私、婚約破棄されて幸せでした
「婚約を破棄した、だと?」
側近から報告を聞き、私は眉間をつまんでため息をつく。私の妹の息子、つまり甥であるセドリックが、一方的に婚約を破棄したらしい。理由は相手側の不貞とのこと。今両家で話し合いの真っ最中らしい。
私は政界から引退した身なので、相手方のことはよく知らない。事実関係もだ。だが、今時の若者たちは貴族間の婚姻をあまりに軽んじている風潮がある。貴族たるもの婚姻の遵守は当然の義務だ。まさか私の身内にそんな非常識な人間がいると思ってもみなかった。嘆かわしいと言うほかない。
本当なら絞り上げて徹底的に説教してやりたいところだが、今の世の中を担っているのはもうそういう若者たちだ。私のような一線を退いた男が口を出すのは、もう時代錯誤と言われても仕方がない。
本当に不貞があったならともかく、そもそもその話も怪しいものだ。セドリックのことは多少知ってはいる。嫉妬深く、癇癪を起こしやすい。素行の悪さはよく耳に入ってくる。それにあいつの方こそ貞操観念が低い。セドリックが不貞を行ったという話であれば、やっぱりやったかと思ったであろう。
私の妹が嫁いだ、セドリックの父である侯爵家当主だって大差はない。妹に対してお前を愛することはないと言っていたそうだ。そして愛人を囲って生活していると聞いている。親が親なら子も子ということだ。
心労で胃がずきりと痛む。ままならなさは歳をとっても変わらない。
「今日の昼食はどうなされますか?」
「ここで食べる。白パンと干し肉で良い。最近はどうにも胃もたれがひどい」
「もう少し滋養に良いものを食べないと治るものも治りませんよ」
「わかってはいるのだがな。どうしても食欲が湧かないのだ。まだ食べ慣れている物の方が口が動く」
側近の小言を聞きつつ、パンを齧りながらため息をつく。
「そろそろ隠居を考えても良いのでは?陛下から領地を貰っているでしょう」
「それもわかっている。息子に王位は譲り渡したのだし、あとはもう任せておけば良い。だからこうして私は表舞台からは引退し、執務の手伝いをするに留めている。だがどうしても今後の行く末が心配なのだ。別に息子を軽視しているわけではない。今回の婚約破棄も然り。最近の若者はどうにも考えが足りていないことが多いように思う」
息子に王位を継いでから城勤めの平民が増えたのもその一つだ。貴族と平民では教育や能力にあまりに隔たりがあるし、信が置けるかという問題は大きい。そんなことをしているうちは私も隠居するわけにはいかないのだ。
「左様でございますか」
呆れたように言いながら側近は私に水と胃薬を差し出してくる。それを一息に流し込んで、人心地つく。
ちらと日付を確認すると、今日のところに印が付けてあり、今日が亡き妻の命日であったことを思い出した。
「少し出る」
「どこへ行かれるのですか?」
「城の裏だ。一人で良い」
外套を羽織り、護身用の剣を取ろうとして置いた。この辺は治安は良いので武器はなくとも大丈夫だろう。
「ああ、今日でしたね」
と皆まで言わずとも理解してくれる。城の裏には少し開けたところに丘陵地がある。妻は生前の希望でそこの丘に眠っている。
丘陵地に着くと、開けた芝生の上に誰かが寝転んで夜空を見上げているのが目に入った。一瞬、我が目を疑った。まさかこんなところに、ましてやこんな夜遅い時間に先客がいるとは全く想像だにしていなかったからだ。
そこにいたのは若く美しい女性だった。まるで絵画を切り取ったように、月明かりに照らされてどこか神秘的だ。
妻の墓のそばということもあり、若かりし頃の妻が現れたのかと思った。いくらなんでもそんなわけないと、かぶりを振る。しばらく見入って立ち尽くしていたが、私に気づいたご令嬢は声をかけてきた。
「あら、ダンディなおじさま。こんなところにどしたっすか?」
