そんなわけで、出番です。
「ヒルメラ様、ただいま戻りました」
「おかえりなさい。それは返り血?」
ヒルメラ様はよく自室で奇行に走る。石像に囲まれ不気味な笑い声を出すこともあれば、今日のようにワシェクト様のことを思い出しながらその絵画を描くことも……しかも下手。
「ええ、絵の具にでも使います?」
「お兄様を描くのに不純物なんて使うわけないでしょ。あ、でも発想は悪くないわね……。でもお兄様に血を分けていただくわけにもいかないし……」
「僕の血は嫌ですからね」
「貴方の血も不純物じゃない。私の血ならぎりぎり許容な範囲ね」
自分の腕を眺めているヒルメラ様がちょっと怖い。この人、決断した時の迷いのなさは凄まじいからなぁ。世話役のメイド達に包帯を多めに手配させておいた方が良いのかもしれない。
「やるなら止血の準備をしてからにしてくださいね」
「うーん、やっぱりなしね。だってほら、赤色を使うのって肌色の下地部分じゃない?そこに私の血が混ざったら、それはお兄様とは呼べないでしょう?」
「当人の血を使ったとしても、ヒルメラ様の技術じゃとてもワシェクト様とは呼べないと思いますが」
「芸術を理解していないわね。絵というのは見たままの姿を模写するだけのものじゃないのよ」
そういってワシェクト様?の姿が描かれた絵を見せてくる。ただどうみても人の姿じゃないし、こんなのと夜に出くわしたら僕でも悲鳴を上げてしまうだろう。
ただ絵に狂気は込められているが、絵そのものに狂気は感じない。姿こそ歪ではあるが、ああなるほどと、ヒルメラ様にとってのワシェクト様を現す心の形のようなものなのだと伝わってくる。
「言わんとすることは伝わりますよ」
「そうでしょう、そうでしょう」
「ですがヒルメラ様、こういった抽象絵画は具象絵画を描き尽くした者が行う技法ですよ?瓜二つに描く技術がないからと逃げる道ではないかと」
「今から貴方の絵を具象絵画として描くわ。貴方の血を樽一杯分ほど貰おうかしら」
「わぁー。ヒルメラ様の絵は素晴らしいなぁー。ワシェクト様に抱いている想いとかひしひし伝わってくるー」
ヒルメラ様は絵の具を伸ばす為に使うナイフを無言で投げてくる。受け止めたのはいいけれど、指先が絵の具で汚れてしまった。とりあえず顔狙いは止めてほしい。
「それで、今日は少し不機嫌じゃない?」
「あ、分かります?実はですね、彼が殺されかけまして」
報告を簡単に済ませる。ヒルメラ様からすれば、他の王子達の手駒である暗部を削れたのだから、朗報なのだろうが僕にとっては不満が残る結果だ。
最初から彼を襲われることを想定して行動していたとはいえ、実際に彼が目の前で建物の倒壊に巻き込まれた瞬間には、思わず飛び出してしまいたくなったものだ。
今ならヒルメラ様の抱く、ワシェクト様を利用する王子達への嫌悪も十分に理解できるだろう。
「本気で狙ったと思う?」
「フリですね。彼の心を折るのが狙いでしょう」
魔力強化に精通した護衛がいる以上、民家の倒壊程度で標的が殺せるわけがない。連中の狙いは彼に命を狙われている実感を持たせることと、その親しい関係にあった工作員を目の前で殺すことだ。
「御使い様の心、折れると思う?」
「――傷ついたことは確かですね。でも……折るには至らなかったでしょう」
「それは貴方の願望ではなく?」
「願望だけ言うのであれば、まるで意に介さないでほしいところですよ」
彼はトッパラが死んだことで間違いなく心に傷を負っただろう。トッパラが利用されることは予測できていたのだろうし、どこかのタイミングで距離を取ろうとしていたのだろう。
だけど遅すぎた。王子達が役に立たない無能を切り捨てる躊躇のなさを甘く見すぎていた。人の命を尊重することに意味がないとする連中のことを、正しく理解しきれていなかったのだ。
「じゃあいよいよ本気になってくださるのかしら?」
「なるでしょうね」
彼はそうやって心をすり減らして生きてきたのだ。一度は燃え尽きかけていたのだろうが、この世界が彼の燻っていた熱を元に戻していった。誰かのために熱を持ち、その身を焦がしながら進んでいく。その儚さこそ僕が心惹かれた姿、望むべき結果なのだ。
だけど、その結果を以てしても僕の心は乱れつつある。よりにもよって、彼の傍に居続けるイリアスに対して感情的に接してしまった。
本心なのだから、それを彼に知られること自体はなんら不都合のないことだ。問題はそこではなく、僕自身が今この胸の中に育みつつある想いにあるのだろう。
彼を失うかもしれないと考えがよぎった時に抱いた焦り、傍観する立場で構わないと思っていたはずが……徐々に。
