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若干の蒸し暑さと寝苦しさに目を覚ますと、かけた覚えのない布団が掛けられてた。あの女の子がお節介を働いたらしい。この部屋は日当たりが良く、昼頃になると窓から直射日光が照り付けて、かなり気温が上がる。
時計を見ると丁度十二時を回ったところだった。
体を起して、かけ布団を投げ飛ばす。気だるげに台所へ行くと、食器が綺麗に片付けられている。そこに少女の姿はなかった。
さすがにもう帰ったか。それにしても……変わった奴だったな。
ちょっとだけ寂しさを感じつつも、今日一日をどう過ごすか考えていた。
俺は日曜日だけは必ず休日にすると決めている。人間無理をするとろくなことが起こらないものだ、週に一度くらいはゆっくり休める日が欲しい。
何気なく窓へ視線をやると、もう冬になるというのにガンガン照り付けてくる太陽が眩しく、その周りには雲一つない。澄んだ空気は強い光に照らされて輝いて見える。こんな日ばかりはさすがの俺も家に居るだけでは勿体無いものかと思う。
……せっかく起きたんだから、どこか出掛けようかな。
そう思い、俺は軽く身だしなみを整えた後、街をぶらつくために家を出た。
家からそう遠くない場所にあるいきつけの大型デパートに入り、一階の衣類、化粧コーナーを横切って三階の家電製品売り場まで駆け上がる。店内に流れる宣伝用のテーマソングをBGMにしながら、最新鋭の調理器具をチェックしていると、そこに知った顔があった。政秋がこの店でバイトをしているというのは聞いたことがあったが、一度も出会ったことがなかった。休みの日の昼間に入っていたとは、出会わないはずだ。
俺が政秋の労働をなにげ観察していると、向こうもこちらに気づいたようで、馴れ馴れしく話しかけてきた。
「よお、珍しいな、こんな時間に起きてるなんて」
おう、と適当に返事をすると、俺は数ある最新の家電製品を手に取り、品定めに集中しようとした。
「何探してんだ?」
だが政秋は失礼にも手元を覗き込んできたので、やむなく相手をしてやることにした。
「そろそろ俺も、少し生活水準をあげようと思ってな」
「だったら、このオーブンレンジなんかどうだ?」
そう言って政秋が取り出した物は、綺麗な色をした小包み程度の大きさの商品だった。
「なんとこれはな、油を使わずに揚げ物を作ることができるんだ」
「ほう」
「エコでヘルシー、カロリーが気になる方にもオススメ。それにも関わらず、旨みは凝縮されて、外はさくさく、中はジューシーに作ることができるんだ」
「おいおい、それが本当だとしたらえらいことだぞ」
「それが本当だからオススメなんだよ、しかもコンパクトに見えて大容量」
「これがあれば簡単に唐揚げが作れるな、俺は唐揚げがとても好きだぞ」
「だろ? もちろんオーブンと電子レンジ、二つの機能が備わってるから、これ一台あればかなりの料理をカバーできるぞ」
「へぇ、二つの…………うっ、頭が……ッ!」
いきなり、強烈な頭痛に襲われた。
「どうした?」
「いや、いつものだ、すぐ治まる」
「まだ治ってないのか、お前の偏頭痛は」
「あぁ……」
俺は子供の頃から勘が良かった。
周囲の人間が次に何をするのか、なんとなくだが察知できる時がある。その多くが、物を落としたり、何かの話を始めたり、そんな些細な現象だったが、たまに偶然とは言い難いような大きな惨事を予測してしまうことがある……。