見惚れていた私は、その声にハッと意識を呼び戻された。令嬢の、こう、なんというか、意外性のある雰囲気に面食らってしまったが、平静を装いつつ返事を返す。
「ちょっと妻の墓参りにね。君は何をしているのかな」
「星空を眺めてるんすよ。綺麗でしょ?」
まるで少年のようにニッと笑って言う。
「星?そんなものを見て何かあるのか?」
「別にないっすよ」
「ならなんでそんなことをしているんだ?」
「楽しいだけっす」
若者がそんな無為な時間を過ごすなんて、人生の限られた時間を無駄に捨ててるようなものだ。と思っていたが、私はふと気づいた。私自身妻の墓参りに来たのではないか。別に得るものがあって来たわけではない。言葉にするなら、わずかばかりの時間、生前の思い出に耽るためだが、つまるところ私が来たかったから来ただけだ。
そう思って、ふっと息をついた。
「そうだったか。お邪魔してしまったかな?」
「いーえ。一緒にどうっすか?」
「そうか。それならお言葉に甘えて」
私は令嬢の隣に腰を下ろした。
「話がわかるっすね。年頃の令嬢がこんなところに一人でいるなんてって注意されるかと思っちゃってましたよ」
「注意して欲しいのかね?」
「嫌っす。見逃してください」
手を合わせて大袈裟に頭を下げるご令嬢に私は苦笑する。貴族らしくないし、だいぶ個性的だが、とても気さくなご令嬢のようだ。
「窮屈な世の中だ。たまには一人になりたい時ぐらい誰にでもあるだろう」
「ほとんど毎日来てるんすよ。おかげで不貞を疑われて婚約破棄されちゃいました。でも今はおじさまと二人で密会してるんであながち間違いでもないっすね」
ご令嬢はケラケラと笑いながら言う。
「婚約破棄?なら君は……」
とそこまで言って私は黙った。先ほど甥のセドリックが婚約を破棄したという話を聞いたばかりだ。このご令嬢が婚約相手だったということだろうか。確か名前はスターリング伯爵家のルクル嬢だったはずだ。
「甥が申し訳ないことをした」
「なんでおじさまが謝るんすか」
「婚約は家同士の契約、結びつきだ。簡単に破棄して良いものではない。ましてや、不貞は事実ではないのだろう?どう考えても甥の方に責任がある」
「固いっすねぇ。婚約なんて破棄したければすればいーじゃないっすか。別に死ぬわけじゃないっす」
「破棄された張本人がそれを言うのかね。君の名誉に泥を塗られたのだぞ。本当に何も気にしていないのか?」
「ぜーんぜん。ただ、ちょっとだけ悔しかったっす。ちゃんと言ったんすよ。星を見てただけだって。でも、そんなくだらない嘘が言い訳になるかって言われて」
私は目を閉じて考えた。星空を眺めるなんて、確かに無為でくだらないものかもしれない。だが私は妻の墓参りをくだらないなどと言われたら激昂してしまう自信がある。彼女には彼女なりの思い入れがこの星空にはあるのだろう。
「本当に申し訳ない」
「優しいんすね」
そんな悔しさを飲み込んで、ルクルは普通に接してくれている。文句も泣き言も言わないルクルを見て私は素直に尊敬していた。
「これでも紳士を心がけているものでね。さて、いつまでも邪魔していては悪い」
私はそう言って立ち上がる。
「もう行くんすか?」
「ああ。君のような美しいご令嬢と話ができて楽しかった。年甲斐もなくはしゃいでしまったよ」
「お上手。私も楽しかったっす」
ルクルも立ち上がり、パンパンとスカートの草を叩いて落とす。私は妻の墓の前で手を合わせると、ルクルも一緒になって手を合わせてくれた。別にルクルには大したことをしたつもりなどなかったのだろう。だが私はそのことが妙に嬉しかった。
*
翌朝になっても昨晩の出来事が頭に残って離れなかった。別に変わったご令嬢と少し話をしただけなのだが、あの月明かりに照らされた姿が目に焼き付いてしまっている。ふと窓の外を見上げてみるが、今は強い日差しと青い空しかない。なんとなく執務が手につかず、早めに切り上げて、日課の鍛錬を行うことにする。
