第8根
まずはアパートまで全力で駆けて帰り、尋常ではない早さで玄関扉を解錠。開けて鞄を放り、電気メーターの横に置いてあるマウンテンバイクにまたがって『エッヂ』を目指す。
小四から使っている二十インチなのであまりスピードは出ないが、走るよりかはずっと早い。
史明は太ももにたまる乳酸を自覚しながら全力でペダルを漕いだ。サドルに座るのは信号待ちのときだけ。それ以外はすべて立ち漕ぎで進む。
走り始めて二十分。向ヶ隠家駅の前を通り過ぎる。
ジローの地図によると、『エッヂ』は登斗駅から三百メートルほど離れた路地裏にあった。登斗駅は向ヶ隠家駅の隣りの駅であり、距離にして二キロも離れていないので、一生懸命走れば十分もかからないだろう。
時刻は八時四十四分。『エッヂ』を探す時間を考慮しても、なんとか九時までに間に合うはず。
現実的な見通しが立つとがぜん力が湧いてきた。
あともう少し。ゴールに向けてラストスパートだ! 腰を上げて漕ぎ足に力を込める。
ガルッ!
奇怪な音が後ろから聞こえた。その途端、いくらペダルを漕いでも推進力が働かなくなった。
まさか、このタイミングで――すぐに自転車を降りて後輪を確かめる。案の定、ギアからチェーンが外れていた。
「なんでだよう! なんで僕だけこんな目に遭うんだ!」
泣きそうになる。だけど泣いたところで状況は変わらない。
道の端に自転車を寄せ、チェーンをギアに戻そうとする。しかし焦りのためになかなかうまくはまらない。
時間だけが刻々と過ぎてゆく。八時五十分を過ぎたところで史明はあきらめた。ダイソーで買った鍵を後輪にかける。
こうなったら走るしかない!
腹を決めた。登斗駅に向けて幹線道路の路肩を全力疾走する。やけにのんびりしたサラリーマンやプラプラしている大学生を横目に、必死の形相で走り抜ける。
★★★★★
登斗駅に到着。息を切らしながら周囲を探索すると、『エッヂ』はすぐに見つかった。いかにもバンド好きそうな女の子たちが店の前に列を作っていたからだ。
時刻はすでに九時を過ぎていたが、女の子たちの様子を見るに、まだチケットの販売は始まっていないらしい。
「やった。間に合ったんだ」
安堵した拍子に膝から力が抜ける。
「ははっ、ははははは」
あまりの脱力っぷりに自分で笑ってしまう。もう焦る必要はないんだ。
鷹揚に笑いながら列の最後尾に並ぶ。すると前に並んでいた異様に長いつけ睫毛を装備したギャルが振り向き、怪訝な眼差しを送ってきた上、
「なにこいつ、キモっ! てか、汚なっ! てか、くさっ!」
心の臓に突き刺さる罵詈を放ってきた。
「うぐっ……!」
ひどい。確かに手は油まみれだし体は汗だくだけど、初対面の相手にそこまで言われる筋合いはない。
『ふざけるなよ! なんであんたにそんなこと言われないといけないんだ!』
なんて言い返せるはずもなく、史明は苦痛に顔を歪て、少女のように膝と膝を寄せてうつむいた。
「ああマジじゃん。なんでこんなキモブサがベジスのライブに来るわけ。やめてもらいたいよね」
最初のギャルとは違う声が聞こえた。刺さった矢じりをさらに押し込んでくる。
「ねー。だからメジャーになるのって嫌なんだよ。やっぱりわたしたちだけのベジスでいてもらいたいわ」
「そうそう。せめてキモブサは入場禁止にしてもらいたいよね。むしろ法律で禁止するとか。キモブサ生存禁止条例とか、キモブサ行動制限法みたいなの作ればいいのに」
膝がガクガクと震えた。耳鳴りまでしてきて、もう立っていられない。
あまりのストレスで史明の上体がふらつき始めたそのとき。
