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ノンフィクションのプラトニックラブ

第二巻は、中学から高校にかけてのことになります。

青春時代真っ只中。

第二巻

恋・中学から高校時代

時は流れ、中学校へ。私たちの頃は中学受験もなく、エスカレーターで、進学。通学も徒歩か自転車か、二択ではありましたが、中学は一山越えた地点。

よって自転車オンリー。雨の日も、風の日も、元気よく通っていました。

何せ、田舎の中学なので、見渡せるのは学内のみ。

 中学では、クラブ活動が盛んで、みんな何等のクラブ活動を行っていました。

私も、中学に入学し、直ぐに入部したのが卓球部でした。

あまり球技は得意ではなかったのですが、田舎の事なので、近所の幼なじみの『川本結城』君と一緒に始めました。

時代が時代だったので、運動部といえば、『超スパルタ』と言えば聞こえがよいが、要するに虐めみたいなもの、好きな相手には優しいが一度嫌われると先輩や、同級生からの教育が毎日あるわけです。

昔だから多少許されたのかもしれません。みんなこれを乗り越えて強くなっていった。みたいな・・・。

その後、半年くらい経った時でした。

同じ運動部のテニス部からお誘いを受けました。

何やらテニス部顧問の先生からのお誘いだったようでした。

ということで、テニス部に入部したのですが、私、あまり球技は得意ではないはずなのにと思い、家に戻りクラブ活動の話をしていると、姉が、

「多分、私がテニス上手だから誘われたと思うよ」

と、言われ、「なるほど」と納得。

それから当分の間、テニスをしていたのですが、中学二年の時、次は同級生から、陸上部へのお誘いがあり、陸上を始めました。

が、しかし、私、実は小学三年生のころまで、走るのも遅かったんです。

いわゆる

「運動音痴?」

と言われておりました。

それに比べ、姉は年少のころから運動も得意でした。

そのころの担任先生には、

「大器晩成型だね」

と、言われていました。

その後、小学四年の時だったのですが、何に目覚めたのか、長距離のかけっこをしていた時の事でしたが、運動場を何周かするわけですから、あまり早くから全速力で走るとラストまで走り切れないことに気付き、ラスト一周まで力をためといて、ラストスパートをかけてごぼう抜きにするという戦術を立てました。