もう平和になった国で、今後再び戦時下に入ることはほぼないだろう。だがそうだとしても、何かあった時、いつでも前線に立てるように鍛錬を欠かしたことはなかった。無心で剣を振るっていると何となく気は落ち着いてくる。年々息が上がるまでの時間が早くなっていくことに歯噛みしながらも、いつもの鍛錬を終える。
鍛錬が終わるまで待っていた側近に、剣を渡すついでに質問してみた。
「スターリング伯爵家との話は今はどうなっているんだ?」
「とりあえず両家の合意は取れたらしく、婚約の解消に向けて話は進んでいるとのことです」
剣を片付けながら言う側近に、私は怪訝な顔を向けた。
「解消?セドリックが一方的に婚約を破棄したのではなかったか?」
「ルクル嬢の有責ということになっていると伺っています」
私は驚いて身を乗り出した。
「有責?なぜだ?不貞はただの言いがかりだろう。スターリング家より申し立てはなかったのか?」
「夜出歩いていたことは事実のようですし、令嬢側の方が立場が弱いため、揉めることを避けたようです」
妹が嫁いでいる以上、侯爵家は王家の縁戚となる。力関係で見た場合、スターリング伯爵家の方が劣るのは明白だった。妹を蔑ろにしている癖に権威だけは利用しようなどと本当に腹が立つ。
「つまりは泣き寝入りか」
私は舌打ちをし、吐き捨てるように言う。
「王家としてはその方が良いでしょう。何かご不満があるのですか?」
そう言われて、私は自分が令嬢の味方をしていることに気づいた。確かに私の立場からすれば、相手方が控えてくれている方が良いのは当然だった。
「そう、だな。いや、なんでもない」
そう告げると、側近は不思議そうに首を傾げた。
うまく説明できないが、どうにも気持ちに収まりがつかないだけだ。不貞が事実でないことは知っているし、本人は気にしていないと言っていたが、ルクルばかり理不尽な目に遭っているように思えて、どうしても気がかりだった。
だいぶ変わったご令嬢だったが、それでも落ち込んだり傷ついたりしているかと思うと、申し訳なくなってくる。
毎日あの丘にいると言っていたし、様子を見に行こうと心に決める。今日の夜にでも顔を出してみよう。
*
思っていた通り、ルクルはまた昨日と同じところで寝転んでいた。私に首だけ向けると、そのまま手を振ってきた。
「やっほ、おじさま、昨日ぶりっすね」
なぜか葉っぱを口で喰みながら、まるで貴族とも令嬢とも思えないような、昨日と変わらない態度に少し安心する。
邪魔するのは申し訳ないと思っているが、邪魔と思っている様子には見えないところも安心した。
気になって来たのは良いものの、この星空の下で俗世について話すことはどうにも無粋な気がしてならなかった。とはいえ、私はご令嬢に受けの良い話題など持っていない。ましてや、二回り以上も若い子と何を話せば良いのか。そう思ってじっとルクルの咥えている葉を見つめていたら、ルクルの方から話を振って来た。
「おじ様も食べます?」
「それはなんだ?」
「その辺の草っす」
「なんでそんなものを」
「美味しいっすよ」
ルクルはその草の葉を摘み、毒味をするようにちょっと齧って、私に手渡した。おそるおそる口に放り込んで飲み込むと、爽やかな香りが胃から鼻に抜けてきた。
「これはミントか。良い香りだな」
「正解。私、小さい頃から平民たちに混ざって遊んでいたから、色んな草を食べたりしてたんすよ。お気に入りの葉っぱっす」
なるほどと心の中で首肯した。道理でルクルがあまり貴族らしくない言動をしているのかを理解した。
しかし、平民か。やはり今時の若者の考えることはわからない。私の世代からすれば平民は管理の対象だ。貴族と違い平民は失うものが無い。その分いつ裏切るやもしれん相手を側に置いておくなどあり得ないことであった。
