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matataki

晴れの日と雨の日であじさいの表情が違うのはなぜですか

作者: 大橋 秀人

瞬くと、化学室の窓外であじさいが静かに雨に打たれていた。

「先生」

呼び止められた蛭間は、必死にその女子生徒の名前を思い出そうとした。顔は覚えていた。確か、廊下側の後ろから二番目あたりに座っている子だ。良く言えば真面目な、悪く言えばこれといって特徴のない、至って普通の生徒だった。

「先生、晴れの日と雨の日であじさいの表情が違うのはなぜですか」

 突拍子もなくされたそんな質問に、なぜだか彼はハッとした。

 その日最後の授業が終わり、早々にコーヒーの待つ化学準備室に引き上げようとした矢先の出来事だった。


 外は一面曇り空で、深夜から続いている雨が確かに全てを灰色に染めているようではあった。

「えっと、ミルクと砂糖は?」

 生徒の目の前にコーヒーを差し出すと、彼女は首を振りながらカップを手にとった。

 ブラックを啜る姿を物珍しく観察しながら蛭間は自らのカップにもその液体を注いだ。

「で、さっきの質問だが、あれは場所によって花の色が変わるのはなぜかという意味でいいのか」

 それなら土壌の酸性度と化学物質の兼ね合いが関係していると答えれば済む。彼は早く質問にケリをつけてしまおうと思っていた。勢いで招き入れてしまったが、女生徒がこんな応対を望んでいた訳ではないだろうと思い直した。

「違います。晴れの日と雨の日であじさいの表情がなぜ変わるのかを教えてほしいんです」

 晴れの日と雨の日であじさいの色が変わる。

 そんなハズはないと簡単に答えてしまおうかとも思ったが、彼はカップを手に立ち上がりながら一呼吸置いた。

「それは、僕に問うべき質問なのかな」

「蛭間先生ならわかると思って」

 そう言って女生徒はニッコリと笑った。純粋な言葉に知っているものなら教えてやりたい気持ちも芽生えたが、彼はその知識を持ち合わせていなかった。

 あじさいは化学室の目の前に咲いていた。五株ほどだろうか。そのほとんどが白で、なかにはピンクと紫の花もあった。それらは雨に打たれていたが、一様に力強く花開いていた。

「わかった、ちょっと調べてみるから、明日の朝、またここに来てくれるか」

 あじさいを見ながらコーヒーを啜ると、蛭間はそう告げた。

「明日の天気予報は晴れだ。一緒に確かめてみようじゃないか。本当に色が変わっているのかをね」

 兎に角、一度、本当に色が変わっているのか確かめてみたい気になっていた。


 帰宅した蛭間は家事を全て終えたあとリビングのソファに座り、少しだけあじさいのことを考えた。生徒からの突飛な質問で、これから訪れる長い夜の苦痛が少しだけ和らいだ気がした。

 未だに雨は止まずにいた。雨音が静けさを増していた。彼はメールボックスを何度も開いた。

【今から帰るね】

 そんな題名のメッセージが深夜に届いた。明日は彼の恋人である絢香が留学から帰ってくる日だった。短期とはいえ離れ離れの生活を送っていた日々。はじめはケンカ別れのように出ていったのに、時が経つにつれてお互いの気持ちが再認識され、関係が強くなっていった。会いたい気持ちは強くなる一方だったが、互いを尊重して選んだ道を邪魔したくない一心で今日まで耐えてきた。

【気を付けて。学校が終わったら迎えにいく】

 短い文を送り返す。

【こっちは少し寒いわ】

 彼女は今、どんな顔をしているのだろうか。蛭間は雨音の中にその表情を探す。

【日本は梅雨が明けきらなくて、毎日どんよりした天気だよ】

【雨は嫌い。髪がボサボサになるから】

 きっと、前より髪は伸びているに違いない。湿気を含み、膨らんでしまった絢香の髪も彼には想像できた。

【大丈夫、明日は久しぶりに朝から晴れるってさ】

【そう。よかった】

 そんな他愛もないメールを交換し合っているうちに、睡魔が彼の手を引いた。


 目が覚めると、蛭間は朝日が差し込んでいることに感謝した。遠足の前日には必ず眠れない彼は、昨晩もきっと眠れないだろうと覚悟していた。にもかかわらずいつの間にか自然に寝入れたこと、そして絢香が嫌いな雨が止んでいたことに感謝せずにはいられなかった。

 彼女とのメールの遣り取りの合間に、あじさいの色について調べてみたが、自分が納得できるような答えにたどり着くことはできなかった。

「おはよう」

 職員室に寄り化学準備室に引き上げると、すでに女生徒は鍵のかかった扉の前で待っていた。

「早いじゃないか」

「そんなことないですよ。先生がギリギリすぎるんです」 

 そう言って女生徒は笑った。昨日よりひどく明るい顔をしている。

「なあ、もしかして今日のあじさいは最高に綺麗に見えたりしないか」

 目の前に広がるあじさいの花を見て、彼はそう言った。蛭間の目には普段何気なく映っていたその花が、その時は確かに輝いて見えた。昨晩に蓄えた雨つゆが初夏の白い朝日に煌めいている。鮮やかな緑の中でいくつもの花が放射状に力いっぱい咲いていた。花というのが、こんなにも生命力を漲らせているのだということ気付けた気がした。

「確かに昨日とは全然違うな」

 蛭間の声に、生徒は満足そうに頷く。

「なあ、でも君の質問はやっぱり僕に問うべきものではないと思うんだ」

「いえ、先生じゃなきゃダメでした」

 きっぱりとしたその答えを疑問に思い、彼は女生徒を窺う。

「きっと僕より、国語教師なんかが上手く答えを出してくれると思うよ」

「はい、だから蛭間先生なんです」

「何で?」

「先生、今日、絢香先生が帰ってくる日なんでしょ?」

 そう言うと女生徒はイタズラに彼を見上げた。

「絢香先生、言ってたんです。花って、状況によってその表情を変えるんだよって。それで、見る人の気持ちによっても変わってくるって」

 いかにも国語教師である絢香が言いそうなことだった。そんな全く科学的でない答えにも納得させられてしまう自分に苦笑しつつ、それも悪くないと許せる自分が誇らしかった。そしてそんな自分だからこそ、絢香を愛せるのかもしれないと思った。

「要するに君は、僕を使って実験をしたということだね」

 一年の時に絢香のクラスだったというその女生徒は、イタズラに笑って見せた。

「楽しみだね、先生」

 女生徒はニヤニヤしながらそう言ってくる。

 今日は一日、雨は降らないらしい。

 授業を終えたら、すぐに絢香を迎えに行こう。そして、今日見たあじさいが最高に綺麗だったことを伝えよう。

 蛭間はそう思いながら眩しげにその花を見ていた。

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― 新着の感想 ―
[一言] 「ブラックを啜る」女子生徒、これはこの時点で容易ならざる相手であることを暗に示しているように感じるのだけれど、実は先生にはそれ以上に気になることがあったというわけかあ……。
2012/10/06 10:36 退会済み
管理
[良い点] どうも敬愛です。今回の作品は一言で言うと、と思ったけど忘れてしもうた汗 中盤が特によかったですね。凄いリアリティもあり女生徒がファンシーでした。読後感が爽やかでした。大橋先生の短編は情景…
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