7
街が眠り、静まり返る頃。俺は一人の男の家を訪ねた。
政秋。やはり最後に頼れるのはこいつしか居ない。
「よぉ、起して悪いな」
「……? 何のようだ?」
こたつで寝ていた政秋は、俺の存在に気づいたものの、こたつから出ようとはしなかった。俺もわざわざ起そうとはしない、それが勝手に押しかけた俺の最低限の礼儀だ。
「いやなに、ちょっと探し物をね」
「…………何探してるんだ?」
「んー、ペンチとかハサミとか、色々」
「ふぅん……」
こたつから眠そうな返事が返ってくる。
顔は見えない。
「それにしても、ここは何でもあるよな、まるで宝の山だ」
「そうか……」
「ほら、これなんか見てみろよ、何年物のワインだよ、美味そうだなぁ、お前も飲むか?」
「いらねぇ……」
俺は年代物のワインを一口飲むと、その味を確かめてみた。
「ダメだなこれ、変な泥みたいな香りだし、食感も変に絡みつく感じで、変な苦味がある。腐ってるんじゃないのか?」
「うるせぇよ、ここにある物は全部持って行っていいから、静かにしてくれ」
いかん、こんなことをしている時間はなかった。
苛立つ政秋を余所に、俺は当初の目的を思い出した。
「あー、あと車の鍵借りてくぞ?」
「はぁ? もう好きにしろ」
「さんきゅ」
「あ、電気消してけよ」
「わかってる」
『もしもし、御子柴さんのお宅でしょうか?』
『はい、御子柴ですけれど……あの、どちら様でしょうか?』
『私はあなたの娘さんを誘拐した犯人ですが、身代金を要求させて頂きますので、正午までに現金五千万円ほど用意して貰ってもよろしいでしょうか?』
『え……?』
『あなたの家の玄関に、娘さんの写真を置いておきました。確認してください』
『ま、待って……』
『では、また連絡しますので、よろしくお願いします。失礼します』
ガチャ……。
俺は一方的に電話を切り、一息ついた。
さて、後は連絡を待つだけだ。
…………。
ガチャ。
『はい、警視庁本部』
『もしもし、警察ですか?』
『そうです。どうなさいました?』
『む、娘が、誘拐されて……! 身代金に五千万って、玄関に娘の写真があって……!』
『落ち着いて、まずあなたのお名前は?』
『御子柴です。私、どうすれば……』
『御子柴さん、こういう時は特に慎重にならねばいけません。詳しい事情を聞きにそちらへ伺いますので、そのまま自宅でお待ちください』
『はい……わかりました……』
『後、このことは誰にも言わないでください、犯人に感づかれる可能性があります。くれぐれも軽率な行動は慎んでください』
そして、御子柴宅にて。
ピンポーン。
……ガチャリ。
「私は警視庁捜査一課、第二種緊急犯罪対策係、特命捜索部の斉藤です」
「えっと……? 特命……?」
「結構、私のことは斉藤で構いません」
「斉藤さん……娘は無事なんでしょうか?」
「私はプロですから、安心してお任せください。まぁ、立ち話もなんですから、上がってもよろしいですか?」
「あ、はい……どうぞ」
「へぇ、やっぱりこの辺の人は良い家に住んでらっしゃる。この壺なんかもさぞ、お高いんでしょうねぇ」
「いえ、これは通販でも買える漬物用の安物なんです……」
「あー、ですよね。なんか良く見ると素材がプラスチックっぽいし、デザインのセンスもイマイチだ。むしろこっちの壁に掛かってる絵画の方が高そうだ。なんかこうー幸薄そうな昔の人って雰囲気が絵全体から滲み出てるっていうか、これはそうだな、ダヴィンチだ」
「それは、昔祖父が私をモデルにして描いた物です……。多分、絵としての価値はないと思います……」
「ありゃあ、すいません。私やっぱりこういうのを見る目はないみたいです」
「いえ、そんなことは良いんです。そんなことより、斉藤さん、娘を」
「まぁまぁ、そう慌てないで、大体の事情はわかっています。こういう時は相手の出方を伺う必要があるんです、今はただ待つしかないんです」