「おじ様が私ぐらいの頃って何してたんすか?」
「面白い話は何もないぞ」
「良いんすよ。将来の参考にしたいんす」
「そうだな。私はずっと最前線で戦いに明け暮れていたんだ。将として多くの兵を引き連れてな。五体満足で終えられたのは運が良かったと言う他ない。十年ぐらい前に最後の戦争を終えて、私は引退した。全てを息子に引き継いでな。武力の時代は終わり、経済の時代が始まる。そうなった時、私はもう役目を終えたと思ったのだ」
私のつまらない昔語りを彼女はニコニコしながら聞いてくれている。
「私が呑気に星を眺めていられるのはおじ様たちのおかげなんすね。そしたら、これからは何をするんすか?」
「何、とは?」
「仕事終わったんすよね?そしたら次にやりたいことっす」
私は言葉に詰まってしまった。言われている意味がわからなかった。人生においてやるべきことはやり遂げてきたと思う。やりたいこと?そんなものどれだけ頭の中を探っても出てこなかった。
「考えたこともなかったな。君はあるのか?」
「もちろん。幸せになりたいっす」
「ずいぶん抽象的だな」
「幸せっていろんな形がありますもん。例えば、美味しいお菓子を食べながら、好きな人と夜空を見上げて楽しく話ができればもう最高じゃないっすか?」
「若いのに欲が無いことだ」
「そんなことないっす。強欲だしめっちゃ図々しいと思いますよ。つまり今話し相手と、綺麗な星空は揃ってるってことですよ」
ニヤリとこちらを見ながらそんなことを言うルクルを見て、私は笑い声を上げた。
「なるほど。それは強欲だ。次来る時は何かしら菓子を用意しておこう」
「さすがおじ様。話が早いっす」
* * *
その日から私は毎晩丘に通うようになった。不思議とルクルとは話が弾んだ。些細な他愛もない話ばかりだったが、私にはない考えがとても新鮮で楽しく、夜になるのが待ち遠しくなっていた。
菓子をねだられたことも私にとっては嬉しかった。遠回しにまた来てくれと言われたことにすぐ気づいたからだ。
「この辺りで最も評判の良い菓子を作る店はどこだ?」
私は側近に尋ねた。こういうことは自分で考えるより、若者に聞いた方が確実だと思う。
「菓子ですか?それなら大通りにあるル・べルフェーユが有名ですけど、それがどうしましたか?」
「贈答用にいくつか取り寄せて欲しい」
「人気店なんで予約しないと買えないですよ」
「なんとかならないか?お前ならどうにかできるだろう」
側近は信じられないものを見るような顔で私を見てくる。詳しく説明するのはなんとなく気恥ずかしくて、適当に誤魔化したが、今後の小言が増えることは少し覚悟した。
綺麗な赤いリボンに包まれた箱を開けると、香ばしい香りが漂って来る。ドライフルーツを混ぜ込んだクッキーをみて、ルクルの顔が明らかに綻んでいる。どうやら正解だったようで、私は心の中で喝采を上げた。
「一緒に食べません?」
思ってもいなかった提案に、年甲斐もなく胸が高鳴ったが、相伴にあずかることにした。
「私これめっちゃ好きなんすよ。ル・ベルフェーユのクッキーっすよね。すぐ売り切れちゃうんで、中々食べられなくて」
「ああ、少し無理を言って取り寄せしてもらったんだ」
私が一枚食べる間に四枚食べ終わるルクルを見て、自然と私は頬が緩んでいた。
思えばこの時にはもうとっくに彼女に惹かれていたのだと思う。
*
ルクルには悪いとは思ったのだが、やはり彼女のことを調べるよう側近に指示をした。そして、報告を聞いて私は愕然とした。ルクルは小さい頃両親から虐待を受けていたらしい。特に、食事を満足に貰えず、森で採取した野草や木の実の類で食い繋いでいたそうだ。冬は一緒に行動していた平民にパンを分けてもらったりしていた。
「これは本当なのか?」