「ところで、私の絵ってそんなに下手?」
「絵を描いている姿だけは絵になりますね」
今度は画板が飛んできた。
◇
ししょーは取り乱した様子もなく、イリアスが帰ってきてからも一言も喋らないまま私達が集めた情報をまとめていた。
もしもトッパラさんの死を嘆いているだけならば、慰めることができた。あの人の死の原因が自分だと責めていたら、それは違うと宥めることができた。
そこに怒りが見えたなら、そこに焦りが見えたなら、私達の誰かがきっとししょーに言葉を投げかけたに違いない。だけど誰もが口を開かない。その理由はきっと私が感じている気持ちと一緒なのだと思う。
「――イリアス、なにか情報は得られたのか?」
「あ、ああ。あの場所から避難する直前、血の臭いを感じ取った。そこで――」
イリアスはあの後ムールシュトと会ったことをししょーに話しました。できることなら今のししょーにあの人の話題は避けてほしいと思う……。
ししょーはイリアスから受け取った暗部の荷物を確認した後、私達の方へと向き直りました。
「さて、と……今回の襲撃だが、連中は本気で殺すつもりではなかった。イリアスとウルフェの実力を知っているのであれば、家の倒壊と放火程度でこちらを殺しきれると判断するわけもないからな。具体的な狙いとしては、『俺』の目の前でトッパラを殺して精神的な圧力を掛けることだろう」
「そう判断した貴方自身はどうなの?」
そんな『紫』さんの問に、ししょーは顔色一つ変えないまま静かに答えます。
「効いた。半端に見せていた甘さに見事に付け込まれ、本腰を入れようとした矢先に出鼻を挫かれた」
「その割には平気そうな表情ね?」
「泣き喚くことで事態が改善されるなら、今すぐにでも泣き出したいところだよ」
とてもそうには見えない顔で、ししょーらしくない台詞。だけどそれ以上に気になるのは、まるでししょーが自分のことを他人のように分析していること。
「……そう。それで、この後はどうするつもりなの?」
「恐らくこのままのペースで情報収集を行っていれば、王子達の妨害が『俺』ではなく皆に集中することになる。それは避けたい」
「手段を選んでいる余裕がなくなってきたのかしらね?貴方が望むのなら、私はいつでもこの力を使うわよ?」
「……それも悪くないかな」
その言葉に一番驚いた顔をしたのは、提案を持ちかけた『紫』さん本人でした。魔王としての力は使わない方針だったのに、それを曲げてしまっても構わないとししょーが言うのは明らかにおかしいことです。
「あら、素直に頼ってくれるのね?ちょっと驚いてしまったわ?」
「人と人の問題だから、できることなら人としての力の範囲で対応したかったことは事実だ。だけどその拘りのせいで犠牲を出すわけにもいかない」
「そうね、それは同感よ?」
「『紫』、王子達がこちらを警戒している以上、まとめて『籠絡』することはできない。一人ずつの攻略になる。だけどこちらが強硬策に出れば、残りの王子達の中には逃亡を考える者も出てくるだろう。その中にラーハイト達の協力者がいる可能性も十分にある。逃亡先を把握するためにはセレンデ国境付近に悪魔達を配備し、追跡の仕込みをしておく必要がある。完璧に手筈を整える場合、何日掛かる?」
「――バトラー・アーミーを隊長として複数の隊の編成を整える必要があるのよね?管轄の分担、地形の把握等含めれば七日もあれば十分よ?」
「それじゃあ準備を頼む」
「ちょ、ちょっと待ってください!?尚書様、本当に魔王さん達の力を使うつもりなのですか!?」
ラクラが言いたいことは皆思っていることだ。ししょーは魔王の力で問題を解決することの危険性を、これまでに何度も説明してきた。その力は絶大でも、その結果が与える影響力は諸刃の剣にもなると。
「皆の命を預かる以上、制限時間は設けておく必要があると判断した」
「制限時間?」
「人としての力で解決することを諦めたわけじゃない。だけど意固地になって諦めないだけじゃ、また新たな犠牲が生まれるかもしれない。だからこの七日間で決着をつけるつもりで行動する」
「で、できるのですか?」
ししょーは考え事をしているかのように少しだけ目を閉じました。そしてゆっくりと目を開き、はっきりと言いました。
「覚悟さえすればできるさ。そして『私』はもう覚悟を決めた」
ニコニコ動画のほうで五話後編が公開されましたね。ドコラさん脱落シーンのとこです。
コミカライズの方のイリアスさんは非常に表情が豊かで可愛さもありますね。書籍の果てしなくイケメンのイリアスも素敵ですが、互いに魅力的で作者冥利に尽きます。