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ANOTHER SKYシリーズ

たった二杯分の思い出話

作者: 沖田コウ

 静かな空間の中に、同じように静かな音楽。耳を傾けなければならないほど小さな音量の音楽だったが一人で飲み物を飲む分にはちょうどいい。空間は暗く、男の正面にあるカウンタの中だけが明るい。周りは隣の席しか、お互いの顔は充分には見えないだろう。光をまともに浴びているのはバーテンダくらいだ。男のすぐ後ろにはテーブル席も存在したが、どこも客が二、三人ほど座っており、音楽と同じほど静かな会話を楽しんでいた。もっとも一人で店に来ている男にとって、テーブル席など関係はない。カウンタの光と客席の陰の境目が男の最も好きな場所だった。

 重厚な扉が開く音がして、それと共に扉の端に設置された鈴が鳴る。ちらと伺ってみるが、新しく入ってきた客は男の場所からは、男性か女性かすらわからない。どうやら一人のようで、カウンタに向かって歩き出すところまでは視界に入れていた。

 視線をはずして、飲み物を一気に呷る。そして、バーテンダに同じものを頼む。奥にいた彼は頷き、大きな冷蔵庫から瓶に入った黒い液体を取り出す。グラスに氷を入れ、瓶の栓を抜いた後、中身を慎重に注ぎ始めた。注ぐと同時に液体が弾けるように泡を立て、爽やかな音色を奏でる。騒がしいほどの音は、この空間には不似合いだが男にとって楽しみの一つでもあった。瓶の中身がすべてグラスに移されて尚、黒い液体の水面では小さな泡が弾け音を立てている。男はバーテンダからグラスを受け取り、口を付ける。液体は口の中に入った瞬間、暴れ出し男の口を舌を強く刺激した。刺激の合間にシロップのように甘い液体の味を楽しむ。その両方を充分に味わった後、それを飲み下す。刺激は喉へと移動し、やがて今までのことが嘘のような静寂が口内に訪れた。この一連の流れが気分を良くさせる。

 一口分を飲み下した直後、男の隣の席に人が腰を下ろした。男性で、おそらくまだ若い。男の見立てだと二十代後半くらいの青年だろう。

 青年は癖の強い茶髪で、所々カウンタからの光を反射してさらに明るい色を見せている。髪は眉にかかる程度の長さだ。その下に覗く褐色の目は切れ長で、何かを求めているような光を発しており、うっすらと目の下にある隈も相まって、目つきはあまり良いとは言えない。頬は少し痩けているようにも見えた。そして男が一番青年に対して興味を持ったのが、彼が日本人ではないことであった。

「珍しいですね」

 好奇心に負けて、男は青年に声をかけた。目の前で手を組み俯いていた青年は、少しだけ顔を上げ、男の顔を少しだけ観察する。顔だけではなく、身につけているジャケットや時計にも視線を移していた。普段ならあまり気持ちの良いことではないが、この時だけは青年が自分に対して少し興味を持った事が伺えたため、悪い気はしなかった。

「失礼しました。旅行者であれ何であれ、ほとんどと言っていいほど外国人の受け入れをしていない今の日本では、貴方だけでなく外国人は人目を引く存在だ。他意はありません。純粋な興味でした」

 男が丁寧に頭を下げると、青年は目を丸くさせその後軽く頷いた。反応からすべての言葉を理解できていないだろうことがわかった。つい興奮してまくし立ててしまった事を恥じる。

