第7舌
玄関を出て右に曲がった由紀は、左右に目を配りながら小走りで鬼百合ヶ丘駅を目指した。
空はすでに暗くなっている。街灯の下、五分ほど走って目的物である公衆電話を見つけた。
――駅まで行かなければいけないと思ってたのにこんなに早く見つかるなんて……! これは神さまが私を応援している証拠だわ。ありがとう神さま!
キリストでもアラーでも菩薩でもない、うすらぼんやりとした神に感謝を捧げた由紀は、公衆電話の受話器を取り上げて十円玉を入れた。そして携帯を開き、部活連絡網に乗っていた弥生の自宅電話番号をプッシュする。
「はい。小山内です」
さっきまで目の前で聞いていた弥生の声が、受話器の向こうから聞こえてきた。
「もしもし。こちら鬼百合総合病院ですが、こちらは小山内芳雄さまのご自宅ですか?」
鼻声で、トロフィーに書かれていた名前を出す。
「はい。小山内芳雄はあたしの父親ですけど」
「そうですか。誠に言いづらい話なのですが、気を確かに持って聞いて下さい。実は小山内さまが車と接触し、いま現在、非常に危険な状態なのです。いますぐ病院に来て下さい。お母様には私どものほうから連絡しておきますので」
ばれないように早口で告げる。
「お父さんがっ!! わかりました。すぐに家を出ます。わざわざありがとうございました」
ガチャンと叩きつけるように電話が切れた。動揺しているんだろう。いい気味だゲロブスめ。
公衆電話を離れて、来た道を悠々と戻る。
下手に急いでドブスと鉢合わせしたら、サックス窃盗計画が台無しになってしまう。いや、サックス窃盗計画ではない。正しくはサックス&クッキー&その他の金目のもの窃盗計画――いや、サックスは、ドブスから本来持つべき人間の元に返るわけだから、正確に言うとサックス&クッキー&その他の金目のもの奪還計画だ。これが一番しっくりくる。
三十分ほどかけてゆっくりと小山内家に戻ると、家の明りが一切消えて真っ暗になっていた。
馬鹿でブスの弥生のことだ。電話を受けて確認もせず、すぐに病院へ向かったのだろう。
「ひっひっひっひ」
由紀の頬がゆるむ。
馬鹿を騙すなんて簡単だ。あとはサックスと金目の物を奪い返すだけ。
堂々と敷地内に入り、正面玄関の呼び鈴を押す。当然反応はない。道具を使って鍵を開けてようか一瞬迷ったが、左右は民家で挟まれているため、隣人に目撃される可能性がある。前の通りからだって見えなくもない。
なので由紀は、小高い崖に面した裏手に回って侵入することにした。
「なあんだ。せっかく遊びに来たのに留守なんてがっかり」
わざわざ設定を口に出し、左右の隣家、前の通りをチェックする。
――よし。誰もいない。
瞬時に身をかがめて、小走りで家の横を走り抜ける。
裏に出て、豪勢なテラスを前にして鼻息を荒らげる。
「なにがテラスよ。ただの縁側じゃない」
囲いを上ってテラスの中に侵入する。
丸いウッドテーブルに数脚の椅子。なぜかハンモックまで吊されていて、そのお洒落気取りが心底鼻持ちならない。
「顔に似合わないことするなっつうの!」
怒りに任せ、椅子を引き戸ガラスに叩きつける。一度目でひびが入り、三度目でわずかに穴が開いた。
その穴から手を差し入れて鍵を下げる。そしてガラス戸を引いたその瞬間。
「細田さん!? こんなところでなにをやってるんですか?」
★★★★★
史明は弥生の家に向かっていた。驚かすために連絡はしていないが、部活も終わってる時間だし、きっと家にいるだろう。
胸ポケットに手を入れてサックスストラップの感触を包装紙ごしに確かめる。
サプライズってやつだ。ギャップのある男はもてるってやつだ――さっき立ち読みした『イケメンに負けない心と体を作る本』を思い出して自分を奮い立たせる。
「待ってろよ弥生。僕は井家村先輩なんかに負けないから」
意気揚々と弥生の家に到着したが、家の明りが一つも灯っていない。
なぜだ……? 家族で食事に出かけたとか? 友達と遊びに行ってるとか? まさか、井家村先輩と!?
