とりあえず備えよう。
今日とて筋肉痛、しかし慣れて来た。
そもそも筋肉痛が遅れてくると言うだけなのは後日に降りかかる不条理感が酷いだけで、運動の対価であることに違いは無いのだ。
そう言い聞かせれば耐えれないことも無い。
この調子で行けば体もそれなりに順応して、日常生活は苦労なく送れるようになるだろう。
今日はどうしたものか、イリアスは一昨日から非番を貰っていたらしいのだから今日は仕事だろう。
マーヤさんは本日は忙しいとの事、そういうわけだから今後のスケジュール管理の話が出たわけだ。
ベッドから起きる。
ウルフェの様子はどうだろうか、意味は無さそうな気もするがノックする。
反応が無い。いるのか、いないのかも分からない。
そもノックの意味を教えていない。
「ウルフェ、朝だぞ」
と扉を開ける。
部屋は誰もいない。
ふむ、となるとイリアスの部屋だろうか。
と思っているとイリアスの部屋の扉が開く音で首が動く。
眠そうな顔のイリアスが姿を見せる。鎧を着込んだ仕事モードに、きりっとした感じの私服は記憶に新しいが、寝巻きのイリアスを見るのは初めてでなかなか新鮮だ。
「おはようイリアス」
「――ああ、おはよう。今日はいたのだな」
そういえばこの家ではイリアスとすれ違ってばかりでこうして朝の挨拶をするのは初めてだ。
「ウルフェはそっちの部屋か?」
「ああ、夜中にふらっと来てな……いつもと勝手が違って少し寝不足かもしれん」
イリアスは軽く背伸びをして眠気を押し込める。
「だがまあ、嫌な感じはしなかったな」
「そりゃあ求められて、頼られているからな」
個人的にはウルフェが素直にイリアスに懐いたことが驚きだ。
初対面で恩人を絞め殺しかけ、その後嫌がる本人を強引に洗い尽くした。
それが一晩で、だ。
夜頃には懐いている感じがあった。何か心境に変化があったのだろうか。
「今日は仕事か?」
「ああ、一昨日は君を式典に招待する為に休暇を貰い、昨日は君を助けに森に行っていたのでな」
「ろくな休日じゃないな」
「おかげさまでな!」
一応戻ってから報告に行こうとしたが、カラ爺達が代わりに報告するということで話が進んでいた模様。
ウルフェを洗う為に女手であるイリアスには兵舎に残って欲しかったのだろう。
「君はどうするつもりだ?」
「そうだな、マーヤさんも今日は忙しいらしい。バンさんの所に行って服を調達かな」
「服?」
「明後日の式典に平服で出て良いのか?」
「……はっ!」
こいつ、考えてなかったな。
服のことならサイラに頼みたいが、昨日休みだったということは今日は『犬の骨』で仕事をしているはずだ。
後普通の服のセンスが気になるというのもあるが……。
「ウルフェは流石に連れて行けないよな。預け先も考えておく必要があるな」
「その……、誘っておいて何の準備も手伝えずすまないな」
「誘うのに手間を掛けすぎたな」
「まったくだ」
その後は互いに身支度を済ませる。
ウルフェが起床、兵舎で借りた服をそのまま寝巻きにしていた。
問題が無いのならそのままでも良さそうだ。
着替えこそ自力でできるが髪を結うなどはまだできないため、イリアスが行う。
その後イリアスは出勤。
なおウルフェの分の食費を渡された。
ヒモが二人に増えてしまった。
「さて、出かけるか」
「うん!」
まずは市場で朝食を取る。
焼き鳥やら果物でも十分に腹は満たされる。
ウルフェは食べることに喜びを感じているようだが、そこまで食べるというわけではない。
今まであんな生活をしていたのだ。胃袋が小さくなっていても不思議ではあるまい。
『犬の骨』ではおかわりを要求していたが、それだけ美味しかったのだろう。
「きのうのごはんが、いちばん!」
「それは分かるが店前で言うのは止めような」
「うん!」