あまりにも信じられない内容に、つい確認してしまう。
「間違いありません。両親ともに事故で亡くなったのを機に、スターリング伯爵家に養子に入り、今は普通に暮らしているそうです」
「このことは、甥の家は知っているのか」
「はい、侯爵家も承知しております」
「なんと言っていた?」
「育ちが悪い。碌なものではないと」
私は骨が軋むほど拳を握りしめた。あの家はどれだけルクルを貶めれば気が済むというのか。だが思い返すと私も心の中では、ルクルが貴族らしからぬ様子は平民なんかと関わっていたからだと思っていたのではないか。ルクルにとっては命の恩人に等しい大事なものであったというのに。
行き場を無くした拳で、自分の膝を叩いた。
婚約破棄されたからって死ぬわけじゃない。そうルクルは言っていた。今になってその言葉の重さがわかった気がする。
なんとなくルクルの顔を見られなくなり、その日は丘に行けなかった。
*
一日顔を見なかっただけだというのに、ルクルのことが気になって仕方がなかった。彼女の言葉が頭をよぎった。幸せになりたいと言っていた。今ルクルは幸せではないということなのだろうか。
どうしてここまで、ルクルのことが気になるのか。さすがに自覚している。私はルクルに恋情を抱いているのだ。こんな歳になって恋だなどとあまりに馬鹿馬鹿しくて自嘲したくもなる。
だが、別にルクルのことをどうこうしようというつもりはない。ルクルが幸せであればそれで良いと思っている。このような年嵩の男の後妻に嫁ぐなどあまりに可哀想ではないか。周囲からも憐憫の目で見られることになる。
こういうの若者の間で流行っている言葉があったな。確か、推し…だったか?初めて聞いた時は意味がわからなかったが、なるほど。私にも理解できた気がする。これはこれで尊い物じゃないか。ルクルの幸せのために、私は推しをすれば良いのだ。
夜になり丘に行くとルクルはいつものように片手を振って出迎えてくれた。もう恒例となったやりとりだ。一日空いただけだというのに顔を見るだけで安心する。だがルクルは大欠伸をしてやたらと眠そうにしていた。
「今日はずいぶんと眠そうだな」
「昨日夜更かししちゃいまして」
「もしかしてずっと待ってたのか?」
「いつもよりちょっとだけっすよ」
と言いながら、また大欠伸をする。普段は私が先に帰っているため、ルクルがその後いつ帰っているのかは知らない。だがこの様子だと、どうやら星が見えなくなり朝日が昇るぐらいまで待たせてしまったのではないだろうか。待っていてくれた嬉しさとともに、待たせた申し訳なさが心の中で入り混じる。
「それは申し訳なかった。引き上げてくれても良かったのだぞ」
「せっかくおじ様がここにきて、誰もいなかったら寂しいじゃないっすか」
微笑むルクルを見て胸が苦しくなり、昨日から考えていた言葉が口をついて出てしまった。
「もし、あてがないなら私の息子と婚約する気はないか?ちょっと口うるさいが歳も近いし気立はいいぞ。それに優秀だし、顔も良い。無論好みによるかもしれないが。きっと君を大切にしてくれるだろう。もし君を粗雑に扱うようなら私がぶん殴ってやれる」
一息に捲し立てていたのをルクルはじっと黙って聞いていたが、
「んー、ありがたいお話ですけど」
と言ってさして興味なさそうに視線を外した。
私は我に返って、一体何を言っているのかと自分で思う。お互いの素性に見当はついているとは言え、まだ私たちは正式に自己紹介もしていないのだ。俗世のことをここで話すのは無粋だと自分で思っていたのではなかったか。そんなことを考えていたが、ルクルは私に無邪気な笑顔を向けて、
「おじ様とだったら良いっすよ」
と言ってきた。私は心臓を握りつぶされるような感覚がして、思わず胸に手を当てる。鼓動が恐ろしく速くなっているが、心臓に病はなかったはずだ。
