冬のシーグラス
朝の海は、思ったより冷たかった。
灰色の空。
鈍い波の音。
潮風が、防波堤の向こうから絶え間なく吹き付けて来る。
悠人は軍手をはめた手を擦り合わせ、小さく息を吐いた。
『潮風ワーク』
初めての参加日だった。
海岸清掃。
朝九時集合。
“無理のない範囲で大丈夫です”
そう書かれていたが、悠人は昨夜ほとんど眠れなかった。
ちゃんと出来るのか。
知らない人間の中へ入れるのか。
また途中で動けなくなるんじゃないか。
そんな考えばかりが、夜中ずっと頭の中を回っていた。
海岸には、既に何人か利用者達が集まっていた。
年齢は様々だった。
年配の男。
若い女性。
イヤホンをしたまま俯いている青年。
皆、どこか静かだった。
騒ぐ人間がいない。
それだけで、少しだけ救われる。
「木崎さん?」
振り向くと、スタッフの女性が立っていた。
三十代くらい。
ニット帽を被っている。
「初参加ですよね。」
その女性は小さく笑った。
柔らかい声だった。
「冬は漂着物が多いんです。無理しなくて大丈夫ですから。」
悠人は曖昧に会釈をする。
スタッフは火ばさみとゴミ袋を渡した。
「今日は、この辺りお願いしてもいいですか?」
指差した先には、冬の砂浜が広がっている。
流木。
潰れたペットボトル。
錆びた空き缶。
壊れた浮き。
コンビニの袋。
波打ち際には、細かなプラスチック片が散らばっていた。
悠人は小さく頷き、海岸へ降りる。
靴の下で砂利が鳴った。
冷たい風が頬を刺す。
しばらく無言でゴミを拾う。
拾っても、拾っても、またゴミが見つかる。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
頭の中が少し静かになる。
波の音だけが聞こえる。
遠くでカモメが鳴いていた。
悠人はしゃがみ込み、砂へ半分埋まったガラス片を拾う。
透き通った緑色のシーグラス。
海に削られて、角が丸くなっている。
思わず、悠人はそれをポケットに入れた。
その時だった。
背後から、笑い声が聞こえた。
「何あれ」
若い男の声。
振り向くと、防波堤の上に数人の若者達が立っていた。
派手な髪。
煙草。
コンビニ袋。
地元の不良グループだった。
一人が海岸を見下ろしながら笑う。
「朝からゴミ拾いとか偉すぎん?」
別の男が続ける。
「暇人?」
笑い声。
悠人は視線を逸らし、再びゴミへ手を伸ばした。
聞こえないふりをする。
慣れている。
こういう笑い方。
昔から何度も向けられて来た。
その時。
一人の男が、何気ない口調で言った。
「あれやろ? 税金で食っとるヤツらやろ?」
すかさず、もう一人の男が言った。
「働かんでも生きてけるとか、ええよなぁ」
その瞬間だった。
悠人の指先が止まる。
胸の奥で、何かが小さく軋んだ。
風が強く吹く。
波の音が急に遠くなる。
頭の奥が、ざわつき始める。
視界の端が少し白く滲む。
悠人は俯いたまま、握った火ばさみへ力を込めた。
“ちゃんと出来ない人間”
昔、誰かに言われた言葉が、不意に蘇る。
防波堤の上では、まだ笑い声が続いていた。
けれど悠人には、その声が少しずつ遠く聞こえなくなっていた。
作業が終わる頃には、空は薄暗くなり始めていた。
冬の海は、夕方になると急に色を失う。
灰色の空。
鉛みたいな海。
冷たい風。
スタッフ達がゴミ袋をまとめている横で、悠人は一人、少し離れた波打ち際を歩いていた。
靴の下で、小石が乾いた音を立てる。
防波堤の向こうでは、もうあの若者達の姿はなかった。
けれど、昼間の言葉だけは、まだ胸の奥に残っていた。
――税金で食っとるヤツ。
悠人は俯きながら歩く。
波が寄せては返す。
ふと、悠人は、ポケットからシーグラスを取り出した。
淡い緑色。
少し青みが混じった、透き通る色。
悠人はそれを見つめる。
それは、どこかで見た色だった。
しばらく考えて、ふと思い出す。
古い喫茶店。
窓際の席。
冬の夕方。
向かい側には、澪が座っていた。
テーブルの上には、二つのクリームソーダ。
緑色の炭酸。
溶けかけたバニラアイス。
赤いサクランボ。
あの時、店の中には古いフォークソングが流れていた。
けれど二人は、ほとんど喋らなかった。
何を話せばいいのか分からなかった。
沈黙だけが、ゆっくり時間みたいに流れていく。
アイスクリームが少しずつ溶けて、緑色のソーダへ白く混ざっていくのを、悠人はぼんやり眺めていた。
澪はストローを指で弄びながら、小さく笑っていた。
――クリームソーダって、なんか寂しいね。
不意に彼女がそう言った。
悠人は、その意味を聞けなかった。
ただ、溶けていくアイスを見ていた。
もう随分、思い出していなかった記憶だった。
悠人は小さく息を吐く。
冷たい風の中で、そのシーグラスだけが、不思議と少し温かそうに見えた。
波が静かに足元へ寄せて来る。
悠人はそのシーグラスをポケットへ入れた。