何故かこれがおうはまり。

クラスのみんなから見直されるし、先生にも褒めてもらえるし。

爽快感を覚えました。

「これが、ほめて伸ばす」

と、言うことなのでしょう。

専攻していたのは、短距離でした。

短距離と言っても、百メートルから、二百メートル、四百メートルまで走っていました。

学内ではマラソン大会もあり、五千メールも走っていました。

短距離走では、田舎だったもので、学内では常に一番でした。

なので、選考会には常連で出場していたのですが、やはり『井の中の蛙大海を知らず』でいつも予選は通過するのですが、決勝で敗れるのが常でした。

また、この時のクラブ活動が凄かった。

夏になると、暑いのが当たり前。

日中は暑くてたまらないので学校のプールへ一直線。

水泳と言うよりは、ただ水につかっていたかったような?でも、たまには短水路を数回づつ泳いでは上がって小休止。

また、短水路を数回繰りかえすというインターバルトレーニングをしていました。

そして、夕方になり少し涼しくなったところで、陸練に変更。

日が沈んで暗くなるまで練習していました。

今考えるとこの中学時代が一番体力があったような気がします。

『運動バカ』・『体力バカ』・・・。

しかし、今思えばこの陸上、親譲りだったのでしょうか?姉も運動が得意でしたし、走るのも早かったです。

父は、最たるもので、走るのも早かったのですが、走り高跳も得意だったらしく、国体の常連だったようです。

また、運動の殆どに長けていたようで、剣道三段、柔道二段と、黒帯でした。

そんな父は、私の貧弱な体つきを、外見からして弱々しいと思っていたのでしょう。

私に、毎日の課題を与えました。

腹筋三十回、腕立て三十回。

私は、最初は面白くもなく思って続けていましたが、その内基礎体力がついてきたのか、軽々とこなせるようになり、段々と楽しく思えてきました。

そんな日々でしたが、ある日父は、当時はやっていたかどうかは記憶にないのですが、エキスパンダーを買って帰ってきました。

「これを毎日していると、筋肉も付くし、体力も付いてくるから」

と言われ、日々トレーニングしていました。

また、父は腕相撲も強くて、私にもよく教えてくれていました。

「コツがあるんだ」

「手を組むときはしっかりと握り、はいの合図で手首を内側に曲げて一気に自分の方へ巻き込むんだ」

その言葉通りに実践していると、いつの間にかクラスで一番になっていました。

もちろん私より体格の良いクラスメイトもいましたが、負け知らずでした。

そうこうしている間に鍛えられたのか、お腹もシックスパットになっており、いわゆる『細マッチョ』になっていました。

父の好きな言葉は

『根性』

実家の私の部屋の額縁に書いてあります。

気持ちが大事ということなのでしょう。

『誰にも絶対負けない』

と言う、信念を持っていました。

対する母はと言えば、全くの運動音痴で、走るのも遅いし、水泳も金槌・・・。

もしかしたら、私の息子は母の隔世遺伝の影響かもしれません。

両親のお話はこの辺で置いといて、私の『恋バナ』に戻ります。中学に入ってからは、同級生や、下級生、はたまた上級生のお姉さん方にもモテていたような気がします。

気になる女の子がいるとすぐに行動を起こしていました。

すぐに話しかけて友達になり、お誕生日会に出かけたり、皆様をご招待してパーティーをしたり。

今から考えると「この子に決めた」というよりは、女子友とお話していました。

と、いうことで、バレンタインデーでもチョコを毎年二・三個もらっていました。

よく、姉から、

「あんたあ、ええかげんにしんさいよ」

「あっちもこっちも手を出して」

と言われていました。

そんな中、ファーストキスは、中学三年の時でした。

彼女は中学二年、家に遊びに行ったときのことで、彼女は二人姉妹。

ご両親はご不在でしたので、三人でお茶しながらお話をしていました。

そろそろお話も尽きたなと思っていたころ、妹の『川田清美』さんから、

「部屋でゲームしませんか」

と誘われ、言われるがままに部屋に上がり込み、ゲームをしていました。

この時代、ゲームと言えば『トランプゲーム』流行っていたのは『恋占い』

トランプゲームも一息ついたところ、なんだかいい雰囲気になり、『ファーストキス』

実は私、バレンタインデーでチョコレートをもらっていたのはお姉さんの「恵子」さんで、同級生。

つまり私は、二股。

恋のトライアングル。

で、結局恵子さんを傷つけたことになってしまいました。後から罪悪感。

実は私、このファーストキスの前にもお付き合いしていた方がおられて、その方のお名前は『前田泰恵』さん。

よく中学校の裏庭で会っていました。

決してキスの練習と言う訳ではなく、ふざけてほっぺにキスをしたりしていました。

『川田清美』さんは、二歳下。『前田泰恵』さんは、一歳下でしたので、同学年同クラスという訳ではありませんでした。

また、中学時代と言えばその当時、片田舎だったもので、ほんとに何もないところ。

実に今でもコンビニもなく、信号機ですら一つ押しボタン信号があるだけの所。

当時走っていた路線バスも今では見かけなくなくなりました。

ここは、『陸の孤島か』と思うくらいです。そんな中学時代も時間のたつのも早いもの

ですぐに高校受験。私の好きな工業系の高校

『某工業高校機械課』へ進みました。

好きな道と言えば聞こえが良いのですが。当時、私の成績と言えば、毎日毎日遊んで

ばかりいたのが効いたのか、中の上と言われる、まあまあの成績でした。

なので市内で進学校と言えば『某高校普通科』と決まっていたのですが、私の立ち位置では「受かるかな、落ちるかな」というスレスレのとこであったため、『某工業高校機械課』へ進みました。