予知能力、なんて信じているわけではないが、一説によると人の脳は十パーセント程度しか機能していないらしい、そんな脳の未知なる潜在能力が、知らず知らずのうちに働いているのかも知れない。
「例えば、昔の人は風が吹いて桶屋が儲かることを予測できたように、この商品を値下げすれば、売り上げが伸びるかも知れないぞ?」
「俺にそんな権限はねーよ」
「そうか」
まあ何かあったら呼べよ、と満足したのか政秋は本来の仕事に戻っていった。
財布の中身を見るとろくなものが買えそうになかった。特に何かを買いに来たわけではなかったので、完全に持ち合わせがない状態だ。
今度来た時に買おうかな。
しかし、このまま帰るのもシャクなので、少し遊んでいこう。
俺はここまできた労力の元をとるため、哀れな定員を生贄にすることにした。
「店員さーん、ちょっと」
はいはい、と政秋が営業スマイルでこちらに向かってくる。
「どうした? お客さん」
「タンポンってどこに売ってるかわかる?」
「……はあ? お前そんなもん何に使うんだよ」
「何言ってんだ、お前いつも使ってんだろ。この間なんか『俺の肌はデリケートだから、肌触りが良くないとダメだ』って何度も言ってただろ」
わざと大きめの声で言うと、それに反発するように政秋の声も大きくなる。
「言ってねーよ、ってか使ってねーよ」
「いいからどこに売ってるか教えろよ」
「知らねーよ。それより、今の発言を撤回しろ」
ここは毎日のようにレジに列ができるほどの人気のデパートだ。当然多くの客や店員に注目される。しかも休日の真昼間、ギャラリーの数は申し分ない。
「つかえねー店員だな。もういい、他の店員に聞いてくる」
俺はこちらの様子をちらちらと伺っていた女性店員に話しかけた。
「すいません、タンポンどこにありますか?」
「え……?」
「おい、携帯販売コーナーの店員さんを巻き込むな」
すぐさま政秋が割って入り、俺の傍若無人な振る舞いを妨害しにかかる。
「なら店員じゃなければ良いんだな。……ちょっとすいません」
「いや待て、関係ない一般のお客さんも巻き込むな}
勝手なことを言う友人に俺は全力の大声で怒鳴りつけた。
「いい加減にしろ! 俺はお前が彼女の生理用品を毎日再利用してること知ってるんだぞ!」
「なっ……バカなこと言うな! それだったらお前だって、女装して女子トイレで一日中過ごしてたことあるじゃないか」
「バ、バカかっ! そんなありもしない事実を捏造してみろ、名誉毀損で訴えてやるからな!」
「ありもしない事実を捏造してるのは……っておい、待て!」
後ろから聞こえてくるヒソヒソ声と、冷やかな視線を感じながら、俺は言うだけ言ってそそくさとその場を後にした。
その後、政秋がどうなったかはわからない。ただ風の噂で、職場の彼女とは別れたらしいという話を聞いた。
友人との戯れに満足した俺は、その足でショッピングモールに来ていた。
戦いで消耗した体がカロリーをよこせと訴えかけてくるようだ。思えば起きてから今まで何も食べてなかった。
……そろそろ飯でも食って帰るか。
ショッピングモールにはファーストフード店から高級飯店までありとあらゆる食べ物屋があり、食べる物には困らないのだが、選択肢がありすぎて逆に悩むなんてことも多い。
俺は手頃に軽食を楽しめる場所を探して歩いき、財布に優しいことで有名な全国チェーン店を見つけて入店した。
店内は飾り気のない椅子とテーブルが並ぶ、いかにもなファミレスだ。
すぐさま店員が現れ、話しかけてくる。
「いらっしゃいませー。何名様ですか?」
「何名に見える?」
「えーっと、一名様でよろしいですか?」
「よろしい」