まるで、小さな秘密を隠すみたいに。
悠人は小さく息を吐く。
冷たい風の中で、そのシーグラスだけが、不思議と少し温かそうに見えた。
「……綺麗だな」
誰に言うでもなく呟く。
波が静かに足元へ寄せて来る。
悠人はそのシーグラスをポケットへ入れた。
まるで、小さな秘密を隠すみたいに。
スタッフ達がゴミ袋をまとめている横で、悠人は火ばさみを返していた。
ニット帽の女性スタッフが、小さく笑う。
「初日、お疲れ様でした」
悠人は軽く会釈をする。
「……ありがとうございました」
波の音が静かに響く。
「どうでした?」
その問いに、悠人は少し考える。
冷たい風。
ゴミ袋。
昼間の笑い声。
それから、波の音。
悠人は俯きながら、小さく答えた。
「……疲れました」
女性スタッフは何も言わず、続きを待った。
悠人は少し迷ってから、ぽつりと続ける。
「でも……少し、落ち着きました」
その言葉に、女性スタッフは静かに頷いた。
「海って、不思議と心が落ち着きますよね」
夕方の波が、ゆっくり砂浜へ寄せていた。
夕方には、小さな雨が降っていた。
アパートの外階段は濡れていて、悠人はゆっくり足元を見ながら二階へ上がる。
ポケットの中には、海岸で拾ったシーグラスが入っていた。
部屋のドアを開ける。
薄暗いワンルーム。
冷たい空気。
静かな部屋。
その奥で、ケージの中の白いウサギが小さく耳を動かした。
「ただいま、ユキ」
悠人は靴を脱ぎ、コンビニ袋を床へ置く。
ユキは鼻をひくひく動かしながら、ケージの奥からゆっくり近付いて来た。
悠人は少しだけ笑う。
「今日さ……海行って来た」
上着を脱ぎながら、小さく呟く。
「清掃活動」
ユキは何も答えない。
当たり前だった。
けれど悠人は、その沈黙に救われていた。
責めない。
否定しない。
無理に励まさない。
ただ、そこにいる。
悠人は床へ座り込み、ケージ越しにユキを見つめた。
「……変だよな」
苦笑いみたいな息が漏れる。
「ゴミ拾ってると、ちょっとだけ頭静かになるんだ」
ユキが牧草を齧る。
しゃく、しゃく、と小さな音。
雨音だけが窓の外で続いていた。
悠人はポケットからシーグラスを取り出す。
淡い緑色。
クリームソーダの色。
海に削られて丸くなったガラス片。
それを指先で転がしながら、ぽつりと呟く。
「でもさ……」
悠人の視線が落ちる。
昼間の笑い声が、また頭の奥で蘇る。
――税金で食っとるヤツ。
悠人は小さく奥歯を噛んだ。
「……別に、間違ってないんだよな」
声が掠れる。
「俺、今、何も出来てないし」
ユキはケージの隅へ移動し、また静かに牧草を食べ始める。
悠人はその姿をぼんやり見つめた。
「でも……」
言葉が途中で止まる。
窓ガラスに雨粒が流れていく。
悠人はゆっくり息を吐いた。
「……今日、少しだけ楽しかったんだ」
その言葉を口にした瞬間、自分でも少し驚いたように目を伏せる。
楽しい。
そんな感情を口にしたのは、いつ以来だったのか分からなかった。
けれど。
次の瞬間。
――働かんでも生きてけるとか、ええよなぁ。
防波堤の上の笑い声。
――こいつら、暇人?
頭の奥で、不意に蘇る。
悠人の呼吸が少し止まる。
指先から、ゆっくり力が抜けていく。
手の中のシーグラスが、小さく音を立てた。
「……でも」
掠れた声。
「楽しいとか……思っちゃ駄目な気がする」
部屋の中は静かだった。
雨音だけが、遠くで続いている。
「俺みたいなのが、普通に笑ったら駄目なんじゃないかって……たまに思う」
ユキは相変わらず何も言わない。
ただ、赤い目で静かに悠人を見つめていた。
悠人はその視線から逃げるみたいに、ゆっくり膝を抱える。
「……変だよな」
小さな笑い。
けれど、それはほとんど泣き声に近かった。
窓の外では、冬の雨が静かに降り続いていた。
ユキが眠った後も、悠人はしばらく床へ座ったままだった。
窓の外では、まだ雨が降っていた。
悠人はぼんやりスマートフォンを手に取る。
無意識だった。
指が、いつものように澪のSNSを開く。
窓際で外を見ているモカの写真。
舌を出している白い犬の写真。
テーブルの上で丸まっている猫の写真。
海の写真。
食べかけのドーナツ。
意味のない短い言葉。
澪の投稿は、いつも少しだけ寂しかった。
けれど今日は、新しい投稿がなかった。
悠人は画面を見つめる。
最後の更新は、三日前。
『冬って、海の匂いが濃い』
それだけ書かれていた。
悠人は親指で画面を少しスクロールする。
更新はない。
既読も付かない。
メッセージ欄には、数日前に送った短い言葉が残っていた。
――寒いから風邪ひくなよ。
返信は、まだ来ていなかった。
悠人はしばらく画面を見つめたまま、小さく息を吐く。
「……寝てるだけか」
誰に言うでもなく呟く。
けれど胸の奥には、説明のつかない小さなざわつきが残っていた。
窓の外では、冬の雨が静かに降り続いていた。




