第10根
衝撃から約一時間経って、やっと史明は正気を取り戻した。
きっかけはライブハウスから漏れ聞こえるギャルたちの嬌声だった。
――なんて楽しそうな声。本当だったら僕もあの場所にいたはずなのに……。
気分がヘドロのように沈み込む。そのとき作業服を着た一人の中年女性が史明の横を通った。片手にバケツを持ち、もう一方の手にモップを持っている。
ビルの清掃員だろうか? こんな時間まで働いて大変だな。
女性のくたびれた後ろ姿に歩乃香を重ね合わせる。
お母さんもきっとあんな風に、僕のために必死になって働いてくれているんだ。お昼ご飯を抜いてまで五千円をくれたお母さん。僕のために……僕の幸福を願って……。それをジローくんは……。許せない。絶対に許せない!
史明の中に埋もれていた、最も原始的で激しい感情『怒り』に火がついた。
ふざけるなよ。学校をさぼってまで、全力で走ってまでチケットを手に入れてのはどこの誰だ?
「僕だ! 僕だ僕だ僕だ僕だぁ!!」
拳を握ってシャウトする。
「僕があの中にいるはずだったんだ! 光る棒を左右に振って、初めてのライブを堪能しているはずだったんだ! それを、うぉぉぉぉぉう!!
ドス黒い怒りが腹の奥からあふれてくる。
「ジローのくそ野郎は最初から僕にチケットを買わせて奪い取るつもりだったんだ! 許さない。絶対に許さないぞ!!」
ジローの描いた絵を、腐った企みを自覚した瞬間、史明の脊髄に電流が走った。
「ぬおおおおおおおおおおう!」
痛みというより、むしろ快感の竜巻が史明を犯した。
史明の毛穴という毛穴から黒い霧のようなものが漏れ出し、黒霧は次第にその濃さを増して、やがて史明の姿を完全に覆い隠してしまった。
「ぐおおおおおううあああああああああ!」
体が通常では考えられない変化を起こしていた。
脚や胴や腕がニョキニョキと伸び、体の各パーツに一流アスリートばりの筋肉がついた。
顔にも変化が現れた。腫れぼったかったくていつも眠そうだと言われていた眼が覚○剤を決めたジャンキーのように見開かれ、鼻は欧米人ばりに根本から隆起、顎先も凶器を思わせるほどにシュッと尖った。
無脊椎動物的に覇気のなかった表情も、百獣の王を連想させるほどの、剛胆で威風堂々としたそれに取って代わった。
別人のごとく変わった風貌。しかし一番変わったのは外見ではなく性格だった。
今まで史明の心に巣食っていた弱気の虫が消滅し、代わりに自信や自尊がパンパンに膨れあがった。
もはや史明は今までの史明ではない。怒りに支配された、グロ魔術師正当承継者、愚呂史明へと進化を遂げていた。
「あのクソガキぃ! 一生後悔するほどの苦痛を与えてやる!!」