「あまりからかわないでくれ。本気にしてしまうよ」
そう返すのが精一杯だった。二、三度深呼吸をして落ち着きを取り戻す。
「全く、君との婚約を破棄する男がいるなんて理解に苦しむな。もし、君が望むならその男に少しお灸を据えてやっても良い」
自分で言っておいて卑怯だなと思った。本当は私自身が、甥のセドリックに腹を立てているだけで、その鬱憤晴らしのために、ルクルを口実に使おうとしていることは自分でもわかっていた。
「あはは、いいっすねそれ。じゃちょっとだけ」
ルクルは可笑しそうに笑って言った。
*
私は先触れも出さずに、侯爵家を訪れた。私の突然の訪問を受けて、屋敷の中は混迷を極めた慌てっぷりだった。まあそうだろう。先王がいきなり尋ねてきたとなればどこでもそうなる。
ようやく案内された部屋で椅子に腰を下ろして、片膝をついているセドリックに声をかける。
「よい。今日は公式の訪問ではない」
セドリックは立ち上がるが、明らかに緊張して震えている様子が見て取れる。そのような情けない姿を見ただけでも私は苛つきを覚えた。
「婚約を破棄したそうだな」
セドリックの顔がさっと青ざめる。
「お、お言葉ですが、あれはあの女の不貞が原因でございます」
「調べはついている。それは冤罪だ」
「ですが、夜な夜な出歩いておりまして」
「知っている。本人も星を見るためだと言っていただろう」
「そんな馬鹿げた言い訳が…」
「黙れ」
私は声を一段階低くして凄んだ。
「お前がそうやって一方的に決めつけ、糾弾したことによって彼女は傷つけられた。恥知らずにも程がある」
セドリックは顔をしかめて黙っている。
「本来はお前が責任を取って然るべきだが、両家で話がついているというのならまあ良い。ただし、お前は彼女にしっかりと謝罪するんだ」
「あんな女一人のごときのためになぜ僕が…」
「黙れと言っただろう!」
私は机を拳で叩いた。セドリックの体がビクッと震える。プライドばかりが肥大して度胸もない癖に、女を下に見ている態度には虫唾が走る。
「あの女が…あの女が、叔父上に告げ口したということですか!」
「そんなことはどうでも良い。お前の日頃の行いが招いたことだ」
これ以上話していると、本当に殴りかかってしまいそうだった。その前に席を立つことにした。
「自分を顧みて反省しろ。さもなければ侯爵家は取り潰しになると思え」
セドリックは俯いて体を震わせていた。
私はその様子を一瞥すると、帰りの案内をしようとする使用人を適当にあしらい外に出た。
私はセドリックの様子をみて、心底呆れていた。今時の若者は、と思いかけてルクルの顔が浮かび首を横に振る。彼女のおかげで若者にもさまざまな人がいるのは理解したつもりだ。一括りにしてしまうのはこんな理不尽な目にあっても笑顔を絶やさずにいる彼女に対してあまりに失礼だ。
セドリックを怒鳴りつけ、少し溜飲が下がったことに満足していた。
「本日の昼食はどうなされますか」
自室に戻ると、側近が話しかけてきた。
「そうだな。今日は久しぶりに昼餐を取ることにしよう」
「かしこまりました。体調は大丈夫なのですか?」
「ああ、最近は調子が良いんだ」
ミントの葉を齧りながら答える。ルクルにミントを貰って食べた後、胃の調子が良くなった気がして、それ以降、ミントの葉を時折食べている。そのおかげか、食欲がずいぶんと増して来ていた。
それだけが原因ではないのは自分でもわかっている。ルクルと話をするのがどうしようもなく楽しいのだ。体に溜め込んだ心労が抜けていく感じがして、気持ちが前向きになり、多少の疲れなど気にもしなくなっている。我ながら単純なことだと思う。
だが、夜になり丘に行ったが、ルクルはいなかった。珍しい、というか初めてのことだった。まあ別に不思議なことではない。約束しているわけでもなし、ただの気分で来ていただけのことだ。気分が乗らない時だってあるだろう。