目立つのは諦め、早々にバンさんの商館を訪れる。
いつもの部屋に通され、バンさんがやってくる。
とりあえずは互いの経過報告を済ませた。
バンさんは黒狼族とターイズ間の交易の責任者を、国から任されることになっていた。
商人達は当面の間、バンさんを通してのみ彼らと交渉できるわけだ。
領土内にいることでの税金は庇護下につくまでの間は免除。ターイズ国の庇護の内容を説明した後に彼らの判断に任せるとのこと。
「厄介な山賊は壊滅したし、獣程度なら自力で何とかなるだろうし、当面は対等の形を維持することになりそうですね」
「ええ、ですがこちらの技術や発展の度合いを知れば、いずれは支援を求める可能性もあるでしょう」
「交渉の際にはマーヤさんの憑依術を利用するつもりですよね」
「ええ、先日お話頂いた内容を考慮して、信用の置ける部下にマーヤ様の憑依術を使用していただくつもりです」
「ただ向こうの住人の言語を話すためには、向こうの人々の魔力を精霊に付与する必要があるとかで、最初は同行した方が良さそうですかね?」
「問題は無いと思いますが、ウルフェ様の件での約束を果たすなら必要はあるでしょうな」
「ああいう啖呵を切った立場としては気が重いですが、仕方ないですね」
「きちんと報酬は出しますので、頑張っていただかないといけませんな」
こちらの取り分の話も行った。
黒狼族発見の協力、交渉締結の仲介役としての給与が主な報酬だ。
そして黒狼族との交易を行った後、それによって発生する経費を除いた純利益の数%を受け取る事ができる。
一万円の利益があれば数百円前後を貰える感じである。
収益の大きさによってはこちらの取り分の限度額を設けても良いということ。年度毎に仲介料の再交渉を行えると言う条件をつけ、代わりに今後こちらの欲しい物を優遇して回してもらえるなどの特典を貰う。
今回の件は偶然降ってきた物、活用はしたいがそれに依存しきるわけにはいかない。
本来の目的である嗜好品の普及、新資源の捜索への潤滑油にあてる。
「そうだ、明日の式典にラグドー卿からの招待があったので、そこに着ていく服を探していまして」
「おお、それはそれは。山賊討伐の裏で功績を上げた立役者ですから当然といえば当然なのですが」
「間に合いますかね」
「もちろんです。今から採寸して服屋に問い合わせしましょう。ところで服といえばウルフェ様のその格好なのですが」
「うるふぇ?」
「ああ、これは将来服屋を目指している者に頼んで作ってもらった物です。以前にここを訪れたときに連れていた子を覚えていますか?」
「ええ、『犬の骨』の給仕をしておられるサイラ様でしたね。彼女がこれを、ほほう」
「黒狼族に似合う服ならこちら側の輸出品として使えそうですよね」
「やはり気が合いますな、今度お話を伺ってみるとしましょう」
「ええ、彼女にとってはまたとない機会です」
サイラの立場を考えるとウルフェの服は良い広告塔になる。
何せ嫌でも目立つウルフェなのだ。当然そのウルフェが着ている前衛的な服も注目を浴びている。
ひょっとするとサイラが独立するのは、そう遠い話ではないのかもしれない。
「あとウルフェを一日預かってくれる場所を探しているのですが……イリアスやマーヤさんを除くとバンさんが一番安心できそうでして……」
ウルフェはバンさんにもある程度の気を許している。
あの村で彼女に鎖を断ち切る技を教えたのはこのバンさんなのだ。
カラ爺は信用できるが、演技の件でウルフェが警戒しているため断念。
「ええ、構いませんとも。明日こちらで着替える折にお預かりしましょう」
「そういうわけだウルフェ、明日はバンさんの所で待っていて欲しい」
「うー、うん、バンさんのところ、まつ!」
「良い子だ」
その後お茶をしながら雑談、到着した服屋に採寸をしてもらい服の手配を済ませた。