客である今の俺は神にも等しい存在だ。こんな時は誰しも多少はエゴイズムがでてしまうものだろう。
案内された席に着席すると、俺は出された水を一気に飲み干し、メニューからポテトフライを単品で注文した。
「あと、水変えてくれる? できれば後三杯くらい持ってきて欲しいな」
俺は水が好きだ。
タダだから。
店員は怪訝そうな顔で厨房へ戻っていく。
店内は様々な客の話し声が行き交う。
「なぁなぁ、浮気防止対策グッツって知ってる?」
「あー、知ってる知ってる、昨日ニュースでやってたやつっしょ?」
「なにそれ、浮気を防止してくれるグッツ? そんなのあるの?」
「ちゃうねん、それだと浮気防止グッツやろ? 逆やねん、浮気防止対策グッツやねん」
「え? どゆこと?」
「これこれ、……盗聴器発見器、消臭スプレー」
「あー、つまり、浮気防止をさせないためのグッツってこと?」
「そんなん序の口やで、うちはこれや」
「何それ、薬?」
「催眠導入薬。これを飲ませれば大抵の嘘を信じ込ませることができんねん」
「あー、そういう使い方なんだ」
「それ効かないって有名だよ」
「有名なんだ……」
「そうでもないよ、うちのカレシ、これ飲んで記憶飛んでもーたし」
「それやめた方が……」
「浮気すると趣味とか急に変わってウケるよね」
「あー、だからうちの弟も最近筋トレ始めたのかな……」
……なんだよそれ、最近の女子高生の会話は理解し難い。
危ないやつらだ……関わらないでおこう。
今日はあまり面白いチャンネルがないな。
「お待たせしましたー」
注文したポテトフライと三杯の水がテーブルに置かれる。
「ああ、君、おしぼり貰える? 冷たいやつね」
またしても顔をしかめて厨房へ戻って行く店員。俺はその姿を見て、にこにこ笑顔で見送りながら、ポテトフライをもふもふかじる。
それにしても今日は暖かいな、こんな日まで暖房入れなくてもいいのに。
「……どうぞ」
「あ、水おかわりね」
俺はおしぼりで手と顔を丁寧に拭いてから、なんとなく店の窓ガラスへ目をやり、街中の行き交う人々を眺めていると、そこに見覚えのあるものを見つけた。
「あれは……」
俺は急いで店を飛び出した。
後ろ足を同時に蹴ってぴょんぴょん前進する姿は、間違いない。こんな街中をウサギが跋扈している理由と言えば一つしかない。
人波をするすると抜けて進むウサギの後を追いながら、俺は叫んだ。
「キッドくん!」
だが、俺の放った渾身の叫び声は虚しくも彼の耳には届かなかったらしい。
「くそっ……」
ウサギのケツを追って数百メートル移動した俺は、せっかく摂取したカロリーを無駄に消費したことに憤りを感じていた。
気が付けばここは、俺のバイト先であるホビーショップカズヤの近くだ。別に、放っておいても良いのだが、ウサギを見かけたこと一応報告しておくか。
心機一転、俺はホビーショップカズヤに向かうことにした。
「私ねー、この子がお気にー」
「私はねー、この子がいい!」
店内は珍しく賑わっていた。十歳前後の女の子が二人、ウサギを抱えて歓談してる。そのすぐ後ろで上着のポケットに両手を突っ込んだ男の子が一人、女の子達の様子を眺めていた。
俺は店内を縦横無尽に飛び回るウサギ達をかわしつつ、レジカウンターの奥でドライフードをいくつかの容器に取り分けてる店長に話しかけた。
「おい、大盛況じゃないか」
「ん、何だお前さんか」
両手に皿を持って移動するこの店の店長、それを見送る俺。ウサギ達のために作られたファンシーな空間、そこに皿を置くとウサギがわらわらと集まってくる。
「わああ、すっごいもふもふしてるよーおもしろーい」
ついでに子供達も集まってくる。