そう思ったが、なんとなく違和感を感じてもいた。『せっかくおじ様がここに来ても誰もいなかったら寂しいじゃないっすか』ルクルはそう言っていた。私が来るのを朝まで待っているような子が、何も残さず居なくなるということがあるだろうか。
目を閉じて意識を集中する。軍務が長かったからこそわかる違和感、馬の匂いだ。微かにだが馬がいた気配がある。それによく見ると、足元の芝生は踏み荒らされたようになっており、蹄鉄の跡もある。ルクルはここに馬で来たことなどない。だが、私やルクル以外こんな何もないところに一体誰が来るというのか。考えても答えは一つしか見つからない。
「あの小僧か……!」
私は目の前が真っ赤になった。ルクルはおそらく今日もここに来ていた。ここに来て連れ去られたのだ。誰に?決まっている。セドリックだ。私が忠告したにも関わらず、ルクルに謝罪をするどころか、報復することを選んだのだ。
私は怒りに任せて走り出した。自室に戻り長年の相棒であった斧槍を手に取る。側近が何か叫びながら声をかけて来ていた気がするが、何も聞こえない。
本日二度目の侯爵家に着くと、呼び鈴も鳴らさずに扉にハルバードを叩きつけた。轟音がして半壊する。扉がではなく、壁ごと半壊したのだ。戦時中は木造の壁や砦などいくつも破壊してきたのだ。こんな扉ごとき造作もない。
突然の襲撃に屋敷内の人間はパニックを起こして蜘蛛の子を散らすように逃げていく。私は破壊した壁から中に入り、怒りに任せてハルバードを振り回した。階段が崩れ落ち、調度品が砕け、竜柱に亀裂が走る。この柱が破損した以上、もうこの屋敷は自重を支えきれなくなり、遠からず倒壊する。
「セドリックはどこだ!」
屋敷中に響かせるように咆哮を上げる。出て来ないので、逃げ遅れた使用人の一人を捕まえて吐かせる。泣きながら離れの方にいると白状したので、中から窓枠ごと破壊して外に出た。
離れの扉を蹴破って中に入ると、鎖に繋がれたルクルが目に入った。服が裂け、鞭で打たれたような傷跡が体中についている。そしてその前で鞭を持ったセドリックが驚いたようにこちらを振り返っている。
何が起こったかを一瞬で理解し、私は我を忘れてセドリックに殴りかかった。蛙が鳴いたような間抜けな音がして壁の方に吹き飛んでいった。
私は壁際まで駆けていき、ルクルが繋がれている鎖を、全力で斬り付ける。火花が散り、鎖の繋ぎ目が歪んで外れた。それを確認した後、私は槍の穂先をセドリックに向けた。
ヒィッと情けない声を上げ後ずさるが、とっくに壁際にいるので、もう逃げ場はない。
戦場の懐かしさのようなものを覚えながらハルバードを振りかぶったが、その時後ろから抱き止められた。
「おじ様。私は大丈夫っすから」
その貴族らしからぬ声を聞いて、私は急に戦場から引き戻されたように冷静になった。振り返るとそこにはいつものように、まるで少年みたいな笑顔を向けてくるルクルの顔があった。それを見た途端急に体中から力が抜けた。持っていたハルバードを取り落とし、その場に座り込んでルクルを力一杯抱きしめ返した。彼女の体温が伝わって来ると、なぜか涙が溢れてきた。
*
「ついカッとなってやってしまった。後悔はしていない」
「何を今時の若者のようなことを言っているのですか」
ルクルを丁寧に抱えて、城の医務室に連れて行き、宮廷医に念入りに手当するよう言い付けて自室に戻ると、すごい形相をした側近が慌てて飛び込んで来た。
ことの顛末を説明すると口を半開きにしたまま絶句し、呆れていた。だが、後悔していないのは本当だ。確かに他にやりようはあったと思うが、時間をかければそれだけルクルが鞭を打たれる回数が増えていたのだ。だから仕方がなかった、と自分に言い聞かせる。
「侯爵家は物理的に取り潰したのですね」