もう一つの理由は、滑り止めと言われていた私学は合格しておりましたが、費用が掛かるのと、世間体を気にしての体裁づくりもあったのでした。

また、この頃の趣味がありまして、何と言っても

『ブース・リー』

『燃えよドラゴン』

私も大変惹かれておりまして、師匠と呼んでおりました。

『カンフー』

『中国拳法』

大流行でした。

体を鍛えるのはもちろんの事。

型も勉強しておりました。武術の習得のため、

『ヌンチャク』

『トンファー』

等々、自作して使いこなしておりました。

部屋にはもちろん師匠のポスターを貼っており、当時は私も和製ブルース・リーと言われるほどよく似ていたようでした。私の従弟もポスターを見ては、

「あ、お兄ちゃんだ」

と、よく言っていました。

当時、はまっていたのは、中国拳法のみならず、『極真空手』も習っていました。

極真空手と言えば、

『大山倍達』先生です。

型よりは、実践でしたね。

 そして、空手道場にも通っていましたし、空手同好会へも入部していました。

鍛え方も、普通の腕立て伏せではなく、指を立てて行う、『指立て伏せ』それから進化していって、親指一本で行う、『親指指立て』までしていました。

腹筋をするにも、両足を鉄棒から吊るし、上体を九十度まで持ち上げる訓練もしていました。

きっと、格闘家を目指していたのでしょう。

この時掴んだ事がありました。

それは『無』の境地。座禅をするときに、教わる『禅の心』と言われるものです。

それとは別にもう一つはまっていたことがありまして、

『フォークギター』です。

当時は、『かぐや姫』『井上陽水』『さだまさし』『長渕剛』『イルカ』『泉谷しげる』『松山千春』等々大ヒットしていました。

深夜勉強と言えば、ラジオを聴きながら勉強していました。

『オールナイトニッポン』『セイヤング』今になってみれば懐かしい限りです。

『フォークソング』と言えばやはり当時みんなはまっていたのが、『フォークギター』

もちろん私も弾いていました。

楽譜を読んだり、コードを覚えて引き語りなんかもしていましたし、『シンガーソングライター』を夢見たこともありました。

私が持っていたギターは当時はやっていたもので、『モーリス』でした。

謳い文句は、

「モーリス持てばスパースターも夢じゃない」

んー多分、泉谷さんが言っていたと記憶しています。

話は高校生活にもどりますが、私の通っていた『某工業高等学校』では、クラブ活動も盛んでした。

私は、中学時代の継続で陸上部に所属しておりました。

しかし、どちらと言うと、さぼり気味でほとんど帰宅部みたいなものでした。

まあ、大会があると、顧問の先生が短距離にエントリーしていたので予選出場は常連でした。

先生の意向もあったのか、百メール・二百メートル・四百メートル・一六リレーに出場しておりました。

ある大会予選の事でしたが、進学した高校は違ったのですが、私が初めてラブレターを書いて渡そうした、『大森和子』さんも参加しておられました。

思わず声をかけ見たけど、何気ないお話だけしていました。

後から聞いたお話でしたが、彼女は、同じ高校の同級生とお付き合いをされていたそうでした。

そのお話を聞いたときは少しだけ嫉妬感を覚えました。

やはり、誰でもあるのかもしれませんが、独占欲・支配欲があるものだと、思いました。

そして、今では結婚され、お子さんもおられたのですが、離婚されたとか。・・・

私の高校では、課外クラブと課内クラブが存在してりました。

課外クラブでは前述のとおり『陸上部』でしたが、もう一つの課内クラブでは、『バドミントン部』に所属しておりました。

当校では、『バドミントン部』も強い学校でした。

国体選手もクラスメイトにおりました。

私がいつも相手してもらっていた選手の中にも国体常連の選手がいて、いろいろ教えてもらいながら練習しておりました。

高校生活の中で、私の立ち位置はどちらと言うと中立な立場で、校内では『真面目』でもなく、『不真面目』でもないというところ。

しかし、どちらかと言えば後者の方だったように思われます。

朝、二時間目くらいになるとお腹が空いてきて、『早弁』して、お昼休みには、『売店直行パターン』でした。

私の通っていた高校は、中学時代以上に縦社会で先輩に対する挨拶・尊敬については、それは厳しいものでした。

校内での挨拶・態度・目配りについて、厳しいルールがありました。

先輩に会ったら、間髪入れず、

「オス」

「チワ」

「シャス」

の声掛け挨拶。

もし、怠ろうものならば、即指導。

『指導』の仕方も色々ありますが、今風に言えば『イジメ』『暴力』と受け取れるかも?

先生に言えばとの声もありましたが、当時の先生は、『見て見ぬふり』ん、現代と一緒?そうかも知れませんね。

この状況、校内に限らず、街中でも先輩を見かけたら、先輩が気付こうが、気付かまいが挨拶をしておかないと、後から恥ずかしいから見合わせようと、挨拶をしなかったことがバレたら、また、『即指導』