「おい、外でウサギを見かけたぞ、あれは確かにキッドくんだった」
カウンターに戻ってきた爺に再び話しかける。
「ああ? いつも言ってるだろ、敬語で話せと」
「今は業務外だ」
「目上の相手には普段から敬語を使えと言っとるのだよ」
「そのうちな」
「はぁ……、キッドくんなら心配いらん」
「探さなくて良いのか?」
「ふーむ。俺はな、こう思ってるんだよ、やりたいこともできないまま生き長らえるよりも、命を懸けてでもやるべきことをなす、その方が生きてる感がする、とな」
そう言って、店長は賑やかになった店の様子を眺めていた。
「ねーねー、この子飼えないかなー」
「ダメだよ、りかちゃんの家マンションでしょ?」
「えー、飼いたいよぉー」
ウサギコーナーに目をやると、子供達が話をしている姿が見える。
そう簡単に引き取り先は見つらないらしい。このウサギ達、一体いつまで世話をしないといけないのだろうか。
「飼えるさ!」
急に男の子が両手を広げて叫んだ。
「学校で飼えばいいよ、校庭の裏側に使わなくなったウサギ小屋があるだろ?」
「あるけど、私達だけじゃ……」
「大丈夫だよ、僕がパパに頼んでやるから」
「りかちゃん! ゆうくんのパパは学園長なんだよ」
「え? 本当に!? ゆうくんすごおーい!」
「うんうん、私もお世話手伝うね!」
「ゆみちゃん、ありがとぉ! だいすき!」
話がまとまったのか、カウンターまでとことこ歩いてくる女の子。
「すいませんー。ウサギくださーい!」
「お客さんお目が高いね、どれにする?」
「この子と、この子と――」
店長と子供達は色とりどりのウサギを四匹選び、ペット用のキャリーバックに詰めている。俺はそのやりとりを横目に、なんとなく店内の品物を物色していた。この店には昔から良く利用していた。くだらない安物のオモチャを買っては政秋と一緒に学校に持ち込んでいた過去がある。その時に店長と顔見知りになり、バイトに誘われたのがここで働くきっかけだった。
高校を卒業してから客として来たことはなかったが、久しぶりに何か買ってみようかな。
適当に選んだ面白グッズをレジに持って行くと、店長から予想だにしてなかった言葉を掛けられた。
「じゃあ、早速行ってくれるか?」
「……あ?」
「引き取り手が見つかったから、送ってきておくれ」
「なんで俺が」
「まあ、そう硬いこと言うな、それの御代はまけといてやるから」
「気は確かか? 時間外労働だ、サービス残業だ」
「日頃からお前さんには敬愛の念が足りんと言っとるが、ここまでとは。子供達の気持ちがわからんのか」
俺と店長のやり取りを見ていた女の子達を見ると、
「うるうる」
「じー」
純粋無垢の瞳が俺を刺す。
「うっ……」
なんだろう、この無言の圧力は……。断りづらい。
「だ、大体、どこの学校だよ」
「赤染小学校だよ」
今度は男の子が答えてくれた。
赤染小学校と言えば、つくば学園都市にある有数の名門私立校だ。遠いというほどではないが、とてもウサギを四匹も抱えながら歩いて行ける距離ではない。
「だめだ……俺には足がない」
学生の頃から移動手段は専ら電車だった俺に、車などは無縁の存在だった。
「何を言っておるか良い若いもんが、近代人はすぐ楽しようとしよる」
「無茶を言うなよ、ちょっと近所のコンビニに寄って行くのとはわけが違うんだぞ」
「なぁ知っているか? 近年になってようやく、自動操縦の車が主流になりつつあるのだよ。そんな時代に自分で車を運転する必要があると思うか?」
「そりゃあ、自分で運転出来なきゃ安全性とかに問題あるだろ」