「大変お待たせいたしました。ただいまより本日午後九時より行われます『ベジタリアン・フィスツ in エッヂ』当日券の販売を始めます」
エッヂの店員らしい男が大声で告げた。バンドギャルたちが一斉にざわめく。
助かった。これでバンギャルたちの意識はチケットに向かったはずで、自分が話題に上がることはもうないだろう。
列が前に進んだ。史明もうつむきながら足を前に出す――と、着地した瞬間に膝が笑った。
「あ――っ!」
前のめりに体勢を崩し、睫毛ギャルの背中に手をついてしまう。
「ぎゃあああ! てめえなにやってんだよ! ふざけんな! お前に触られた服なんて二度と着られない。弁償しろよキモブサ!」
ギャルが吠えた。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
「ごめんはいいから金寄こせ! チケット代持ってんだろ。財布出せ!」
ギャルが史明のポケットに手をつっこんできた。史明は必死で財布を守る。
「このお金は渡せない……」
「ふざけんな!」
ギャルの前蹴りが史明の鳩尾にめり込む。
「うぐぅ!」
こ、呼吸が出来ない――苦しさのあまり前に倒れ込む。
亀になった史明の背中をギャルが容赦なく踏みつけた。ミュールの細い踵がわき腹に刺さる。
「うぎぎぃぃぃ!」
鋭い痛みが腹部に走る。それでも史明は財布を守るため、亀の姿勢をつらぬいた。
――このお金は、お母さんがくれた大事なお金なんだ。死んだって渡すもんか!
「てめえ、マジでなめんじゃねえぞ!」
力強く打ち下ろされたギャルのヒールが、史明の肛門に突き刺さった。
「あひぃぃぃぃぃ!」
史明の悲鳴が路地裏に響き渡り、周囲の注目を一身に集める。
❤❤❤❤❤
「ったく、あきれて声も出ないわ。あれで魔術師の承継者だなんて……ひどすぎるのよ」
上空から様子を眺めていたメリルが、深いため息をつきながらヒーリング・ミストを取り出した。
黒翼を羽ばたかせて史明に近づき、お尻に向けて泡を吹きかける。
シークレット・ポンチョを被ってステルス化しているため、普通の人間にはメリルの姿を見ることが出来ない。
「あがぁぁあああぁ、あっ――あれっ」
ビクビクと悶絶していた史明が、急に何事もなかったように立ち上がった。
「どうしました。大丈夫ですか?」
騒ぎに気づいた店員が史明に駆け寄る。
「言っとくけどうちら関係ないからね。こいつが勝手に倒れただけなんだから」
睫毛ギャルがそう言って、不愉快そうに頬をふくらませた。
「本当ですか?」
店員にきかれた史明は、
「は、はい。そ、そうです……。チ、チケットは僕でも買えますか?」
とオドオドと答えた。
「はい。今いらっしゃるお客様は大丈夫だと思います」
「よかったぁ~」
「チッ。結局来んのかよ。マジで醒めるわ。謝って。うちらの気分を害したこと謝ってくんねえ?」
睫毛ギャルが巻き舌で言った。
「は、はい。どうも、申しわけありませんでした。本当にごめんなさい」
言われるまま素直に頭を下げる史明。
「もう、なんなのこの子……」
二度目の深いため息をついたメリルが、あきれたように首を振った。
「でも仕事だからなぁ~」
気怠そうに四次元ポシェットをまさぐり、スカウターをつかみ出して装着。史明の顔に標準を合わせた。
黄色いグラスの内側に赤文字で数値が表示される。
『MP 0』
「やっぱり料理だけじゃダメかな~」
メリルが三度目のため息を、今度は鼻から吐き出し、ポシェットから出した対象記録帳に書き入れてゆく。
『五月十日 9時12分 MP0 奇抜な女子に肛門を蹴られて苦しむも、魔力にはなんの変化もなし』