったが、君自身が納得できるような献身はできなかった!」
心中の苦悩を訴えるかのような芝居がかった話し方。彼はヒルメラ王女の本心を道化のように暴き、挑発しているのだろうか。少なくともヒルメラ王女の顔にはもう余裕を含んだ笑みはない。彼の恐ろしさを改めて認識し、警戒している表情だ。
「だから君はワシェクトを王にしたかった。彼が捨てたものを君が取り戻すことで、少しでも対等になろうと思った。だがその企みすら叶うことはなかった。この一件は君にとって最後の機会だ。ワシェクトから受け取ったものを返すため、君が全ての罪を背負い、全てを捨てて彼に献身するための」
「――そう、ムールシュトが貴方を気に入った理由、理解できたわ。そうね、私はお兄様のように、お兄様に与えられたものをお兄様に返したい。ただそれだけを考えて生きてきた。私はもうここで終わりでも構わないのよ。ううん、終わるべきなの」
ヒルメラ王女が笑った。今までに見た笑顔ではなく、本心から出た穏やかな笑み。彼の語った内容が正しいのだと認め、誤魔化すこともなく開き直ったようだ。
「私にとってお兄様は全てなの。お兄様が私のためにしてくれたように、私も全てを捨ててお兄様のために尽くしたい。御使い様にとっては笑いたくなるような理由でしょう?」
「そうでもないさ。理解はしているし、共感もしている。きっと君と同じ状況だったのなら、似たようなことをしていただろうね」
「あら、お優しいのね」
「でも『私』ならそもそもワシェクトが王位をヌーフサに譲るようなことはさせなかったよ」
「――っ」
鈍い私でも、彼の言葉がヒルメラ王女に突き刺さったのがはっきりとわかった。
「君を否定するつもりはないが、君の落ち度は指摘しよう。君はワシェクトを神格化し過ぎた結果、彼の心に訴えかける行為を躊躇していた。彼の心を本気で知ろうとしなかった」
「そんなことは――」
「ワシェクトを見ていれば分かるさ。彼は君を溺愛していたが、君から受けた影響がまるでない。君は愛される立場でいることを良しとしなかったくせに、彼の心に踏み込む勇気がなかった。『私』なら多少嫌われてでも、彼を変える努力をしていたよ」
ヒルメラ王女の顔に怒りの感情が浮かぶ。ここにきて彼の言い回しの意味が理解できた。ワシェクト王子が全てだと言い切るヒルメラ王女に対し、彼は自分のほうがワシェクト王子を導けると、理解していると、彼女が捧げてきたものを上回ろうとしている。
これが赤の他人なだけならば、きっと今の言葉は響かなかっただろう。しかし自分を理解し、共感すらできた者に、今の言葉を言われては否定しきることは難しい。
「……私を挑発してどうしたいのかしら?油断を誘って捕らえたいの?心配しなくても、腹いせに暴れはするけども、そこの騎士様を倒すまでにはいかないと思うわよ」
暴れるのか……と思いつつヒルメラ王女を見ていると、彼女は懐から土笛を取り出した。魔法的な要素は感じないが、この局面で取り出すものならば警戒せざるを得ない。
彼の前に出て様子を伺っていると、ヒルメラ王女は土笛を奏で始めた。すると周囲に配置されていた美術品と思われていた物が動き出し、その布が落ちていく。
それは先程見た獣のアンデッド。数は十で周囲をしっかりと囲まれている。元々が死体なので完全に沈黙していれば物音一つ立てることなく潜伏することができるということか。
探知魔法にも反応しなかったことから、これらのアンデッドは体内の魔力さえも完璧に留めることができるようだ。もっとも姿を見せた以上は気にする要素ではないのだが。
「魔封石が破壊されていようといまいと関係なく、音で動かせるように調教していたようだね」
「不用意に置かれている物には近づかない方がいいな。潜んでいる状態では探知魔法にも引っかからないようだ」
「この場所に用意してある子達はこれで全部よ。殺せはしなくても、多少の抵抗はできるでしょうからね。出し惜しみはしないわ」
次の笛の音でアンデッド達が一斉に飛びかかってくる。
ヒルメラ王女は最初から私を倒そうとはしていない。ならば狙うのは彼ただ一点。機動力のある敵に同時に襲いかかられては、彼を護りながら戦うのは中々に大変だろう。
しかし魔封石の影響下ではなくなったため、剣に浄化魔法を付与することができる。
「ふっ!」
彼を担ぎ、後方側から迫ってきていたアンデッドの頭上を飛ぶ。すれ違いざまに首を刎ね、地面へと着地する。再生は……していない。獣であれども、アンデッドであることには変わらず、浄化魔法は有効なようだ。
剣を構え、アンデッド達を見据える。彼のために一刻でも早く、この戦いを終わらせなくては。
見返りを求めない溺愛も考えものだったりします。
少しばかり、コミカライズの二巻の書影等が公開されました。興味のある方は是非ツイッター等で検索してみてください。書籍とは違ったモフいウルフェが可愛い表紙となっております。