「そんな……」
「心中お察しします。ですがご安心ください、この手の犯罪は近年良くあるんですよ、でも犯人に逃げられた例はほとんどありません、それだけ日本の警察は優秀ってことなんですよ」
「そう……なんですか……」
「いやしかし、この家は居心地が良いですな。空調は常に効いているし、足元には床暖房ですか? いやはや快適だ」
「……家ばかり大きくても、何の自慢にもなりません。私達は普通の家族だったんです。それがどうしてこんなことに……」
「…………ところで、ご主人は?」
「今は出かけておりまして……。主人はあまり、詳しいことは教えてくれないので」
「はぁ、そうですか……」
閑話休題。
正午まではまだ時間がある。
犯人からの連絡はいつ頃になるのだろうか。
気が気じゃなかった。
冷蔵庫に残るローストビーフが目に焼きついて離れなかった。あれもきっと良い肉に違いない、食べたい、高い酒と一緒に、こうー、高い天井の部屋の高いソファーにもたれかかり、高いテレビを高笑いしながら高い所から……え? どうでもいい? あぁ、失敬、つい余計なことを考えてしまう。
「御子柴さん、喉渇きませんか? きっとお疲れでしょう? 何か飲みます?」
「いい加減にしてください、斉藤さん、あなたやる気あるんですか? こんな時に良くそんなのん気にしていられますね、どこか他人事のように思ってるんじゃないですか? 警察なら真面目に仕事してよ……!」
「すいません、御子柴さんを安心させるために、あえて軽薄な態度をとっていましたが、かえって不安にさせてしまったようで。……わかりました、そろそろ犯人から連絡が来る頃かも知れません、こちらも行動を起しましょう」
「それは?」
「逆探知機です、これを電話に装着すれば、犯人の位置を特定することができます、後は犯人が油断するまで泳がせ、確実に確保するだけです。そのためには一時的に犯人の要求を呑む必要があります」
「つまり、現金五千万円ね」
「そうです」
「こういう時、警察は用意してくれないのかしら?」
「すぐには無理です、ですが、最悪の場合は警察が肩代わりしますので、その点は安心してください」
「そう……ならすぐに用意するわ」
「どちらへ?」
「銀行よ」
御子柴婦人は行ってしまった。
束の間の休息。静まり返る部屋で静かに待つ。
こうして一人で待っていると、高校時代の部活の先輩のことを思い出す。
あれは夏の男女合同合宿でとある民宿へ泊まりに行った時のことだ。当時男子部員と女子部員の力量は明白だった。力のない男子部員は女子部員に絶対服従、焼きそばパンの買出しをさせらりたり、トイレで白い煙を燻らせていた女子部員の見張りまでさせられていた。
そんな中、先輩は強面の上級生女子部員達にも物怖じせず、敢然と立ち向かって行った。
いーけないんだーいけないんだー、せーんせーに言ってやろー。
そう言い放った先輩は女子部員達に連れて行かれ、その日から彼は女性恐怖症になってしまった。何があったかは知らない、だが、帰って来た時の怯えきった瞳は、鏡に映る今の自分と同じだ。
ぶおぉぉぉん!
車だ。
二時間は経っているだろうか。
御子柴婦人が出て行く時に聞いた車のエンジン音が聞こえてきた。
「おかえりなさい、御子柴さん。現金五千万円の用意は出来ましたか?」
「ええ、銀行を回ってかき集めました」
「なるほど、ではこちらに。先ほど犯人からの要求がありました、大至急身代金の受け渡しがしたいと」
「なら私が直接……」
「いえ、ダメです、危険すぎます、ここは警察に任せてください、素人が勝手な真似をされては困ります。なに大丈夫です、逆探知には成功しました、後は我々の報告を待って待機しているだけでいいんです」
「……斉藤さんがそう言うのなら」
「ではこちらの方、一旦預からせて頂きます。後この写真も証拠品として私共が取り扱わせていただきます」