いち!
はじめてみました! よろしくお願いします。
ツイッター(yuba33122)で更新予定やらネタやら呟いてます。よかったらぜひ!
そろーり、そろーり。できる限り足音を殺して。わたしは忍者、もしくは空気! さあ、どこかに一滴くらい流れているかもしれなくもない忍者の血を今こそ見せつけるときだ、わたし! がんばれ、わたし!
「イチノセ!」
「はひぃ!」
気分は忍者、気配は空気で部屋に入ったというのに、一分も経たないうちにここ三カ月ですっかり耳慣れてしまった怒声が降ってきた。うあー、自分のデスクまであと数歩なのに!
おそるおそる顔を上げると、真っ直ぐにこちらを向く我が上司の冷たい視線。うわー、怒ってるー。眉間に皺どころか額に青筋浮かんでるー。
中腰のまま、にへらと笑ってみせると余計に油を注いだらしい、眉を吊り上げていた端正なお顔がさらに怒りに染まった。まずいまずいまずい。
あわあわと周りに視線を送るけど、総勢十八名の経理班の同僚たちはこちらに視線すら向けてくれない。うん、分かるけどね。毎日毎日恒例行事のように怒られてれば、そりゃさすがに慣れるよね。そしてこの人の怒りの巻き添え食らいたくないよね。わたしも君たちの立場ならそうするよ、絶対。でも残念ながら当事者だから、敢えて言わせてもらおうか! お願い、助けて!
そんな願いも空しく救世主は現れないまま、目の前に怒声の主がやって来た。ひいい、お助けー。
「あなたは毎日、毎日どこで道草を食ってるんですか!」
「別に、道草食っているわけじゃ、」
「言い訳はよろしい!」
「了解であります、レイアン班長!」
道草じゃなくて迷子です! と主張しようとして、冷血上司の前に断念。代わりに背筋を伸ばして敬礼をしておく。レイムーズ(サファイアみたいな宝石のことだ)のよう、と受付班のお姉さま方がキャッキャッしていたアイスブルーの瞳はわたしからすれば氷のようです。冷たすぎて痛いです。
「だいたいあなたはいつもいつも、……――」
上司さまはいつものようにお説教タイムに入るようなので、今のうちに自己紹介をしておこう。毎度毎度、某芸人さんのように右から左に受け流してるから聞いてなくても問題ない。むしろ何を言われてるのか暗記するくらい耳たこだ。そんなに怒られてることに問題があるとかそいうのは、聞かない、聞こえない、気にしない!
……さて。わたし、一之瀬実亜は三か月前にここ、セノンディウス王国に落ちてきた日本人だ。大事なことだからもう一度言っておこう、わたしは空から落ちてきた日本人だ。別に頭がおかしくなったわけでも、夢見がちなお年頃ってわけでもない。正真正銘、空から落ちてきたのだ。……説明すればするほど、真実味が失われていくな。いやでも本当に鳥が飛びたつほどド派手に、ズドンとお尻から地面に着地したのだ。なんならそのときにお尻にこさえた痣を見せてもいい。三か月も経つのにまだ青いんだから。尾てい骨が折れたんじゃないかってくらい痛かった。
わたしにも信じられないことなんだけど、どうやらここはいわゆる異世界というところらしい。大学受験まであと数カ月、現実の厳しさに涙を呑んでいるわたしがどうしてそんな非現実的なことを信じたのかといえば、空からこんにちはしたこのうえなく怪しいわたしを怪しむ人が誰一人としていなかったからだ。むしろ心配してくれるおっちゃんまでいた。
その心優しきおっちゃんの話をわたしなりにざっくりまとめると、この世界では空から若い女の子が落ちてくるのは珍しいことじゃないらしい。空から女の子とか、それなんてギャルゲー? と思ったのはわたしだけじゃないはずだ。そんな使い古されたヒロイン登場なんて、ねえ? と、鼻で笑いかけたんだけど、どうやら魔法で(そう、魔法だよ!)空を飛んでいる女の子がコントロールを誤って落ちてくることは年に五、六回はあることらしい。
うまく魔力がコントロールできないのはまだ空の飛び方を覚えて間もない若い子で(空を飛ぶにも年齢制限があるらしい)、そういう若い子の中でも比較的女の子は魔力コントロールがうまくできないことが多い。だから必然的に空から落ちてくるのは女の子が多いってことらしいけど、ほうきも使わずに空飛んでるって言うんだから、ものすごくシュールな光景だよねそれ。
空から落ちてきたりして女の子は死なないのか、とツッコミを入れたくなったけど(というか、わたしもよく生きてたな)、そこらへんは落ちてる間に自分で調整するものだそう。わたしを心配してくれたおっちゃんは「ねえちゃん、鈍くさいんだなあ」と笑いながら去って行った。……おっちゃん、今度出会い頭にわたしがうっかり手を滑らせて頭の上の最後の希望を引っこ抜いちゃっても笑って許してね。