「日本は初めてですか?」

「はい、まだこちらに来て短い。言葉もあまり詳しくないです」

 青年は一つ一つの言葉を頭の中で巡らせながら話しているようだった。ゆっくりとはしているが、その分だけしっかりと紡ぎ出しているように見えた。

「どうですか、感想は」

「豊かな国だと思います。僕の住んでいた国では想像ができない」青年は目を閉じ息を吐いた。「しかし、その分、黒くて深い」

 その言葉に、今度は男が目を丸くさせられた。黒くて深い、そう表現されたものが理解できたからだ。実に秀逸で的確な表現だと男自身が感じた。

「そうですね。この国の闇は深い。現に、この店自体が違法だ。本来ならここに置かれている飲み物の多くが規制の対象ですから」

 グラスを手に取り飲み物を口に含む。いつもと変わらぬ刺激のはずなのに、物足りなさを感じた。きっとこの青年への興味が自分自身への強い刺激となっているのだろう。

「貴方も飲みますか?」グラスを傾けてみせると、青年は怪訝そうな顔をしてる。「これはコーラと言います。今では中々手に入らない。ちゃんとした店ではまず飲むことはできないでしょう。外国にはありませんでしたか?」

「たくさんありました。ですが、僕は飲んだことがありません。それを飲めるのはお金を持った人たちばかりでした」

 青年は疲れ切ったような笑みで首を横に振った。

「ぜひどうぞ、奢りますよ。なかなか刺激的で美味しい飲み物です」

 すぐに青年のもとへグラスに入ったコーラが出される。グラスに口を付ける。

「なるほど、刺激的です」にっこりと先ほどよりは明るい笑みを見せた。「ここに来れば面白いものがあると、知人が言っていたのですが。これの事だったんですね」

「もっと面白いものもありますよ」

 男も笑顔で返した。そして、青年には聞こえないように、バーテンダにまた別のものを持ってくるように伝える。

 しばらくして運ばれてきたのは、水のように透明な液体。グラスの中には大きな丸い氷も浮かんでいる。

「これは?」

「酒といいます。アルコールを含んだ飲み物で、ここに来る客は、だいたいの人がこれが目当てでしょう。飲むと、とても良い気分になります。注意しないといけないのは、飲み過ぎると身体の様々な機能が低下して悪影響を及ぼすことでしょうか。ああ、店から出るときも充分に注意してください、見つかると御用になります」

 手錠をかけられるポーズをしてみせる。

「御用?」

 青年が不思議そうに首を傾げる。

「捕まる、ということです。酒を飲むことは犯罪なのです」

 今度は人差し指を口の前に持ってきてウインクをして見せた。その仕草に青年もウインクで返す。

「酒を飲むのも初めてです。僕の国では規制されていませんでしたが、やはりお金に余裕がない。生活するのがやっとでした」

「そんな嫌なことも、これならばきっと忘れさせてくれますよ」

 二人は少しずつグラスを傾ける。熱の固まりが口から喉、胃へと流れて行くような感覚だ。

「この国は規制が多いですね」

「ええ、でも、規制したところで、裏ではこういった店が増える。裏稼業専門の人たちが潤うだけです」

 頷く青年。そして宙に目を向け瞼を閉じる。なにか考え事をしているようだ。青年は酒を一口飲み、熱い息をゆっくりと吐き出す。

「日本人の友人がいたんです」視線を宙にやったまま呟くように言った。「もう亡くなってしまいました」

「それで故郷からこちらへ?」

「はい、友人の故郷が気になって。友人は日本でどんな空を見ていたのか、それを確かめに来ました」

「空ですか」

 男は静かに呟き、自分の中に青年の言葉を落としてみる。空と言えば、言葉の通りの空なのだろうか。一瞬考えたが、もし言葉の通りならば、青年はここに来て満足のいくものを見る事ができたのだろうか。

 灰色の空。そして、それを覆い隠さんとばかりに立ち並ぶ建物。夜空でも街の明かりと淀んだ空気で星はほとんど見えない。決して美しいとは呼びがたい景色だ。青年は男の思いに気がついたのか、静かに首を縦に振った。

「いいのです。僕が見たかったのは、友人が見ていた空。決して美しい空を見に来た訳ではないのです」

 充分に満足しました、と表情を変えずに呟いた青年。どこか投げ出した様な言葉に、青年の望む物はここにはなかったのだと知った。それでも、この景色はきっと青年の記憶に残るものだ。友人の記憶と共に消えることのない傷を、時が経つに連れじわじわと刻みつけていくのだろう。

 男はもう一杯酒を注文し、何も言わずに青年に差し出した。

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