「逆だよ、車の運転ってのは人の手が入るから事故が起こる。いっそのこと全てコンピューターに操作させれば交通事故なんか起きなくなる」
「何の話をしているんだ?」
「時に、駅まで行けば車なんかよりも安全でエコロジーな足が手に入るぞ」
「……電車で行けって言うのか」
店長は俺が持ってきた商品をレジ袋に入れ、変わりにウサギの入ったキャリーバッグを強引に押し付けてくる。
俺は、なすがままそれを受け取っていた。
「はい、毎度あり」
今まで気づかなかったが、俺は押しに弱いのかも知れない。
なぜか俺は子供達と一緒に、両手にキャリーバッグを抱えて、赤染小学校へ向かうことになっていた。
「おい、あんちゃん、トロトロ歩いてんなよ」
ピコピコ。
「ねーこれって何に使うのー?」
「このクマさん欲しいなー! ちょーだい!」
無垢な子供達は他人の私有物をもお構いなしなのかな。
これちょっと持っててよ、うんわかったー、この流れでなぜ預かった物をあたかも最初から自分の物だったかのように扱えるんだ。
しかし今、俺は両手が塞がっている。預けるより他になかったのだ。
子供とは
、残酷な生き物なのだ。
「しねっ!」
ピコっ。
温厚な俺も限界というものがある。普段の俺なら子供のやることに一々目くじらを立てたりしないのだが、ここは一つ人生の先輩として彼らに戒めを与えておく必要がある。
「いいかお前ら、いい歳してオモチャ何かで遊んでると、ろくな大人にならないぞ。進学もできず、少ない賃金で働かされて彼女も居ない、車もない、そんな大人になってしまうんだぞ。わかったか? わかったらそのピコピコハンマーをこっちに渡すんだ」
「うるせー、やなこったー」
あー、ハゲそう。
そんな感じで子供の相手をさせられながら、電車でつくば学園都市まで行き、そこから数分歩くと、ようやく目的地が見えてきた。
「やっとか……」
なぜ冬だというのに汗だくになりながら歩かなくてはならんのだ。っていうかこれの対価がオモチャじゃ割りに合わない。不当労働だ。
「あれ? 東雲くんだーっ」
聞き覚えのある女の声に振り返る。
「わー綺麗な人だ!」
「だれー? お兄ちゃんの知り合い?」
女の子達は年上のお姉さんに興味津々のご様子だ。
「ああ……ミス茨城の人だよ」
「だからそれは違うってーっ」
高めの身長と痩せ型の体型、整った顔立ちはまさにアイドル顔負け。昨日、がってんだ寿司太郎で同じ釜の飯を食った……確か、マリアだったかな?
「っていうかさ、カノジョ?」
「ばっ……ばっか! ちげぇーよ!」
俺はピコピコハンマーを取り上げて、生意気なことを言う小僧を叩いた。
「何してるの?」
「見たらわかるだろ」
「うーん、わからないけど」
「仕事だよ、仕事」
「へぇー、東雲くんってベビーシッターさんだったんだ?」
「いや、そうじゃなくて……」
説明しようとした時、女の子が俺の袖を引っ張った。
「ねえ、早く行こーよ、ウサギさん可哀想だよ」
「そうだった。ってわけでちょっと行ってくる」
面倒臭くなった俺は、つい昨日知り合ったばかりの新らしい友達に対し、説明を放棄して立ち去ろうとした。
「あ、ねね、私もついて行っていい?」
暇なのかこいつ? まあ今更ツレが一人増えたところで何が変わるわけでもないし。
「別に構わないが」
「やたっ」
俺には不釣合いのヒロインを仲間に加えて、再び小学校を目指して歩き出した。
「ところで、マリアはどうしてこんなところにいたんだ?」
「んーっと、ここ、私の家の近所なんだ。今学校の帰りだよっ」
日曜なのに学校に行ってるのか、大学ってそういうものなのか?
