第1根
「うん。今日の卵焼きは成功だ」
窓際の席で愚呂史明がつぶやいた。
反応する者は誰もいない。一人で食べているのだから当然だ。
「鮭の焼き加減もバッチリ!」
レースカーテンを透過してきた陽光を焼き鮭に当て、史明は一人で悦に入る。
たかだか焼鮭と言っても最適な焼き加減で仕上げるのは簡単ではない。焼きすぎると固くなって食感が落ちるし、生焼けなんて論外だ。
史明にとっての最適な焼き加減――形や厚みによっても変わるが――そのゴールデンタイムは二十秒もない。焼き魚グリルを凝視して、ここぞのタイミングで上げる。史明はここのところ、六十四連勝中だった。
うっとりと目を細め、醤油差しの赤い蓋を取って焼鮭にかける。
「うまい! 焼き鮭に初めて醤油をかけた人は天才だ!」
名前も知らない偉人を絶賛する。すると横から。
「ほめるんだったら、醤油を発明した人間の方じゃね?」
いきなりつっこまれて、史明の体が一時停止したように固まった。
つっこみの主が史明の前の席に、またがるようにして座る。
「俺が誰かわかるよね?」
肩にかかるほどの長髪。妙に潤いのある唇。やたらキラキラと輝く大きな瞳――その一年生らしからぬビジュアルは、クラスメートでなくても一目みたらなかなか忘れられないだろう。
「た、田上次郎くん、だよね?」
「イエー。大正解。J・I・R・O。ジローって呼んでくれよ」
田上が手を差し出してきた。史明はズボンで手のひらを拭ってからその手を握る。
「じじじじ、ジローくん。よろしくお願いします」
「なんで緊張してんだよ。リレェックスリレェックス」
不自然な巻き舌でジローが言った。
「俺ってさ、田上って顔じゃなくない?」
「う、うん?」
「もっときらびやかな名字のほうがしっくりとくるでしょ。鬼龍院とかそれこそ高見沢とかさ」
「はあ……」
「でも次郎ってのはそこまで悪くないと思ってるんだ。J・I・R・O。なんか語呂が良くない?」
言ってる意味はまったく理解出来なかったが、話しの腰を折っては悪いと思って同意する。
わざわざ席まで来て話しかけてくれたのはジローが初めてで、史明はそれだけでとても嬉しかった。
「だよなあ。まあ、デビューしても本名は非公表にするつもりだからいいんだけど」
欧米人のように肩をすくめたジローが、手のひらを上に向けて首を振った。
曖昧な笑いで史明が返す。するとジローは満足そうな笑みを浮かべて前傾姿勢を取り。
「んでさ、ベジタリアン・フィスツってバンド知ってる?」
唐突に話題を変えた。
史明はすぐに反応出来ず、かといって無反応も失礼に当たると思い、小刻みにうなずいて場を取り繕った。
「は、はい。はいはいはいはいはい」
「オオッ! 知ってんだ。まあ、知らない方がおかしいか。ビジュアル系インディー界の最終兵器って言われてるぐらいだからな」
「そ、そうですよね……」
知っている体で話が進んでしまった。まずいのはわかっている。だけど今さら知らないなんて言ったら嫌われてしまうかもしれないし、このまま知ってる振りを続けるのが最善の道だろう。
「なんの曲が一番だと思う? 俺は『PONEY』だと思うんだけど」
「ぼぼぼぼ、僕もそう思います」
「おおう。マジか。よくわかってんじゃん。ちょっと見直したよ」
「いえ、いえいえいえ」
謙遜ではなく本気で否定する。
「二番目は? 二番目に好きな曲」
「あ、あの、や、やや、やっぱり……ファーストが、いいと、思います……」
「おおう! 渋いとこ来たねえ。『屋根裏浸食 ~White Ants~』だろ。あれも悪くないよな」
「はい。そうだと思います」
「いいよ史明。センスいいじゃん」
「はい。はは、ははははは」
なんとか誤魔化せたみたいで、ほっと胸を撫で下ろす。
「観たくない? ベジタリアン・フィスツ」
「えっ?」
「屋根裏浸食をフェイバリットに上げるような奴が観たくないわけないよな。あさって、クラブ『エッヂ』に来るのが急遽決まったんだ。一緒に行こうぜ!」
いきなりの誘いに戸惑う。
「あ、あ、いえ、その……」
「こんな小箱に来るなんて滅多にないぜ。しかも近場。行かねえと馬鹿だろ馬鹿。死んだほうがいいよ」
有無を言わせぬ口調に史明は。
「はい……わかりました」
流れで了承してしまった。ベジタリアン・フィスツなんて名前すら聞いたことがなかったのに。
「んでさ、ほんとに突然だから、チケットも予約一切なしで当日券のみなんだよ」
上目遣いでジローが見てくる。
「当日の午前九時発売らしくてさ。ほら、俺って体育の単位やばいじゃん」
まだ入学してから一ヶ月も経っていないのに単位がやばいなんて、どれだけ授業に出ていないんだ……。
「だからさ、俺の代わりにチケット取ってきてくんない? 一枚二千五百円」
ジローの言葉に史明は落胆する。結局、パシリか……。中学校時代となにも変わらない。
「なあ。一緒にKENTAROのギタープレイを堪能しようぜ!」
ジローが立ち上がって、史明の肩に腕を回してきた。見知らぬ不良にカツアゲされた経験がフラッシュバックし、心拍が一気に高まる。
「どうした。大丈夫か?」
ガチガチに固まった首を無理矢理動かしてジローに向ける。
そこにいたのは眉間に皺を寄せて恫喝する不良ではなく、森羅万象全てを許容しそうな、優しい笑顔のイケメンだった。
――ジローくんはあの時の不良ではない。僕と一緒にライブに行きたいと思って、わざわざ誘ってくれたんだ……。
「大丈夫だよ。ありがとう。僕が当日券を買ってきます」
「マジか!? ふぅー。やっぱり持つべき者は友だな」
そう言って、ジローが史明の頭をくしゃくしゃにした。
「や、やめてください」
「へへへ。そんな坊っちゃん刈りよりこっちのほうが似合ってるよ。KENTARO風、ルーズヘアー。見てみろよ」
ジローが手渡してきた豹柄の手鏡をのぞく。そこに映っていたのは、髪の毛をあらゆる方向に遊ばせた、ロックンロールな史明だった。