プロローグ
拙い内容ですが、楽しんでいただけたら幸いです。
太い樹木が屹立する森の中を、愚呂博明は全速力で駆けていた。
暗闇の中に一閃の光が走り、追いかけるようにして雷鳴が轟く。
外飼いの犬が怯えるほどの轟音だったが、博明はなんの反応も見せずに走り続ける。耳が聞こえないわけではない。逃亡中の博明には雷ごときに反応する余裕がなかった。
――こんなところで捕まるわけにはいかない。歩乃香と史明が俺の帰りを待ってるんだ!
愛妻と愛息を脳裏に浮かべて、博明は自分を鼓舞した。
「逃げなくてもいいでしょ。あなたは勘違いしてるだけなのよ」
どこからともなく女性の声が聞こえてきた。
「ふざけるな! お前たちの企みはわかってるんだ!」
博明は怒声で応じる。
「ふふふふふっ」女性の笑い声が響いた。小馬鹿にしたような軽薄な笑い。
「くっ……」
爆発しそうになる感情を抑え、博明はひたすらに足を進ませた。反応すればするほどあいつの目論見にはまっていく。そんな気がした。
「絶滅寸前のグロ魔術師ごときがわたしから逃げられると思っているのかよ?」
「…………」
「あらあら無視ですか? いくら頑張っても無駄なのに。あなたのブスなお嫁さんと低能な息子さんのためにも素直に従ったほうがいいと思うのよ」
「うるさい! 家族を馬鹿にするな!」思わず怒鳴り返してしまう。
「ふふふふふふっ。グロ魔術士のくせに家族は大事なのね」
笑い声が聞こえた。今度は後ろからはっきりと。
「なめるなっ!!」
振り返る博明。その視界に映ったのは、黒のボディスーツに身を包み、朱色の髪の毛をたなびかせたグラマラスな少女だった。
五メートルほどの距離があるにも関わらず、彼女の発する魔力に圧倒される。
――こいつはやばい。今の俺ではどうあがいても勝てない。ならば、不意打ちあるのみ!
魔力に差を感じた博明は、とっさの判断で少女に突撃した。
腰に組み付いてそのまま押し倒す。少女は反応できず、「なんなのよ!」と驚いて博明の背中を拳で叩いた。
「ふざけないでよ! シビリアルショ――うぐっ!」
魔法を唱えようとした少女の口を手のひらでふさぐ。
「これでは唱えられまい」
今度は博明が笑う番だった。
「おまえが馬鹿にしたグロ魔術を、思う存分に味わってもらおう」
片手で少女を押さえながら、グロ魔術の前口上を口にする。
「地の底でお眠りになられる魔神さま。願わくは我の魔術を成就させ、ここにいる魔者の魂を苦痛で浄化させたまえ。『羽虫大合集唱』!!」
鼻の頭に皺を寄せて、博明がグロ魔術を唱えた。眼球が反転して白目に。口からは黒い霧状の煙が吐き出され、少女の体を包み込んでゆく。
バタバタバタバタベタベタベタバタバタバタベタベタベタバタベタバタベタベタベタバタバタ。
けたたましい羽音が四方八方から接近してきた。音源は蠅、蛾、蚊など森に生息する羽虫たちの羽ばたきだ。
「いやぁー、やめてぇ!」少女が叫ぶ。
「いやだね。絶対にやめない」
そう吐き捨てた博明が少女を抱え上げて放り投げた。
木の幹に体を打ちつけ、少女が地面に落下する。その体に羽虫たちがいっせいに群がってゆく。
蠅が美女の口に突入し、蚊も負けじと美白の顔に吸血針を刺し入れまくる。その上から蛾が覆い被ると、もはや少女の面影は皆無で、森から生まれた悲しきクリーチャーにしか見えない。
「悪いが、苦しみながら死んでくれ」
そう言い残して博明は再び走り出す。
「ばべるんばばじゃぶいばぼ。ぐぞやぞお!(ふざけるんじゃないのよ。くそ野郎!)」
美女が口の中に詰まった蠅を咀嚼してペッと吐き出し、蠅がこびりついた口で魔法を唱えた。
「オープン・プルーム!」
美女の肩胛骨あたりから、一メートルほどの黒い翼が二本、ニョキッと出てきた。コウモリのように五本の骨がついた黒翼は器用に形を変えて動き、少女の顔や体についた虫たちを払い、押しつぶしてその命を奪ってゆく。
「虫ごときが私に危害を加えるなんて百年早いのよ!」
全ての虫を惨殺した少女が翼を羽ばたかせて上昇した。
広葉樹の梢を突き抜けて眼下を見下ろす。
「どこへ隠れた愚呂博明!」
夜間用のスコープを用いて探したが、博明の姿は見つからない。
「ここで逃したら、また魔王様の雷が落ちるのよ。う~ん、仕方ない」
少女が苦い顔で、腹部に取り付けられた四次元ポシェットから、小さいりんご大の黒い玉を取り出した。
「スケールは五十。五十だと確か一万平方メートルだっけ? あの男も結構やり手だから、これぐらいでは死なないでしょう。やっちゃうのよ!」
玉を揉みほぐし、森に向かって放る。
玉は無回転で落下してゆき、地面に着地した瞬間、耳をつんざく轟音を立てて爆発した。
「あれれれれぇー」
暴風にはじき飛ばされる少女。空中でなんとかバランスを保ち、煙が晴れるのを待つ。
「あららららぁー。やっちゃったぁのよ…………」
森は焼け野原と化し、脱毛症の猿のように醜い地肌をさらしていた。
「スケールを間違ったみたい…………。ははははは」
この状況で愚呂博明が生存しているとは思えない。
近い将来受けるであろう魔王の叱責を想像して、少女は阿呆の子のように笑うしかなかった。