てきとー訳 般若心経 ~ 短いけど内容は深いぜっ!
古代のインドで、ゴータマ=ブッダ(釈迦牟尼仏)がちょっと瞑想していた隙に、アヴァロキティツヴァラ(観世音菩薩)が、サーリプッタ(舎利弗)にチャッカリ説教してしまったという事件が書き残されております。
……そんな設定の、かの三蔵法師玄奘の漢訳した超メジャーな短編お経を、ライトにおばかに現代日本語訳してみますた☆
でも般若心経は、テキストファイルで10MB以上ある大般若経から最重要な要素のみを抽出したと言われるだけあって、短くても内容はそれなりに難解です……我々ははたして、これを完全に理解して成仏することができるでしょうかッ!?(汗)
佛説摩訶般若波羅蜜多心経 如是我聞一時薄伽梵住王舍城鷲峯山中……
ブッダの説いた物凄い般若波羅蜜多(はんにゃーはーらーみったー、智慧を完成させること)の心(要点)を経(お伝えしちゃう)☆
私はこんなふうに聞いた。
あるとき薄伽梵(ブッダ)は、マガダ国の首都・王舍城の近くの「鷲の峯」(引用写真、霊鷲山)という名前の山中に、大勢の比丘衆や菩薩たちといっしょにいたんだけど。
(出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons))
ブッダは甚深明了三摩地(真理がとてもよく解かる集中)という瞑想に入った。
その時、そこにいた…
<<<通常読誦するのはここから>>>
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄……
観自在菩薩(別訳:観世音菩薩)は、般若波羅蜜多を深く行って、五蘊(体を構成してる要素、いわゆる眼耳鼻舌身)は結局ぜんぶ「空」だと理解して、すべての苦しみや悩みを消滅させちゃった。
そんな観自在菩薩が、大勢の人々の中で、ブッダの高弟の一人・舎利子(別訳:舎利弗)に語りかける……
「舎利子くん、やっぱ物質は空じゃなくないし、空は物質じゃなくないよね! 物質は空で、空は物質だよね。受《感知》、想《認識》、行《反応》、識《記憶》という人間の精神の働きもまったく同じだし。
「舎利子くん、存在ってすべて空なんだよね……生じないし消滅しないし、汚くなく清潔でもなく、増えないし減らない。
「つまり空ってのはこういうこと。形が無くて、感知することも無いし、眼・耳・鼻・舌・身体・心なんていう感覚器官も無いし、光・音・におい・味・触った感覚・想われた感覚も無いし、見えるものも無いければ、意識されるものも無い。迷いも無ければ迷いがなくなることも無いし、老いたり死んだりもなく、老いたり死んだりがなくなることも無い。苦集滅道という四段階の悟り(四諦)も無く、知ることも得ることも無い。
「得ることなんか何も無いから、菩薩(大乗仏教の修行者)は般若波羅蜜多して心に疑いが無くなり、心に疑いが無いから恐怖も無く、だから間違った考えから離れられるんだ!
「悟りを開いて涅槃に入った三世(過去・現在・未来)のたくさんのブッダたちもみんな、般若波羅蜜多したから阿耨多羅三藐三菩提(究極の最終的な悟り)を得ることができたんだ♪
「だからわかるでしょ? 般若波羅蜜多は神のようにすごい言葉で、とってもはっきりした言葉で、これ以上のものはない言葉で、これと同じくらいのものもない言葉なんだ。すべての苦しさをうち消す力がある、ウソじゃないよホントに。
「だから般若波羅蜜多の言葉(呪文)をいま教えるね。
掲帝。掲帝。波羅掲帝。波羅僧掲帝。菩提莎婆訶!
(だいたいの意味:
行っちゃった。行っちゃった。
パーフェクトに行っちゃった。
向こう岸(悟りの境地)にもうパーフェクトに行っちゃった。
悟りさん、パネエっす!)
