第2話
「書類だと? なんのことだ?」
呆れた。
少し粗暴で、細かいことをあまり知らない男だとは思っていたが、まさか、自分で言いだした『婚約解消』についてのシステムを、わかっていないとは。
「はぁ……」
自然と、小さなため息が漏れる。
そんな私の態度が癇に障ったのか、ブライアンはムッとした様子で、口を尖らせた。
「おい、そうやって、こっちを見てため息をつくのをやめろ。馬鹿にされているみたいで、不愉快だ。もうお前との付き合いもこれで終わりだからハッキリ言うが、俺は、お前のそういうところが、ずっと嫌いだったんだ」
「そうですか。私は別に、あなたのこと、嫌いじゃありませんでしたよ。好きでもありませんでしたけど」
最後なのは私も同じなので、正直な気持ちを、淡々と述べただけだったが、その落ち着き払った様子が、ブライアンのいら立ちに、余計に火を注いでしまったらしい。彼はテーブルをどんと叩いて、叫んだ。
「なんだ、その人を舐めた態度は!」
あら困ったわ。本気で怒らせてしまったのかしら。そうそう、この人、女に手をあげたりはしないけど、短気だし、こうやって物を叩くことがあるのよね。
私としては、別にこれ以上怒らせる気はないし、必死に頭を下げて、許してもらおうとも思わない。だって、ブライアンのことなんて、好きでも嫌いでもないし、婚約者でもなくなる以上、両家の関係もなくなる――つまり、どうでもいい人になるのだから。
しかし、婚約解消の手続きが進まないのは困る。
そしてそれは、ブライアンにとっても同じだろう。
私は彼を刺激しないように、なるべく穏やかな言葉で説得した。
「喧嘩はよしましょう。どうせ、これから他人になるのですから。私たちはもう、お互いにとって、喧嘩する価値もない存在です。さあ、粛々と婚約破棄の手続きを済ませてしまいましょう」
「……ふん、『喧嘩する価値もない存在』か。確かに、その通りだな。いけ好かない嫌な女と言い争いをしても、楽しくもなんともない、とっとと縁を切るとしよう」
『いけ好かない嫌な女』とはまあ、なんとも刺々しい言い方をするものだ。好きでも嫌いでもなかった彼への気持ちが、また少し、『嫌い』へと傾くのを私は感じた。
そして私たちは、粛々と、事務的に、婚約解消の手続きを進めた。
婚約解消の理由については、先程述べた通り、ブライアンの浮気にあるということになった(なったも何も、事実、その通りなわけだが)。……これで、一安心だ。ブライアンはよくわかっていないようだが、公的な婚約を解消する場合、どちらに非があるかは、大変重要な問題になるのである。
その日のうちに、役所に婚約解消依願書類を提出し、私とブライアンは、晴れて無関係の女と男に戻った。そして私たちは、互いに別れの挨拶もせず、別々の道を通って、帰路についたのだった。
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それから、一年がたった。
私の家と並び立つほどの名門であったブライアンの家は、急速に落ちぶれ、今では、貴族としての身分を取り消される寸前である。
その理由は、私との婚約破棄にあった。
貴族同士の公的な婚約は、単なる口約束ではない。信義を重んじる貴族社会において、正当な理由もなく、一方的に婚約を破棄する行為は、とてつもない代償を払うことになる。……それは、社会的信頼の喪失である。
具体的に言うと、浮気の末、一方的な主張で私との婚約を破棄したブライアンは、他の貴族たちからつまはじきにされるようになった。ブライアンの一族も、彼同様、非常に冷たい扱いを受けている。
皆、こう思っているのだ。
『両家の政治的思惑で結んだ大事な婚約を平然と破る者と、まともな付き合いができるはずがない』と――
哀れなことに、ブライアンの家が没落すると、彼があんなに愛していた『好きな人』とやらも、スゥっと離れて行ってしまったらしい。二人の間には『本当の愛』など存在しなかったようだ。
私もブライアンと別れてから、様々な男性とお付き合いを重ねたが、『本当の愛』と呼べるほど、恋い焦がれることのできる人とは、まだ出会えていない。
私に『本当の愛』について考えるきっかけをくれたメイド長と酒屋の青年も、今ではもう、別れている。……恋とは、愛とは、なんと儚いものなのだろう。
私は自室の窓から、沈みゆく夕日を見つめ、誰に言うでもなく、一人、呟いた。
「『本当の愛』なんて、本当に、あるのかしら……?」
夕日は、何も答えてはくれなかった。
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そんなある日のこと。
突然、来客があった。
なんと、あのブライアンだ。
婚約を破棄した日以来、一度も会っていないので、こうして顔を合わせるのは本当に久しぶりのことだ。……以前は、しっかりとした体格をしていたのに、今はすっかりやせ細り、顔など、頬がこけてしまっている。
ブライアンは、挨拶もそこそこに、私の前で土下座をした。
誇り高い貴族の青年が、地面に頭を擦り付けるというのは、考えようによっては、自殺するよりも苦しいことだ。私は「顔を上げて」と言うが、ブライアンは土下座の姿勢のまま、悲痛な訴えを始める。
「す、すまなかった、ローラリア。俺は、俺は、まさかこんなことになるだなんて、思ってもいなかったんだ。もう、誰も、俺の家を信用する貴族はいない。このままでは、俺の家は破滅だ。今さら図々しいとは思うが、頼む、助けてくれ……」