激しい慟哭に胸を押さえる――と。
ガツン! ガツン! ガシャン!
小山内邸の裏から乱暴な音が聞こえてきた。
たしか家の裏は崖になっていたはず。子供のころ、由紀と一緒にフリークライミングもどきの遊びでしごかれた記憶があった。
怪しい……。弥生の身になにかあったのかもしれない。
びくつきながら家の裏に足を進める。道中、家の側面に寝かされていた高枝切り鋏を発見。両手で持つ。
――もしも家の裏に屈強な強盗団がいて弥生が捕らえられていたら、もしもここで死ぬか、仲間に加わって弥生を暴行するか選べと迫られたら、僕はこの高枝切り鋏で強盗団と戦おう。殺されたっていい。出来るだけ多くの強盗を道連れにしてやる!
悲壮な決意で裏に出た史明は、テラスの引き戸に手をかける女の子を見て驚いた。
「細田さん!? こんなところでなにをやってるんですか?」
「あんたは確か、なんとか史明とかいう、同じクラスの気持ち悪いクソメンだよね?」
「そ、そんな風に言われて、はいそうですとは言えませんけど……。僕は細田さんと同じクラスの愚呂史明です。もう一度聞きます。こんなところでなにやってるんですか?」
「……泥棒よ」
「泥棒って、細田さんが……?」
「そんなわけないでしょ!。なんで私が弥生ちゃんの家に泥棒に入るのよ! 弥生ちゃんの家に忘れ物して取りに来たら、怪しい男が裏から出てきて走り去っていったの。それで来てみたらこの通り」
由紀が穴の開いたガラス戸を手で示した。
「ひどい……どどどど、どうします?」
「警察に連絡するしかないでしょうね」
由紀が携帯を取り出して110番に電話した。
「もしもし。友人の家に泥棒が入るのを目撃したんです。はいちょっと待ってください」
話し口を押さえて「ここの住所わかる?」と史明に聞いてきた。
「南鬼百合ヶ丘町十五の三の六です」
丸暗記しているのでスラスラと出てくる。
「はい。冷静なので大丈夫だと思います。だけど不安なので早く来て下さい」
そう言って由紀が電話を切った。
「すぐに来てくれるって」
「そうですか……。よかった」
由紀の言葉に安堵する。椅子に腰掛けて向かい合い、警察が到着するのを待つ。
「ところで、なんで史明は弥生ちゃんの家に来たの? 仲がいいわけ?」
「ま、まあそうです。幼稚園のころから知っているんで」
「そうなんだぁ~。意外ぃ~~!」
口角をゆがませて、嫌らしく由紀が笑った。
なんだか侮辱された気がして悲しくなってくる。しょぼくれた高校生だから仕方ないんだけど……。
やがてけたたましいサイレンを響かせて警察が到着した。背の高い四人の警官がすごい勢いで家の裏にやって来て。
「お疲れ様です。家に侵入しようとしていた容疑者はこの男ですか?」
史明を一瞥して由紀に問いかけた。
「えっ!? ち、違いますよ。別な事件と間違ってます。僕はただの――」
誤解を解こうとする史明の言葉に被せて、
「そうです。そこにある大きな鋏で私を殺すと脅してきて……。たまたま私が柔道三段だったから取り押さえることが出来ましたけど……こんなの初めてで……すっごい怖かったぁぁぁ!」
由紀がいきなり泣き出した。
「ちょ、ちょっと、なにを言ってるの!? 意味がわからないよ。僕ら仲良くお話していただけじゃないか!」
由紀に詰め寄って抗議する。
「きさま、妄想狂か! 大人しくしろっ!」
警官が史明の手をひねり、苦痛に声を上げる史明をウッドテーブルに押しつけた。
「痛いっ!! なんで? なんでこんなことに……」
「うるさい。黙れっ!」
「うへぇ!」
腰に衝撃を受けて呼吸が出来なくなる。
「ご協力感謝します。署で聞き取りをいたしますので署までご同行お願いします。おいっ、こいつを連行しろっ!」
手錠をかけられ、無理矢理パトカーに押し込まれる。
「聞いてください。僕はなにもやってないんです。勘違いなんです……」
浅い呼吸で必死に抗議するも。
「わかったわかった。言い訳は署で聞いてやる。車を出せ」
この中で一番偉いらしい警官の号令でパトカーが動き出した。