そんなこんなでここは異世界らしいという非現実を認めたわたしだけど、残念ながら白馬に乗った王子さまが迎えにくることもなければラッキースケベ体質の男の子の真上に落下することもなく、まあ簡単に言えば路頭に迷った。
言葉は通じるし、文字も読める。しかし文化が違いすぎた。店先に並ぶふよふよ浮く光の球やらなんかよく分からない生き物のしっぽやら青紫色をした四角い物体、エトセトラエトセトラ。どれが食べ物なのかも分からなかった。そもそも使い道が想像もできなかった。ついでに言えばそれらを買うお金も持っていなかった。もう呆然とするしかないよね、これは。
そんなわたしがなぜ生き抜けたのかって、全ては現代日本の義務教育のおかげだ。どうやら王都のど真ん中に落ちたらしいわたしはたまたま近くにあった果物屋のおっちゃんの計算ミスに気付いた。掛け算のミスとかその程度のことだ。でも、そのまま会計を済ませて商品を渡そうとしていたから慌てて「違いますよ」と声をかけたのだ。言葉にするとただそれだけなんだけど、それはもうすごい勢いでありがたがられてあれよあれよという間に果物屋さんの会計を任されるようになっていた。普通会って数時間の見知らぬ女に店のお金管理全て任せるか? 異世界、もうちょっと警戒心ってものを覚えるべきだよ。
この国では庶民でも学園に通うことができるんだけど(国から補助金が出るらしい)、なにせ子が親の仕事を継ぐというスタンスをとっている上に一人っ子が多いので、庶民でわざわざ学園に通おうなんて人はいないらしい。そんなことより子どもは野を駆け、山を駆け、時々店の手伝いをしろっていう教育方針なんだとか。そのため計算ができないどころか字が書けない人も多い。
普通商家に生まれた子は計算くらい習いそうなもんだけど、親もそのまた親もそんな教育方針の下に育ってきたから計算を教えようにも教えられないらしい。おかげで商売の収支が合わないことはしょっちゅうで困っていたのだそう。王都の中でも一等地に建つ貴族御用達のお店でもその教育方針は生かされているというんだから驚きだ。そういうお店は計算士という学園を卒業した専門職を雇うらしい。現代で言えばレジ打ちに資格がいるってことだ。……改めて考えるとすごいとこだな、ここ。
「いやあほんとまいっちゃってさ」とほのぼの笑う果物屋のおっちゃんがこの国の国民性の全てを表していた。この国の人たちは売り上げの収支が合わなくても「まいったまいった」ですませちゃうのだ。いつもよりほんの少し果物が割高でも「おう、そうなのか!」の一言でおしまい。ここ百年余り、善政善王、戦争の危機もなければ大きな国でもないから治安が悪い土地も少ないという平和っぷり。合言葉は「まあそんなこともあるさ」だ。そりゃほのぼのとした国民性にもなる。
わたしも感化されたのか、家に帰りたい! というホームシックにかかることもなく、受験なくなるならいっかみたいな心境になりつつある。これはまずい。非常にまずい。
ちゃんと給料は出すし、なんなら住居も提供するからと頼み込まれ、むしろこっちがお願いしたいくらいですと、就職難が叫ばれる現代日本じゃありえないくらいあっさりと就職先が決まった。
そんなこんなで一カ月。レジなんてもちろんないから暗算、もしくは紙を使った筆算でひたすらお金の計算を続ける生活にも慣れた頃のことだ。突然、颯爽と現れたのが後に我が上司となるレイアン、……ええっと、なんだっけ。レイアン、レイアン………………レイアン・なんちゃらかんちゃら。うん、ファミリーネームは長くて忘れたけど、とにかくレイアン班長だったのだ。
レイアン班長は王宮の政治部経理班の班長、分かりやすくいえば、財務大臣みたいな立ち位置のものすごく偉い人だ(おお、この紹介の仕方なんかバカっぽい!)。なんでそんなお偉いさんが王都とはいえ、なんの変哲もない果物屋に足を運んだのかと言えば、計算が驚異的に早い女がいるという風の噂を聞いたためらしい。そんな人材がいるならぜひとも引き取りたい、とわざわざやっていらしたというわけだ。
暇人かと思わなくもないけど、経理部は結構忙しいのでそういうわけでもないだろう。この国は何をするにも実力主義なところがあるから、単に仕える人材がほしかっただけだと思うけど。
そんな政治部勤務の班長直々のお願いとあって、果物屋のおっちゃんは身をプルプルさせながら頷いた。わたしの意見を聞くこともなく、その他詳細を聞くこともなく。というか、わたしに元から拒否権なんてものは存在しなかった。