とにかく厳しい縦社会でした。

クラブ活動もさることながら、趣味の空手やフォークギターも続けていました。

ある日の事でしたが、幼馴染の『川本』君と一緒に空手の回し蹴りを練習していた時でした。

やり方は、杭を打ち付け、人で言えば丁度腹部から頭部に当たる位置に藁縄を二重に巻き付け人型に例えて正拳突き・平拳突き・前蹴り・回し蹴りを打ち込むもの。

数回ずつ続けていた時でした。

右回し蹴りが綺麗にヒットしたと思いきや、『グギ』という鈍い音がしたかと思ったら、右足人差し指に激痛が走りました。

見事に骨折。

その場に蹲りました。

全く動くこともできず幼馴染の『川本』君に頼んで、実家に電話してもらい、父に迎えに来てもらいました。

骨折自体は、小学校の時、鉄棒で蹴上がりをしていた時、鉄棒から落下し、左腕を骨折した時を含め、生涯で二回だけでした。

骨折したのが、丁度日曜日だったので、翌日高校の担任と、体育の授業は出席できないため体育の教官室へ行き、先生へ連絡しました。

後は、整形外科にて処置してもらいました。

この処置の方法がすごい。

レントゲン写真を見てみると、縦方向に『パックリ』と複雑骨折。 麻酔を打ってくれるのかと思っておりましたら、先生は自分の太腿あたりに私の右足を乗せ、左手で私の右足首辺りをしっかりと握り、抑え込んで固定したかと思っていたら、間髪入れずに私の骨折した右足・人差し指を利き手の右手で『グッ』と掴み、後は想像通り思いっきり引っ張り出したのです。

思わず、

「ヴ」

っと声が洩れました。

何の拷問かと思いました。

「痛い」

言葉では表すことが出来ない痛みでした。

それから四十六年ほど経ちますが、これほどの痛みを感じたことは未だかつてありませんでした。

そして、私の右足の人差し指は、変形したままの状態。

これからもこの痛みを超えることはないと思います。

処置が終わり、その次、石膏で固めて「ギブス固定するのかな」と思いきや、何と、親指・人差し指・中指の三本を包帯にて固定。

「このまま様子を見ましょう」

で、終わりでした・・・。

さて、お話は高校時代の『恋バナ』です。

私が進学した工業高校では、一様男女共学だったのですが、私の機械科では、男子のみ二クラス六十数名・隣の計測科で男子三十数名・そのまた隣の建築科で男子三十数名・最後のデザイン科に女子三十数名が在籍していました。

よって、当校の男女の差は、工業高校の統計からも分かるように、殆どが男子生徒。

そして、女子のお相手は同学年か、あるいは、上級生とお付き合いをされておられようでした。

男子としては本当に「狭き門」でしたね。

なので、当校の男子生徒は同校のみならず、他校の生徒ともお付き合いをされておられる方も多かったです。

その頃の私はといえば、どちらかといえば、軟派よりは、硬派でした。

とは言うものの、やはり私も『恋多き乙女』ならず、『恋多き年頃』でしたので、気になる女子や・好意を持っていた女子は数名おられました。

高校時代もまだまだ携帯電話とかなかったので、直接待ち伏せして『胸の内』を打ち分けるか、手紙を書いてその子の下駄箱にそっといれておくか・・・。

と、いったことしかできませんでした。

最初に気になった女子は他校の『山田桃子』さん。

実はこの子、中学の同級生。

生年月日を覚えていて、『二月十五日』

つい数年前までは、成人の日と言われていた日でした。

今では祝日も政府の方から連休になるようにという事から、土日のどちらかへくっつく様に金曜日や月曜日であったりと、毎年変わってしまうようになりましたが、やはり私共は『〇月〇日は〇〇の日よ』と、言った方がしっくりくるような気がします。