<<<通常の読誦はここから最後の行へ飛ぶ>>>
「舎利子くん、偉大な修行者・菩薩たちは、こんなふうに般若波羅蜜多をとっても深く学び修めてるんだよ♪」
そのときブッダが瞑想から出て、聖者・観自在菩薩に言った。
「おっけ、おっけ! 素晴らしい! まさにそのとおり、観自在くんの言ったとおり。みんなも般若波羅蜜多を学んで実行してくれたら、すべてのブッダ・如来たちが喜ぶよ」
こうして、ブッダの説法は終わった。
(えっ、たったの二行ちょいだけ!?(汗))
舎利子、聖者・観自在菩薩、そして世界中のすべての天、人間、阿修羅に乾闥婆まで、ブッダの説いたことを聞いたみんなは喜び、信じ、その通りに行いましたとさ。
いじょ、智慧(般若)の要点(心)をお伝え(経)してみましたっ☆
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読誦用漢文
(注:平均的と思う読み方ですが、訳者や宗派により微妙に違うバージョンもあります、、、)
摩訶般若波羅蜜多心經
觀自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。
舍利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識亦復如是。
舍利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不淨。不増不減。
是故空中。無色。無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色聲香味觸法。無眼界。乃至無意識界。無無明。亦無無明盡。乃至無老死。亦無老死盡。無苦集滅道。無智亦無得。
以無所得故。菩提薩多。依般若波羅蜜多。故心無圭礙。無圭礙故。無有恐怖。遠離一切顛倒夢想。
究竟涅槃。三世諸佛。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提。
故知。般若波羅蜜多。是大神咒。是大明咒。是無上咒。是無等等咒。能除一切苦。眞實不虚。
故説般若波羅蜜多咒。即説咒曰
掲帝 掲帝 波羅掲帝 波羅僧掲帝 菩提莎婆訶。
般若心經。
てきとー訳のおばか小説ですので、翻訳はあんまし正確じゃありませんし、脚色加筆した部分もあります。(汗)
学問や宗教の見地から般若心経を研究したい方は、参考図書だの学術的翻訳だのが、奈良時代から現代まで山のように出版されてますから、そういうきちんとしたものを参照してくださいませ、、、なかには弘法大師空海だのダライラマ14世だのといった、悟りを開いたことあるかもしれない方々の書いた解説本もあり、筆者の解釈なんかよりもずっとオススメですよん♪
あと……宗派にもよりますが、法事や仏事でお坊さんの声をぼーっと聴いてるとと途中から「まぁーかーはんにゃーはぁーらぁーみーたーしんぎょー……」と聞こえてこのお経の始まることもしばしばありますので、拙作をプリントアウトして持ってって参照しながら読経を聞いてると、退屈しのぎ(汗,汗)や子供を静かに座らせておく手段くらいにはなるかもしれません。(^^;
追記1:
この経典を古代インドの雅語から漢文に翻訳し『西遊記』の三蔵法師のモデルとしても有名な玄奘三蔵法師の著述によりますと、「アヴァロキティツヴァラ(より正確には、アヴァロキタ・イーツヴァラ)」は「自在に観ることができる(観自在)」という意味だそうです。
しかし、どうやらどこかで発音が訛って「アヴアロキティスワラ」と伝わり、「音を観ることができる(観世音)」と翻訳されてしまったようで……こちらは誤訳、と三蔵法師玄奘先生が断定されてました。
…ま、一切皆空なら名前もまた空ってことか?(^^;A
追記2:
「般若心経はいちばん短いお経」と主張する人がけっこういるけど、「そんなことないやろ?」と思ったので、あるとき手持ちの資料から数えてみたところ、もっと短いお経が、抜粋バージョンでなく全文で「~経」とつく題名の物に限っても、90タイトルまで確認したところで挫折。
たとえばこのシリーズでも「仏説五大施経」「八正道経」「五蘊皆空経」などは般若心経より文字数の少ない経典であります。
……ちゃんと資料を確認して発言しないと間違えて恥をかくという教訓を得ました(滝汗)
ただし、浄土真宗や上座部系を例外として(*)比較的多くの宗派で読まれており、在家信者さんにも読誦が奨められてるということは事実です。
(*内容と教義に矛盾が生じてしまう、山登りに例えれば別のルートにあたる教えであるため)
追記3:
「般若心経は関係ない霊が寄ってくるから素人が唱えてはいけない」と主張する方もありましたが、他の行者の方々によれば「寄ってくることもあるけれど、セットで別のお経(たとえば普門品偈(観音経)、自我偈(如来寿量品)、光明真言、御題目、十念など)も唱えて有縁無縁に回向してれば問題ない」(大意)とも。
もし寄って来てても「そんならこの機会に読経を聞かせて供養してあげよう」ということでしょうか。
まあ大乗仏教での読経は自分だけのためじゃなく、三世諸仏、先祖代々、そして三界万霊=有縁無縁一切精霊に功徳を回向するのが原則ですしね、考えてみれば。(^w^;A
もっとも、宗教やオカルトではなく哲学や文学として読む人にはどうでもいい話かも?です。