第6根
「ただいま……」
いつもよりもいっそう小さな声で史明が言った。
「おかえりなさい」
エプロン姿の歩乃香が台所から顔を出した。
「起きてたんだ」
「うん。明日は休みだからね。今日の夕食は史明の好きなエビフライだからね。楽しみに待ってて」
「う、うん……」
台所に戻る歩乃香。その後ろについて史明も台所に入る。
「どうしたの? 帰ってきたらうがいと手洗いでしょう」
歩乃香が注意してきたが史明は気に留めず、
「お母さん……。僕のお父さんは、本当は誰なの?」
今にも死にそうな顔で問いかけた。
「なに言ってるの!? あなたのお父さんは博明さんでしょ」
「嘘をつかないで! 愚呂博明は僕の父親じゃない。僕は知ってるんだ!!」
冷蔵庫を手のひらで叩く。
「誰になにを言われたか知らないけど、あなたのお父さんは博明さん以外にはいません!」
そう言い返した歩乃香が、居間からアルバムを持ってきて史明の前で開いた。
「ほらっ、そっくりじゃない。どう見ても親子だよ」
一枚の写真を指して歩乃香が言う。写真にはダブルのブカブカスーツを着た男性に抱かれた幼い史明が写っている。
腫れぼったい目や厚い唇など、外見の類似点は多い。だけど雰囲気が史明とは似ても似つかない。華やかで生き生きとしていて、たいがいの写真で友人に囲まれている。
「こんなの本当の父親じゃない。偽親だ! この人を騙して僕を育てさせようとしたんだろう。この雌猫め!」
バチンッ! 史明の頬にビンタが飛んだ。
「いい加減にしなさい!」
歩乃香が手を震わせて言った。
「ぶったな……。やましいところがあるからぶっ――」
再び歩乃香の張り手が飛んできた。一発二発三発四発五発六発七発――
「痛いよ! いい加減にして!!」
史明が甲高い怒声を上げた。
「……………………」
歩乃香はなにも言わず、ただ瞳をうるわせて真っ直ぐに見つめてきた。
今までに見たこともないほどの悲しい顔だった。その顔を見ていたら罪悪感が一気に押し寄せてきた。
僕はなんてひどいことを言ってしまったんだろう……。
歩乃香がエプロンを脱ぎ捨て、プイッと史明に背を向けて歩き出した。
「あ、あ……。ちがうんだよ。僕は、そうつもりじゃなくて――」
バァァァン!!
ひしゃげたかと思うほどの音を立てて、玄関扉が叩き閉められた。
★★★★★
お母さん、行かないで。お願いだから……。
必死の嘆願にも関わらず母親が史明から遠ざかってゆく。その隣りには写真でしか見たことのない愚呂博明が笑顔で寄り添っていた。
「一人ぼっちはいやだ。行かないでぇ! お願い。後生だからぁぁぁ!」
史明は二人にすがりつき、大声で叫んだ。
『起きろ起きろ起っきろ~。起きないとお遅――』
しんのすけの頭をぶっ叩いてアラームを止める。
「ゆ、夢だったのか……。よかったぁ」
時刻は七時。見慣れた部屋の景色に安心し、ゆっくりとベッドから体を起こす。
なんて悲しくて恐ろしい夢なんだろう。もう二度と見たくない。
枕を見るとうっすりと染みがついていた。怖い夢で泣くなんて何年ぶりだろう。恥ずかしい。
涙で湿った顔を洗い流そうと部屋を出ると、換気扇の回る音が台所から聞こえてきた。
「お母さんっ!」
慕情を抑えきれずに飛んでゆく。怒られたってかまわない。今は母親の胸に飛び込んで甘えたかった。
「お母さん!!」
「あっ、おはようなのよ!」
ガスコンロの前に立っていたのは母親ではなかった。朱色の髪の毛を持った魔術管理官――メリルが鼻唄まじりにフライパンを振っている。
「お、おはようございます……」
「昨日はごめんね。あの後調べたら、史明は間違いなく愚呂博明の息子だったのよ」
「そうですか……それはよかった。だけど、なんでメリルさんが僕の家にいるんですか?」
至極もっともな疑問を呈す。
「あたしの手料理をごちそうしたくて、昨日の夜忍び込んだのよ」
メリルが蠱惑的な笑みを史明に投げかけ、フライパンの中身を深皿にあけた。
深皿に注がれるマグマのように煮えたぎった赤い液体。その中に幾何学的な多面体の、小さな物体がたくさん入っている。
「ごちそうしてくれるのは嬉しいんですが、これはなんていう料理なんですか?」
「メルモニスをバイデガーで煮たのよ。魔力の増大する食材を魔界から持ってきたの。だから遠慮せずにたくさん食べてね」
「は、はい……」
見た目だけでげんなりしたが、せっかく作ってくれたものを食べないわけにはいかない。
「そういえば、机の上にお母さんの置き手紙があったのよ」
メリルが食卓を目線で指し示す。食卓の上に一枚の折りたたまれた便せんがあった。
すぐさま便せんに駆け寄る。椅子に座り、メリルに見られないよう体を丸めて便せんを開く。
『史明へ 昨日は叩いてしまってごめんなさい。お父さんのことを悪く言われてカッとなってしまいました。あの後、居酒屋さんに行ってお酒をたくさん飲みました。悪い母親ですね。たくさん反省しました。謝ろうと思って帰ってきたのですが、史明はすでに眠っていたので、手紙で謝罪させてください。本当にごめんね。
P・S 工場の早勤に人が足りないと連絡が来たので行ってきます。あと、史明は間違いなく博明さんの子供です。これだけは信じてください』
「お母さん、僕の方こそごめんなさい。僕が馬鹿でした」
便せんを胸に掻き抱いて懺悔する。
「はーい。料理が完成したのよ~」
メリルが深皿とざるを一枚ずつお盆に乗せて持ってきた。
深皿にはさきほどのマグマスープが。ざるには五センチほどでぶつ切りにされたうどんの山のようなものが盛られていた。
「こ、これは……?」
「クワイエットワーム」
メリルがしたり顔で言ったその瞬間、うどんがクネクネと動き出した。
「の活き作り。すごくない? プロ並みでしょ」
史明は卒倒しそうになるのを、食卓に手をついてなんとかこらえた。