これで明日の準備も大丈夫だろう。
時間も余り、所持金もそれなりにある。
本日のプランを考え、市場を目指す。
食事と買い物を済ませた後家に帰宅。
「よし、それじゃあウルフェの勉強の時間だ」
「おー!」
まず教えるのは家の施設、道具の使い方などだ。
調理道具はパスして掃除道具の使い方を中心に進める。
風呂場や外の井戸の使い方を説明していく。
パッと思いつく範囲が終われば今度は一緒に語学の勉強だ。
子供向けの本を読みながら、容器に入れた砂の上に棒で単語を書き綴る。
やや大きめに書く必要があるが暗記には好都合だ。
憑依術を通して読む本は文を読めるだけではない。その文の意味も理解できるように伝わるのだ。
もちろん真理を理解するとかそういうことではない。
『赤い』と言う単語を読んだときに、頭の中で赤いというイメージが理解できる程度の話だ。
試しにユグラ教の聖書を読もうとしたが最初のページで断念した。
当人のある程度の経験も憑依術の効果に差が出るのではないだろうか。
そうなるとウルフェの学習速度はこちらに比べて落ちてしまうという可能性がある。
しかしそのひたむきに学ぶ姿を見れば杞憂に終わるのだった。
「よし、それじゃあウルフェはしばらく書き取りを続けておいてくれ」
「うん、わかった、ししょー!」
時刻は夕暮れ前、ぼちぼち作業に取り掛からねば。
向かうは台所、そう料理だ。
先日イリアスに聞かれ、できないと答えてはいたが実際一人で挑戦した経験は無い。
やりもしないでできないと言うのはやはりよろしくない。
というわけで調理開始だ。
まずはスープ。
水を沸騰させ、鶏ガラを放り込み、一度洗う。
再び鶏ガラ、ショウガっぽいやつ、ニンニクっぽいやつ、ねぎのようなものを鍋に放り込み煮る。
しばし様子見しつつ灰汁を取る。
弱火でしばらく煮込んだ後はザルで漉して鶏ガラスープの下地が完了。
後は『犬の骨』で見たスープに入っていたであろう野菜を適度にいれ、鶏肉も同じように放り込む。
塩と香辛料を少々、香草を香り付けに放って完成。
「ふむ、少し荒い感じもするが上できだろう」
これで全滅する危険性は無くなった。
同時進行で進めていた料理を見て頷く。
この世界には麦がある。だがこの小麦粉はどの種類に分類するか調べたかった。
薄力粉や強力粉は小麦に含まれるグルテンの比率で変わる。
だがこの世界には小麦粉という言葉しかないのだ。
そこでターイズ領土内で取れる小麦を購入、実験中なのである。
パンらしきものがあるのであれば強力粉だと思うのだが。
「この粘り……強力粉に近いか?」
そんなわけで、強力粉目線で試行錯誤を始める。
卵、水、塩少々をいれ混ぜる。
べたつくのを我慢して混ぜ続ける。
本当にこれまとまるのかと言う心配を十数分無視して混ぜ続ける。
どうやらまとまった。
これを何度もこねる。
こね、こねこね、こねこねこね。
そしてぬれた布を被せ一時間放置。
取り出したるは二代目の相棒《木製》。
実はカラ爺とドコラの残した本を回収しに行った時、手ごろな太さ大きさの物を森で拾ったのだ。
そしてこの数日寝る前にそっと磨き上げていたのだ。
まさか料理で使うとは思ってもみなかったが。
それで生地を伸ばし、折りたたみ、切る。
後はこれを茹でることで麺の完成だ。
「……コシがちょっと足りてないな」
パスタの麺というよりラーメンの麺のような気がする。
もともと小麦、塩、卵なので味はほぼ無い。
まあこれはこれで悪くない。
空いている鍋でソースを作るとしよう。
トマト的なものを微塵切り、煮詰め、塩を振る。
後は炒めた野菜や肉を混ぜ、もう一度煮る。
再び塩、スパイス、香草で味の調整。
麺にかけてトマトソーススパゲッティの完成だ。
いや、トマトソースラーメン?