そうしてあれよあれよという間に異例の出世を果たしたわたしは、現在セノンディウス王国政治部経理班で班長補佐という副大臣みたいな役職に就く高級官僚なのである。異世界、すごい。というか、もう怖い。
「――だと何度も言って…………イチノセ! 聞いているのですか!」
「いいえ、聞いていません、班長!」
「…………」
「…………」
「…………」
「聞いていませんでした、班長!」
「二度も叫ばなくても聞こえています」
なら反応しろよー。口元引きつらせてかたまるから聞こえてなかったのかと思ったじゃないか。
むっすーと唇を尖らせていじけてますアピールをしようかと思ったけどやめた。わたしがやっても鳥肌立つだけで何も生まない。むしろ不快感を生む。これ以上レイアン班長の視線が冷たくなったらわたし凍っちゃう。
「……あなたという人は」
はあ、とわざとらしい溜息をつくレイアン班長。溜息つくと幸せ逃げますよ、と教えてあげようとかと思ったけど、この人スペックが異常に高いから少しくらい不幸な方がつり合いがとれていいかもしれない。イケメン(っていうと安っぽく聞こえるのはわたしだけ?)はほんのちょっとの不幸もスパイスになるから平気、平気。むしろタンスの角に足をぶつける、みたいなちっちゃな不幸がいっぱい振り積もればいいのに。そんなわけで何も言わずに口を閉じる。
しっかし見れば見るほど嫌味な美形だな、我が上司どのは。神が作り給うた彫刻とかいう訳の分からない賛美をする集団(正式名称は『レイアンさまに罵られ隊』だそうだ。……この国マジ平和)の言うことも分からなくもない。むしろ顔の造りに隙がなさすぎて怖い。この人の場合、イケメンというより芸術品って言った方がしっくりくる顔だ。……自分で言っといてなんだけど、分かりにくいたとえだな。
でもまあ、顔がいいだけのこんな冷血漢のどこに惹かれるのかわたしにはさっぱりだけど、美人のお姉さんたちはそれを「クールじゃない!」の一言で片付けるという荒業をお持ちだ。そんなわけで、レイアン班長はものすごくモテる。それはもうウハウハ☆ハーレム状態だ。三日に一回は愛の告白をされ、毎日のようにお弁当の差し入れが届くという、マンガの主人公みたいなお人だ。ほんとにこの冷血漢のどこがそんなにいいのか、わたしにはさっぱり分からないけど。ちなみに『罵られ隊』の方々に聞いたところ、いかにその冷たさに興奮し、『レイムーズのような瞳』とやらに睨まれると恍惚とするのかを小一時間ほど語られたので、もう二度と関わり合いになりたくない。
「毎日毎日言っていますけど。あなたが仕事に遅れてくるだけでどれだけの案件が溜まっていくと思っているんですか?」
「ざっと三十ほどでしょうか。でも、レイアン班長は優秀なので、わたしなんかがいなくてもそれくらい片付けられると思います!」
なにせ国始まって以来の秀才ですもの! 暗算で二桁の掛け算ができる唯一の人、まさに神の子! って崇められてましたもん! もちろん『罵られ隊』の方々に! ちなみにわたしもできますけどね!
「……イチノセ、これも毎日聞いていることなのですが」
心底疲れた、という顔をしてレイアン班長は形のいい薄い唇を開く。
「はい、班長!」
「あなた、反省していますか? ……始業開始から二時間が経っています。誰がどう見ても完全な遅刻なんですが」
「もちろんです、班長! 度重なる遅刻、不肖一之瀬、まことに申し訳なく思っております!」
でも言い訳させてもらうなら、わたしの遅刻はこの複雑な造りの政治部棟が悪いと思うんです! もはや迷路のようで未だに迷子になるんです! だって同色同形の扉、永遠に続く廊下、多すぎる曲がり角! そりゃ分からなくもなるよ! この国の建物、横に長いから余計に迷路みたいだし!
「イチノセ! それなら少しは反省した態度を見せなさい!」
――そうして今日も今日とて、経理班に割り当てられた班室から半径五メートル以内に『神の作り給うた彫刻』ことレイアン・シャイナレスムス班長と、最近新しく経理犯に加わったばかりイチノセ班長補佐のコントのようなやりとりが響くのです。それがもはや政治部の朝の名物と化していることを、そしてちゃっかり『罵られ隊』のメンバーがその怒声をどうにか録音しようと試行錯誤していることを、その他経理班員は敬愛する班長の脳の血管のためにも黙秘することを選んでいるとかいないとか。
ちなみにわたしは二桁の掛け算、暗算でできるか怪し……げふんげふん。
追記
イチノセの遅刻は真相ありです。政治部事情が明らかになるまで、矛盾点はそのまま目を逸らしていただければ……!