高一の冬、その子の誕生日に自宅に電話して

「お誕生日おめでとう」

と伝え、色々お話をしました。

その時はまだ、お付き合いもしていなかったので、次に街で会う約束をしました。

それから何度か街で会ってお茶したり、映画を見たりしました。

その頃彼女はすごくまじめな方で、と、いうのも彼女の家庭は父子家庭で、弟も二人いて、家族の面倒もよく見ていたようでした。

その真面目さもあったのか、私とお付き合いする上で彼女は学校の『生活指導の先生』にも相談していたようでした。

彼女の学校は同じ市内にあったとはいえ、私の学校とは違い、唯一、進学校でもありましたし、私との今後の事がすごくきになっていたようでした。

また、学内では、『原田香澄』さんという同級生がおられまして、その方への想いもあり私は、例によって、手紙を書いて彼女の下駄爆に入れました。

内容は、

「お話したいことがあるので、お昼休みに校内の中廊下に来てほしい」

との内容だったと思います。

その時、彼女は、クラスメイトと二人で現れていましたが、私はそんなことは気にせず彼女にお友達になってほしいとの旨を伝えました。

彼女の答えは、

「以前お付き合いしていた先輩との関係がまだ続いていることもあるので、はっきりさせてからにしてほしい」

とのことで、待ってみることにしました。

そんなこんなで、高校時代を過ごしていたある日の事でした。

 同じ機械科のクラスメイトに、

「お前を好きだと言ってる子がいるぞ」

と言われました。

誰だろうと思い問い合わせたら、同学年でデザイン科の『益田翼』さんと聞きました。

なにせ、女子の数は少ないので、すぐにわかりました。

でも、私より背は高いし、好みというわけではなかったので、これ以上どうこうしようとは思わなかったので、クラスメイトから、

「いいね~」

 「女子の方から告白なんて」

と言われたので、

「ありがとう」

とだけ、言いました。

これ以上の発展は見られませんでした。

『原田香澄』さんからも一向に連絡はなく、ほぼ自然消滅。

そんな時、中学のクラスメイトで『五十嵐楓』さんのお家に遊びに行った時でした。

「ん、見かけない子がいるぞ」

「かわいい子だな」

と思い、後日『五十嵐楓』さんに、

「あの子は誰」

「どういう関係なの」

「何してる子なの」・・・

いろいろ聞いてみました。

そして、

「紹介してよ」

と言ってみると、彼女名前は『倉田桜』さん、防府に住んでいて、今は、フリーみたいとの情報を得ました。

そこで私はすぐに行動に出ました。

五十嵐楓』さんから伝番号を聞いて、電話。

次に会う約束をしました。

「食事」と「映画」

映画の題名は、ん~覚えていないです。

それから、映画館でのこと、この時私は、一部始終を姉に話しており、実は私と彼女の席の後ろに座っていました。

姉夫婦で。

私は、知らぬ顔で座っていました。

この日は二月十四日。

バレンタインデーでした。

私は彼女からプレゼントもらえるかな?

と思っていたのですが、一向にその気配もなく、時間が過ぎていくのを感じていました。

映画が始まる前だったのですが、何気なく

「ちょっとトイレ」

と言って、席を立ち売店へ向かいました。

はい。チョコレートを買いに行っていました。

「プレゼントが欲しい」

「バレンタインチョコ」が欲しいわけではなかったのですが、試しに彼女へ、

「はい」

「チョコ」

と言って手渡ししました。

すると彼女はちょっと考えて、恥ずかしそうに

「はい」

と言ってそのチョコを渡してくれました。

「何と健気な優しい子だな」

と思いました。

それから幾度か、電話をしたり、手紙を書いたり、出会って食事をしたりしていましたが大学に進学が決まり、大分へ行きっぱなしになっていました。

ある日彼女から手紙が来て、

「私、彼にはずっと一緒にいてほしいの」

「離れ離れは寂しくて」・・・

結局それから連絡は来ませんでした。

それはさておき、私、どうやら高校時代女子からもまあまあ持てていたようで、学業の方も中の上、という事は、中学時代とあまり進歩はなかったような気がします。

元々、友達作りとか得意な方ではなかったので、クラスではちょっと浮いていたような気もします。

英語の授業の時でした。先生からの要望で、生徒全員が順番で英文の一説を前日自宅で和訳し、当日授業の中で発表するというものでした。

私の順番だったので、自宅で辞書片手に調べた英文を和訳して発表していた時でした。

私、常日頃よりあまり声が通る方ではなく、おまけに声が小さくて、聞き取りにくいと言われておりました。

そのせいもあったのか、あるグループ『俗に言われる不良グループ』から目を付けられていたこともあったのですが、ある一人が、

「声が小さくて聞こえない」

と、クレームの声がありました。

私としては、

「どうせ後から私が和訳したものに対して先生が再度、正解を発表するのだから、どうでもいいや」

と、思い、そのまま無視して続けていました。

すると、お昼ごはんが済んだ、お昼休みの事でした。

私はいつも通り、保健室で先生とおしゃべりしていたら、クラスメイトから、あの不良グループが、

「私を探し回っているので逃げた方が良いよ」

と、言ってきました。

私は、

「どうせ私に制裁を与えないと収まらないのだろう」

と、思い、堂々と出て行きました。正義感もあったからかもしれません。

その後、男子トイレに連れ込まれ、殴る・蹴るの暴行。その時私は、空手道場へ通っていたのと、有段者『二段』でもあったため、手を出してしまうと、過剰防衛で処罰されるのと、私がここでキレたら、たぶん相手を死ぬまで痛めつけると思い、制御していました。