「ああ。あんな家無い方が良い。妹も連れ出して来てくれ。すまないが後のことは頼む。根回しや裏工作はお前の得意分野だろう。私はそういうことは苦手だ」
「根回しって言葉知っていますか?事が起きる前にやることなんですよ。さすがにこれをどうにかするのは大変なのですが、まあ私も侯爵家嫌いでしたのでなんとかします。でも良いのですか?あれだけ、貴族たるもの婚姻の遵守は義務だと言っていたのに」
「離婚だろうと婚約破棄だろうとしたければすれば良いんだ。婚姻を軽んじていいわけではない。だが、制度を守ること自体が目的になって、そこにいる人間を不幸にするなら本末転倒だ」
少なくとも私は彼女にそう教わった。大事なことは離婚にしろ婚約破棄にしろ、それによって相手を傷つけないかどうかということなんだと思う。
側近は唖然としていたが、ひとしきり大笑いしたあと涙を拭って、私に言った。
「あの頑固だった父上の言葉とは思えませんね。安心しました。後のことは私にお任せください。綺麗に後始末して見せましょう」
「ああ、私の息子たちは私なんかよりはるかに優秀だ。よろしく頼む」
* * *
私の息子は本当に優秀だ。どうやったかは知らないが、妹を取り返した上、セドリック含む侯爵家の一切を黙らせた。屋敷も数日後には倒壊し、瓦礫の山になっているらしい。今は侯爵家の人間は集合住宅を借りて住んでいるらしいが、もう二度と近づいて来ることは無いと思いますよ、と息子が言っていたので、何か心が折れるほどの圧力をかけたのだと思う。まあそれが何か私が考える必要はない。いい気味だ。
ルクルは幸い傷跡も残らずすぐ回復した。私がセドリックを煽ったせいでこんなことになったのだ。ルクルに何度も謝罪をしたが、
「おじ様のパンチ、ちょっと気分良かったっす」
と言って、シュッシュッと拳を繰り出す真似事をしていたので、彼女なりに気を遣わせないようにしてくれているのだと思うことにした。
その後、私はルクルの希望でまたあの丘に墓参りに来ていた。昼に来たのは初めてだった。
二人で妻の墓に手を合わせたあと、私は言った。
「私は、小さな領地を貰いそこに隠居しようと思う。場所ももう決まっている。そこは、とても星が綺麗なところなんだ」
ルクルはニヤッと笑って言った。
「それはとても魅力的っすねぇ。当然私も連れて行ってくれるんすよね?」
「君が一緒に行きたいと思っていてくれるならな」
人生で二度目のプロポーズだった。当然一度目の相手は亡き妻だ。経験があるはずなのに心に余裕など全くない。ずっと心のどこかは緊張しっぱなしだ。
そんな私をルクルは見つめて微笑み、まるで貴族の淑女のようにカーテシーをした。
「私、婚約破棄されて幸せでした。改めて自己紹介させていただきます。ルクル・フォン・スターリングと申します。どうぞ末永くよろしくお願い致します」
所作は完璧で流れるように美しい。私はぽかんとその様子を見ていたが、真っ先に出てきた感想が、
「君はちゃんと喋ることもできたんだな」
というものだった。
「失礼っすね!これでも普段はちゃんとしてますよ。おじ様の前だけです」
頬を膨らませて怒る彼女を見て、私は苦笑していた。
「なぜ墓参りをしたいと言ったんだ?」
「やっぱりスジを通さなきゃいけないかなって」
「スジ?」
「先輩への挨拶と、感謝と、ライバル宣言っす」
「なんだそれは」
ビシッと空に向かって指を指しているが、何を言っているかよくわからない。やはり今時の若者を理解するのはまだまだ難しいようだ。
私はルクルに向き直った。あの時の宿題の答え、今なら自信を持って言える。
「残りの人生を賭けて、君を幸せにすると誓う。これが私のやりたいことだ」
「お菓子、忘れないようにしてくださいね」
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