365分の1日の恋 エイノ版
とうとう、この日がやって来てしまった。
娘が生まれた時に覚悟はしていたが、いざその時になると喉の奥に詰まるものがある。
長年愛用している湯呑みに注がれたお茶を飲み干すと、襖が静かに開いた。
「お父さん、この人が前に言ってた彼氏だよ」
「初めまして、早苗さんとお付き合いさせてもらっている、萩野 雅樹です」
初めて見る娘の彼氏。
「中々の好青年じゃないか。まぁ、楽にしてくれ」
「はい……」
お互い言葉を詰まらせる横で、妻がお茶を注ぐ。
続かない会話の中で、ふと娘に目をやると、幸せそうに萩野君を見つめている。
そんな姿を見ると、娘の成長を思いだし目頭が熱くなる。
娘が幸せになることは嬉しいのだが、何処か遠くに……手の届かない場所へ行ってしまう気がして、素っ気ない態度を示してしまう。
暫く世間話をした後、萩野君は切り出した。
「娘さんと……早苗さんと結婚させて下さい」
来るだろう言葉に私は頷き、煙草に火を着けた。
「必ず、幸せにします」
煙草が、こんなにほろ苦く感じるのは何故だろう?
私は落ちていく灰を、ただ見つめた。
◇◇◇◇◇◇
それから半年が過ぎ結婚式前日の夜、珍しく私の部屋に娘がやって来た。
何年振りだろう?
幼い頃は、寝付けないとよく私のベッドに潜り込んで来たものだ。
「昔と変わってないね、この部屋……」
私は読んでいた本を閉じ、娘に視線を向けた。
「何だ? 改まって」
「お父さん、今までありかとね。色々我が儘言って困らせたこともあったけど、私はこの家が……お父さんが好きだよ。私、幸せになるね。今まで育ててくれてありがとうございました」
娘はそう言うと、頭を下げたまま立ち尽くしていた。
私は昔を思い出し、娘を抱き締めた。
「懐かしい……お父さんの匂い。私が小さい頃、よく抱き締めてくれたよね」
「私はいつでも早苗の味方だ。辛い時は、いつでも帰っておいで」
私は娘の言葉を胸に刻み込み、娘は私の言葉を胸に刻み込み、娘が反抗期だった数年を埋めるかのように、二人の貴重な時間を過ごした。
◇◇◇◇◇◇
迎えた翌日。
空は晴れ晴れと広がり、山々は紅葉を彩る。
空気が澄んだ初秋の匂い。
深呼吸すると心も体も気持ちがいい。
日課にしている早朝の散歩をいつものように済ませ、家へと戻る。
「貴方、お帰りなさい」
「うむ」
リビングに入ると、妻の作る味噌汁の香り。
並べられた三つの御飯茶碗も、明日からは二つになる。
支度を整え、式場に車で向かう途中、助手席で妻は既に涙ぐんでいる。
ルームミラーで、後部座席の娘を確認すると、遠い目で景色を眺めていた。
私は涙をグッと堪え、車を走らせた。
式場に着き、控え室でモーニングに着替える。
更に身が引き締まる。
親族が次々と顔を並べる中、萩野君が挨拶に来た。
白いタキシードが、良く似合っている。
「お義父さん……今日は、宜しくお願いします」
「娘を……頼む」
萩野君は深々と一礼して退室した。
私はここに来て、初めて萩野君に感謝した。
――娘を頼む――
心の中で、呪文のように唱えた。
◇◇◇◇◇◇
「そろそろ式を執り行いますので、皆様方お集まり下さい」
係員に促され、親族は皆席を立つ。
取り残された私は、別室で娘を待った。
「お父さん……」
振り返ると、純白のウェディングドレス姿の娘があった。
『言葉にならない……』
娘の幼い頃からのシーンが蘇る。
「どう……かな?」
私は言葉を出すと、涙が出そうで頷くのが精一杯だった。
そして、静かに瞳を閉じる……。
――娘が産まれた日の喜び――
――初めてパパと呼んだ日――
――日が暮れるまで一緒に遊んだブランコ――
――何度も転びながら、練習した自転車――
――運動会では、二人で躓いた二人三脚――
――発表会で娘が演じる白雪姫を、泣きながら回したビデオカメラ――
――初めて二人で、海で釣りをしたこと――
――学校で問題を起こし、謝りに行ったこと――
――門限を破りきつく叱ったこと――
数え挙げればきりがない……。
あまりにも多すぎる、娘との思い出。
バージンロードを一歩踏み出すと、視界が遮られる程の涙が溢れる。
披露宴会場へ移り、気持ちも落ち着きを取り戻し、ケーキ入刀、キャンドルサービス、お色直しと脳裏に焼き付ける。
豪華な食事を目の前にするが、喉を通らない。
あっという間に時間は過ぎて行く。
萩野君がお礼の言葉を述べると、今度は娘が手紙を読み上げる番。
場内は静寂に包まれ、照明が少し落とされる。
私は思わず息を飲み込み、瞳を閉じる。
「お父さん、お母さん、今まで育ててくれてありがとう。覚えていますか? お母さん……私が発表会で失敗して落ち込んでた時も、優しい言葉を掛けてくれて、大好きなハンバーグを作ってくれましたね。あの味が今でも忘れられません。お父さん……私が門限を破って遅く帰った時、酷いこと言ってごめんなさい。あの時があったから、今の私がいるのだと感謝しています。今まで散々我が儘ばかり言ってきたけど、これからは雅樹さんと力を合わせて幸せな家庭を築いていきたいと思います。これからも、私達を見守って下さい。お父さんとお母さんの子に生まれて、本当に幸せでした。早苗」
盛大な拍手と共に、感涙が湧き、私達家族に祝福の言葉が飛び交った。
社会に出て三十五年、今やっと生きてる意味を見出だせた気がする。
娘に長年のせきばくの思いを伝え、今日からは妻と二人で生きていく。
二人だけになったリビングはあまりに広すぎた。
人生において、出会いと別れはつきものである。
そう実感しながら、私は自室へと足を運んだ。
「これは?」
綺麗にラッピングされた箱が、机に置かれていた。
私は、それが娘からの物だと気付いた。
そう今日は二月十四日、バレンタインデーである。
ラッピングをほどくと、小さな手紙が入っていた。
――お父さん大好き。早苗――
私はチョコレートを頬張り、涙を流した。
――早苗……ありがとう――
小説の中に、箇条書き風に書いたり詩っぽく書いてあるのは、仕様です。
長くなりそうだったので、カット出来るとはカットしました。
すみません。言い訳にしか聞こえませんね。