【奇遇】
…
「…ん」
長い空白をガードレールに背中を預けたまま過ごしていたようで、まだ眠気の深い瞼をあの時と同じように擦った。
しかし、10フレームに満たないほどの一瞬の視界が、寝ぼけた脳を叩き起こす。
「!?」
異常な風景。それは、赤錆が特徴的であったガードレールや、不法投棄のゴミが散らかった舗装路の姿は跡形もなく無くなっており、つい前までなかった人だかりが、起きたての自分の前後を通り続ける。
ボロ屋根と虫の巣窟が張られていた古アパートや、やたらでかい電光広告も消えており、巨大なレンガ造りの中世的な一軒家や晴天に浮かぶ飛行船に様変わりしていた。
自分の後ろにあったガードレールは、漆黒に塗られた木製の柵に変わっており、幾kmもありそうな長さなので肉眼では端を見ることができなかった。
「おいおい、そこのお嬢ちゃん」
突如かかった声に、ついさっきまで引きこもっていた自分のコミュニケーション能力を試される。もちろん欠損しているのだが…。
「はい?」
「なんか珍しい恰好だね。家が無いのかい?」
革製のコートと深く被った帽子に身を包む、中年くらいであろう男性だった。
ああ、この手が使われるのはいつどこでもそうなのか…と、大方察しがついた。
「いや、そこが家なはずなんですけど…」
と、私は走ってきた道の先にある、レンガの建造物を指差した。タイムスリップだか何だか分からないが、現に似たようなことが起きてるのだからそれくらいしか言えなかった。
「…あの家は確かメイカ様の…」
「え? メイカって…」
と、ほんの少しの安堵に包まれた。
途端、
「…ほう、もしやお前のことか」
というさっきとは大違いのドスの利いた声で男が呟いた。
「え?」
「危ないッ!!!!!」
突然、小柄な影が自分の前を横切り、
ジャキン!!! っと、耳にとても優しくないほどの金属音が広範囲に劈く。
「ゴアめ、やはりここにいたか!」
「チッ…」
聴覚が元に戻りつつある中、唐突に目前が漆黒のオーラで包まれた。
舌打ちと同時に、男の姿は衝撃波でコートや帽子が飛んだことにより露わになった。
男は全身が真っ黒な霧で包まれており、視界には小柄な少女の持つ銀色の剣と、男の斧型に変形された黒い右手が鍔迫り合いを起こしていた。
「瞬刹のトビか…分が悪い」
と、男は剣を振り払い、レンガの家の屋根に飛び移り逃走した。
「逃がすか!」
少女は膝を地面まで下ろし跳躍の構えに入ると、次の瞬間にはもう姿が消えていた。
「な、何だったんだろう…?」
途方に暮れていると、柵越しに後ろから声がかかった。
「おいそこの君、ここらで小さい女の子を見なかったか?」
純白の白衣に身を包んだ高身の若い男は、ジェスチャーを混ぜて先ほどの少女を説明している。
「えーと…さっき黒い何かと一緒に向こうに…」
「はぁ…」
私の目撃情報を聞いた途端、男は深い溜息を吐いた。
私はずっと気になることがあったが、人に聞けずじまいだった。この人になら聞けるかもしれない。先ほどのような男でないことを願う…。
「えっと、聞きたいんですけど、ここどこですか?」
「どこって…グレイだが? グレイ市。もしかして他のところからか? いや、もしくは…」
「グレイ市? 聞いたことないですね」
「んんん!? うーむ、やはり君はアレルガーかもしれんな! 貴重な人材なんだよ、頼む、一緒に来てくれないか? グレイを知らない上にその変な恰好! 確信が持てたよ。君も『転移』してきたんだろう?」
??? …情報が多すぎる。いきなり早口でまくし立てられたが、どうやら重要なことであることは大体察することができた。
「転移…や、やっぱりそうなんですかね? 自分の元いたところはあの家が自分の住んでたところなんですけど」
「えぇ? あれメイカ様の家だよ、かなりお偉いさんの。5年前に失踪しちゃってメイドしか今はいないらしいんだけども」
と、男は腕を組みながら柵に腰をかけた。
「あー…」
なるほど。私はこの世界ではそういう扱いになっているのか。
―この世界をどう生きるか、そしてどういう身として過ごしていくかをこの一瞬で決めた。
それが後悔となるか、良い結果へと傾くかは誰も知りえないが…
「えっと、ご心配かけてすみません。 私が "メイカ" です。」
こっちのメイカがどういう口調、仕草、服装、性格をしていたかは分からない。
けど、現に本人なのに自分を全然知らないということも何となく、癪だった。
白衣の男性は、組んでいた腕が少し解かれた状態で唖然とした表情でこちらを覗き込んでいた。
ああ、やってしまったかな。