「ふーん」
なんだかんだ、赤染小学校に到着すると、子供達は急に走り出した。
「ゆうくん行こっ」
「あーん、ゆみちゃん待ってよー」
男の子の手を引いて、ぐいぐい進む女の子。男の子は照れたように俯き、握られた手をじっと見ている。置いて行かれたもう一人の女の子が焦って後を追っていた。
校舎を横切り、ウサギ小屋まで辿り着くと「待ってて!」と静止を命じられた。ボロボロのウサギ小屋を使えるように整理しているらしい。
「可愛いよねー、子供って」
「そうか? 子供が可愛いのなんて、せいぜい五歳くらいまでだろ。そのあたりを超えると、もう言うことは聞かないし、物は強請るし、思い通りに行かないとすぐ騒ぐわで、もう手が付けられないんだぞ」
「そんなことないよ、素直で優しい子だって多いよ。それに、ちっちゃくて柔らかくて、子供は居るだけで人類の宝なんだよっ!」
「いやいや、現実はもっと厳しいんだって。バイト先の知り合いなんか、親戚の子供と会う度にカラテの相手をさせられて、子供恐怖症になってたぞ。出会ったら挨拶代わりのタックル、髪は引っ張られるわ、目は潰されるわ、指の爪は剥がされるわで、彼女の足の小指の爪はなくなってしまったんだぞ」
「私も足の小指の爪が良く割れるんだよ。もうっやんなっちゃうよねー、ペディキュアも塗れないのよー、なんとかしてよー」
知るかよ。医者に見てもらってください。
「俺に言われても」
知りたくもないアイドルの裏事情を聞かされてる間に、ウサギ小屋の整理が終わっていた、狭いカバンの中から解き放たれたウサギ達は、キョロキョロとこれから自分達の城となる場所を詮索している。長旅を経て、心なしかその表情にも疲れが見える。やっと出られたぜー、もうくたくただよー、ビールないのー? ってな具合だ。
それから学校の教職員と話し合った結果、快く受け入れてもらい、世話や餌の管理の説明をして、休日返上の仕事をようやく終えることができた。給料の一部は奪われたままだが、子供の喜ぶ顔を見ていて柄にもなく悪くないと思っていた。
「じゃあ私も、そろそろ帰るね」
俺達は帰路につこうとしていた。門限でもあるのかマリアはやたらと時間を気にしている様子だった。本当、なんで付いて来たんだろう。
「ああ……送って行こうか?」
自然に出てきた言葉だった。
男として、女性を送っていくのは当然と思ったのか、もしかしたらマリアと一緒にいたかったのかもしれない。とにかく、毒を食らわば皿まで、そんな感じだった。
「え?」
マリアは一瞬戸惑ったような素振りを見せたが、すぐに照れたように笑って見せた。
「うん、お願いしますっ」
見る人全てを幸せにするような笑顔は心に訴えかけてくるものがある。そんなアイドルの営業スマイルに騙されつつも、俺の足取りは軽くなっていた。
……荷物が無くなったからね。
俺はマリアを家まで送る道すがらに、街の案内を受けていた。
というかマリアが勝手に喋ってた。
「この辺はね、あんまり子供居ないんだよねー。私が子供の頃は、良く友達と外で遊んでたんだけど」
歩くにつれ、人通りは少なくなり、家屋の感覚も疎らに感じる。
「まあ、友達は財産だよな。オモチャとか、お互いに使わなくなった物を使い回せるし、記念日になればプレゼントが貰える。人ん家に行けば食いもんにもあり付ける時もあるしな」
「えー、なにそれー、ひどーい。友達をそんな利害関係で考えちゃダメだよっ」
「いやいや、どんなに美しい友情も、結局は見返りがあるから成り立っているんだよ。それが金銭的な物か精神的な物かはわからんが、お互いを助け合うってことも立派な利害関係なんだと思うぞ」
自分の発言を無理矢理正当化する。自分の正しさを証明するため、理屈は二の次で、相手を納得させることが重要なのだ。
「ふーん、東雲くんって意外とエゴイストだったんだね」
意外だったのか、とっくに剥がれてるメッキだと思ってたが。
「そうかもな。子供の頃は、スーパーの試食コーナーを食べ歩いてたし」
「あははっ! それは私もやった!」
「友達から借りた物は、返さずにそのままだし」
「あっ、それもある! 返せなくなっちゃっただけなんだけどね」
