娘の場合(2)
が。どうしてこうなった。
というのもわたしはいま王立図書館ではなく、どこの宮殿だと言いたくなるような豪勢なお屋敷の前で立ち尽くしている。
「我が屋敷へようこそ」
それも恐ろしいほどの美貌の男に出迎えられながら。
***
遡ること約二時間前―――
王立図書館までたどり着いたわたしは、古くから伝わる迷信や伝説についての文献が置いてある棚を片っ端から見て回っていた。さすが王立図書館なだけあって、広さと本の数が尋常じゃなかった。これならダンピールのことが書いてある書物もあるだろうと、わたしは黙々と本探しに没頭していた。
そしてしばらく経った時、私は引き寄せられるようにしてある一冊の本を手に取ったのである。
真っ黒な背表紙には何も書かれていない。けれど、何故かわたしにはこの本こそわたしの求めるものであるという確信があった。わたしはそっとその本を開いた。
ダンピールとは、吸血鬼と人間の間に生まれた禁忌の子。
その姿は人間と変わらない。ただし強靭な身体と異様なまでに白い肌をもつ。
その血は、不死身である吸血鬼を滅ぼす唯一の毒となる。
元来ダンピールとは、生まれても生き存えることが稀で希少な存在である。
満16歳を迎えたダンピールは、闇を生きる吸血鬼と同等の力を得る。
吸血鬼は、ダンピールの居場所を感知することができない。
「ああ・・・」
その時、思い出した。
いつだったか、幼い頃。わたしが母に「どうしてうちにはお父さんがいないの?」と尋ねた時のことだった。
その時はじめてわたしは自分が人間じゃないことを知った。母は少しだけ悲しそうな顔をして、わたしに言ったんだっけ。
”あなたのお父さんはね、人間じゃないの。吸血鬼なのよ”
―――吸血鬼?
”そう。人の血を吸って生きる、とても美しい生き物よ”
―――血・・・怖くないの?
”お父さんは怖くなかったわ。中には怖い人もいたけれど・・・それは人間も同じでしょう?”
―――怖くないなら、どうしてお父さんと一緒に暮らさないの?
”ごめんね・・・お母さんね、お父さんのことが大好きで、愛しているの。だけどそれと同じくらいあなたのことが大事なの。宝物なのよ。だから、ごめんね・・・お父さんとは、離れて暮らさなきゃダメなの”
―――お父さんは、わたしのことが、きらいなの?
”・・・わからないわ。お母さん、何も言わずに出てきちゃったから。きっと、裏切られたと思っているわね・・・”
最後の質問は、しなければよかったと幼いながらに後悔した。母があんなに傷ついた顔を見せたのは、あの時が最初で最後だった。
あの時は母の言ったことが理解できなかったけれど、今ならわかる。
母は、わたしを守るために父のもとから去ったのだ。きっとわたしがお腹にいるとわかってすぐ父から離れたのだろう。もしお腹にダンピールがいると吸血鬼の父に知れたら、わたし共々母まで殺されてしまうだろうから。
母は、父のことを愛していたのに。わたしを守るために、愛した男を裏切ったのだ。
きっと母はこれから一生、父のもとへ戻ろうとなんてしないだろう。
真実がどうであるかは知らないけれど、もし父が母のことを憎んでいて、そんな状態で父の前に姿を現したりしたら―――
考えただけでもぞっとする。
無意識に唇を噛みしめていたらしく、じわりと鉄の味が口に広がった。手のひらや首筋、背中には嫌な汗が浮かび、きっと今のわたしは顔面蒼白なのだろう。
もうこのことを考えるのをやめよう。
「あとはお母さんの身体のことを調べなきゃ・・・」
そう思って、例の本を元の場所に戻そうとしたときだった。
「見つけた」
「っ!」
不意に後ろから聞こえた声に、肩が大きく跳ねる。その言葉が、間違いなくわたしに向けられているのだとわかった。そして、本能が告げる。
―――逃げろ!!
「おやすみ、ダンピールのお嬢さん」
その場から逃げ出すよりも早く襟首に少しの衝撃を受け、わたしの意識はそこで途切れた。
***
「ごめんね」
糸が切れた操り人形のように、その場に力なく倒れた少女は美しかった。透き通るように白い肌と、輝く金糸の髪。固く閉じられた瞼のせいで、少女の瞳がどんな色をしているのかはわからない。
けれど―――
「きっと瞳の色は、彼女に似ているんだろうね」
男は少女をそっと抱き上げ、そこではっとした。そして青ざめながらつぶやいた。
「あの人よりも先に触れちゃったうえに手刀までかましちゃったけど・・・消されないよね?」
***
今までに経験したことのない、何とも言えない浮遊感を感じて、わたしはゆっくりと瞼を開いた。
「!?」
「あ、気がついたかい?」
真っ先に目に入ったのは、燃えるような赤い髪に蜂蜜色の瞳のたいそう見目麗しい青年だった。しかも、やけに距離が近い。というか体勢自体がおかしい。
「っ、なに、これ・・・!」
「あ、暴れないでね。落ちたくなければ」
「いやっ、ちょ、えっ」
そう。わたしはこの美青年に抱きかかえられているのだ。そのうえわたしたちは今、空を飛んでいるのだ。いや、屋根から屋根へと飛び移っている、と言ったほうが正しいかもしれない。
「もう少しの辛抱だからね。まあ仮に落ちたとしても、君の身体なら大した怪我はしないだろうけど・・・そんなことになれば、僕の存在が危うくなるんだ」
「は、はあ・・・」
この青年は一体何者なのだろう、いや正体はなんとなく予想がついている。ただ、一体何の目的でわたしをさらうような真似をしているのか。
「僕はね、君と同じだよ」
「え・・・?」
「僕の正体は、君と同じダンピールだ」
「吸血鬼じゃ、ない・・・」
「そして、君のお父さんに仕えている」
「!?」
今、この人は何と言った?私と同じダンピール?わたしの父に仕えている?
「わけが分からない、とでも言いたそうな顔だね」
「・・・当たり前でしょう」
「僕がダンピールだってことは信じる?」
「ええ・・・」
「じゃあ問題は二つ目のほうだね」
「そうよ。どういう意味なの」
わたしの問いかけに、青年は少し困ったように笑って言う。
「どういう意味も何も・・・言葉通りの意味だよ。僕は君のお父さんに仕えている。仕えると言っても、あの人は別に主人らしく振舞うとか、命令するみたいなことはしないけど・・・そうだな、同志とでも言えばいいのかな」
「同志・・・?嘘よ、だって父は吸血鬼で、あなたはダンピールでしょう。なのに・・・」
「君の言いたいことはわかる。だけど―――ああ、もうすぐ屋敷につくな。そしたら君のお父さん本人から話を聞くといい。あの人もずっとそうしたがっていたから」
「ちょっ」
「今から地上に降りるまでの間は、喋らないほうがいい。舌を噛むよ」
「!」
急降下していくのがわかる。ここは青年の指示に従うほうが得策だろう。わたしは急激に近づく地上が視界に入り、思わず強く目を閉じる。
青年はトンッと地上に降り立ち、わたしはゆっくりと目を開けた。
青年はわたしをそっとおろしながら尋ねる。
「大丈夫かい?」
「え、ええ」
そして―――
「我が屋敷へようこそ」
突然かけられた言葉に、恐る恐る振り返る。その言葉を発したと思われる美貌の男、そしてその男の後ろに見える豪勢なお屋敷に、わたしは茫然と立ち尽くすしかなかったのである。