食感がいまいち気に入らないが、及第点でいいだろう。
重曹ってこの世界にあるのだろうか……。
「今帰った――なんだこの匂い」
良いタイミングでイリアスが帰宅。
「少し時間があったからな、練習がてらに料理をしていた」
「ほう、これは『犬の骨』で見たスープに近いな。こっちのは…なんだこの細長い物は?」
「正直わからん」
「わからんて……だが匂いは美味しそうだ。着替えてこよう」
そして三人で食事を行う。
鶏肉のスープにトマトソース麺だ。
「いただき、ます!」
「ふむ、スープも『犬の骨』に比べれば雑味を感じるが美味しいな」
「野菜の下ごしらえの方法がいくつか抜けていた可能性があるな」
「こちらの食べ物は……独特な食感だな。だがこれはこれで良いな」
「ウルフェはどうだ?」
「いぬのほねのつぎにおいしい!」
塩加減は間違えていないのでその辺の料理よりかはマシになったようだ。
とはいえこれでは売り物としては及第点はやれない。
今度カラ爺の奥さんに試食させて、意見を募ってみるとしよう。
「明日の式典は昼からだったか」
「ああ、そっちの準備は大丈夫か?」
「バンさんの所で用意してもらった服に着替えるつもりだ。ウルフェもバンさんに預ける」
「そうか、カラ爺が迎えに行くと言っていたからそちらに向かうように伝えておこう」
「イリアスはそういう服には着替えないのか?」
「私は騎士としてその活躍を認めてもらう為に出るのだぞ。騎士の格好に決まっているだろう」
「そういえばそうだったな」
正装に着替える事ばかり意識が行っていてすっかり忘れていた。
こいつ騎士だったわ。
「どうした、疲れでも溜まっているのか?」
「いや、自分の正装のことを考えていたらそのままイリアスのドレス姿を想像してな。そのまま口に出ただけだ」
「そうか、……そうか」
「ししょー、よる、ししょーとねたい」
「悪いな。この前イリアスに絞められた時に腰を痛めてな。当分は一人で休まなきゃならないんだ」
「うう、いりあす、いたいの、だめ!」
「流れるように嘘を吐いてくれるな」
静かに立ち上がり背中を向ける。
そして上着を捲くる。
背中にはくっきりと誰かの腕のあとが付いている。
おう、これでもか。
イリアスは目を泳がせる。
「……いや、その、すまない」
「そういう訳でなウルフェ、昼寝の時は付き合ってやるから夜は我慢だぞ」
「うん!」
ウルフェは食後に勉強を始めた。
まだ眠くないらしく、やっておきたいからだそうだ。
なんという勤勉な子だろうか。
感動しつつ食器の片づけだ。
この世界に水道や洗剤という概念は無い。
食器を洗うには灰を使用する。
灰に汚れを吸わせ、水で流して拭く。
正直こういったカルチャーギャップは新鮮に感じながらも不安も残る。
だが郷に入っては郷に従えと言う言葉もあるのだ。
今度石鹸とか作ってみようかな、うん。
「随分と丁寧に拭いているな」
ウルフェと共に部屋に戻ったと思っていたイリアスが戻ってくる。
「手伝いなら間に合ってるぞ」
「そのだな……そんなに痛むのか……その痣」
ああ、それですか。
「痣は残っているが痛みはさほどだ。どちらかと言えば黒狼族に襲われた際に殴られた後頭部のほうが痛むな」
痣は残っているが筋肉痛と区別が付かない程度。一番痛いのは頭のたんこぶだ。
「なんだ、気にしたのか?」
「それは……当然だろう……」
「こっちの世界の人間は体を鍛えようとする者が割と少なくてな。その上肉体労働も少ないから体が脆くてな。そういう仕様なんだ。気にする必要は無い」
「そうなのかもしれないが……」
「だがまあ手加減はしてくれよ。一般男性と同格に扱われるだけでも辛いんだ。カラ爺達と同じに扱われたらほんとやばいからな」
「ああ、分かった……」
軽いノリでやったら、予想以上に相手が重症で気まずい感じなのだろう。
「そう落ち込むな。こっちも心無いこと言ってイリアスの機嫌を損ねたんだ。おあいこってことにしてくれ」
「わかった……」
「ったく、そう辛気臭い顔されるとこっちも気まずくなるだろう」
イリアスへと近づき両手で頬を挟み込む。
むぎゅううとイリアスの顔が歪む。
「むぐう……」
「こういう場くらいそういう顔でからかうのが丁度いいんだよ」
「むぐぐ……」
「……ぷっ、くははっ!」
ツボに入った、苦しい、死ぬ。
「お、お前はぁ!」
「ああ、そうだ、それくらいが良い。それくらい元気のある方が好きだぞ」
「ぬうぅ……」
「明日は多くの騎士達の目の前で功績を認められるんだ。しけた面は捨てて行け」
「もういい、私は寝る!」
イリアスは自室へと戻っていった。
怒らせ過ぎたかもしれないが、あれくらいなら気にし過ぎることは無いだろう。
しっかし、あんなに心配するとは予想外だったな――そうでもないか。
イリアスは強気で凛とした騎士のイメージを保とうとしている。
だがその内面は周囲の評価に過敏で、心配性なのだ。
だからこそ鍛錬を重ね、その不安を打ち消してきた。
そう思えばイリアスの常軌を逸脱している強さは、彼女なりの――
「考えすぎか」
ウルフェの件の後で相手に対する接し方が傾いている。
この傾向はよろしくない。
少し心の整理をつけよう。
早くいつも通りの自分に戻らなくては。
この世界に来る前のことを思い出す。
思い出し、記憶をなぞる。
――ああ、大丈夫だ。
いつもの自分はちゃんとここにいる。