「やるな、さてはお前、見かけによらず結構ワルだな」
「私って、結構悪女かも?」
「ああ、そのうち妖艶な衣装を着て、男を手玉に取る魔性の女になるだろうな」
と思ったけど、既に男を手玉に取るくらいのことはしてそうな顔と体なんだよな。
「あはははっ、でもそれはどうかな? 私には荷が重いかも、男の子を手玉に取ったことなんてないもの」
予想は外れ、アイドルは潔白だった。
「いつでも取れるだろ、マリアなら」
「え?」
言ってから俺は、自分の迂闊な言葉に気づいた。
「それってー、褒めてくれてる……のかな?」
「あー、いや、マリアには才能があるからな、きっと手の平の上で暗黒舞踏会を開くことぐらいはできるだろう」
なぜか照れ臭くなり、話を逸らそうとする。俺はいつからこんな臆病になったのだろうか。昔はもっと精力的だったはずなのに。
俺の言葉には反応せず、マリアは黙りこくっている。
「……おい、お前の家、本当にこっちで合ってるのか?」
気づけば、やたら大きな家が立ち並ぶ住宅街に来ていた。この辺の住人だとすれば、マリアの家は金持ちなのかも知れない。人っ子一人通らない住宅街で、俺は謎の期待に胸を膨らませた。
「うん、……ねえねえ、東雲くんは子供の頃どんな子だったの?」
そんな期待を跳ね除けて、俺の中では終わったと思っていた話を振ってくる。
「ん、うーん……」
幼い時から借金まみれだった俺の家では、母親は夜遅くまで働き、いつも一人で食事を済まし、家事をこなしていた。その原因となった親父のせいで。
「あ……」
その親父が居る。
今俺の視界の中に。
俺が小学生だった頃、家族を見捨てて逃げ、借金を擦り付けた親父。顔を見るのはそれ以来だったが、はっきりと覚えている。表情、仕草、声、どれを取っても過去の記憶と一致する。
「どうしたの?」
マリアのきょとんとした表情が妙に可愛かった。
「いや……」
ここいら一帯でも一際目立つ大きな建物の、玄関なのか、それとも庭なのか、そこでそいつは女の人と話していた。
「酒だ! 酒を持って来い!」
「あの子が、今日も帰ってきてないんですよ!」
「……友達の家にでも泊まってるんだろ、放っておけ」
「そんな……! 連絡も無しにそんなこと……」
「うるせえ! その内勝手に帰ってくんだろ!」
酔ってるのか、微かに顔が赤みを帯びている。
当時は理不尽な仕打ちに、やり場のない怒りを感じていたが、今となっては風化してしまった感情だった。その感情は親父の顔を見れば再燃するかとも思っていたのだが、実際はそうでもなかった。
「何かあったのかな?」
マリアの言葉に振り返り、
「さあ、他人様の事情にあまり首を突っ込むなよ」
ずかずかと歩き出す。
「御子柴さんね、旦那さんが亡くなっちゃって。一年くらい前かな、再婚したんだよね」
ついてきたマリアの言葉を聞いて、俺は振り返る。
その家の表札には『御子柴』と書かれている。
「新しい旦那さん、なんだか変わった人だよ、いつも出かけてるみたいなんだよねー」
「なあ、この家って、ボランティア活動とかしてたりする?」
「あ、うん、そうだよ。ボランディア団体『優しさを分け合う会』主に地域間の助け合いを目的とする団体だよ」
御子柴――昨日出会った家出少女の名前。
あいつの家だったのか……。
なんとも数奇な運命を感じつつ、俺はすぐにその場を後にした。
親父に会って話をしようと思わなかったわけではない。だが今更親父と関わりを持つことに意味もないと思った。
「…………」
なんとなく俺の重苦しい雰囲気を察してか、マリアも堅く口を閉ざしていた。
そのままマリアの家まで着き、
「じゃあ……」
俺は玄関で別れようとしたが、
「あ、あの、喉かわいてない? 良かったらちょっと上がっていかない?」
それはとても魅力的なお誘いだったのだが、今はとてもそんな気分にはなれなかった。
「遠慮しておくよ」
正直、早く帰って一杯やりたい気分だった。
「あ……そっか、そうだよね……」
「悪いな、また今度ってことで」
「あ、うんうん! そうだよね、また今度ね!」
落ち込んだと思ったら、急に元気になったりする。喜怒哀楽の激しいやつだ。