そのうち、一人では飽き足らず、後から続々と登場しては、暴行。

いわゆる、『集団暴行』この時の私、『空手』のみならず、『中国拳法』等々、いわゆる格闘技をしていたので、攻撃だけではなく、防御の方法も体得中でしたので、攻撃そのものは『暴行』のリーダー格が、いつも言っているほど早くもないし、重くもなかったので、攻撃が来るとぐっと耐えるのではなく、受け流していました。

さすがに腹部への攻撃は、受けを取らなければならないので、十字受けを取っていました。

もう一つは、攻撃を完全に避けると相手が異常にエスカレートするので、攻撃が急所に当たりそうになるとピンポイントでずらして行く戦法を取っていました。

意外と冷静だったと思います。

そのうち、不良グループも飽きたのか、疲れたのか集団暴行は収まりました。

お昼休みも終わり、午後の授業の開始時間、

私が自ら逃げる理由もなかったので、教室の自席に着席してると、その、不良グループの一員が、

「このままでは暴行したことが先生にバレてしまうので、帰ってほしい」

とのこと。

私もこのまま居ても先生にバレて、まるで私が先生に言いつけたような形になると思い、仕方なく帰宅しました。

その日の夕食の時、当時私の実家では夕食は家族全員が揃って食べる習慣があったので、夕食を食べていると、当然私の顔を見れば直ぐに喧嘩をしたことがわかったのでしょう。

父が、

「喧嘩したのか」

と、一言。

私が事の一部始終と、決して手出しをしていなかったこと、そして、『集団暴行』の主犯格の事を話しました。

父は、

「分かった」

と、一言だけ言いました。

当時、父は教育者であり、小学校の教頭を務めていました。

教育委員会へも顔が利くというか、一目置かれていたようでした。

その後の事ですが、その主犯格はいつの間にか自主退学していました。

今思えば、多分父が裏から手をまわしたのだと思います。

そう言えば、父から聞いた話ですが、父が若いころ、つまり、教職者になる前は、やんちゃをしていた時があったそうで、地元の若い連中を集めてリーダー格として活動していたそうです。

地元では、『怖いもの知らず』だったそうですが、一番怖かったのが、ヤクザの親分らしき人と対面した時、親分に

「青年、まだ君は若いから、ここは引きなさい」

と、言われた時だったそうでした。

初めて、体が震えたそうでした。

まるで『ゴッドファーザー』ですね。

もう一つ、高校時代に始めたことがありました。

中学時代のクラスメイトから誘われ、初めて『アルバイト』をしました。

やってみたのは、ゴルフ場での『キャディー』のアルバイトでした。

何せ『ゴルフ』と言う物を見たことも、聞いたこともなく、全く初めてだったので、右も左もわかりませんでした。

何をしたかと言えば、お客様のゴルフバッグを四つ電動カートに積み込み、とにかく出発しなくてはと、レバーを操作したところ、いきなりゴルフカートが暴走。

ゴルフカートは右に外れて生垣目指して一直線。はい、想像通り激突。

「ありゃー、お客様に怒られる」

と、思いきや、さすが紳士のスポーツ

「いいから気にしないで、慣れてないことだし」

やれやれと思いましたが、何とか無事ホールアウト。

その場でアルバイト代一万円をいただきました。

また、この中学・高校時代、近所の幼なじみの「川本」君、そして、直ぐ裏の家の「山沢」君と、クラスメイト数名で『受験勉強』と名目を立てて、みんなで集まって大騒ぎしていました。

『麻雀』を覚えたものこの頃でした。

土曜日の夜と言えば集まって、一晩中『麻雀』に勤しむ私でした。その内、両親も当然ながらその行動に気づいていました。

特に、父も若い時から『麻雀』をよくしていて、強かったです。時折、仲間が私の家に遊びに来て『麻雀』をしていると、父が表れて一緒に遊んだこともありました。

それからというもの、『夜遊び』をするようになっていました。

もう、昔の事なので『時効』ではあるのですが、当然みんな同学年で未成年でした。

具材を持ち寄ってすき焼き鍋をする際、調味料のつもりで買っていた、日本酒を飲んだこともありました。

また、父が使っていた『スーパーカブ』が当時流行っていました。

なんだか、今でも好きな人にとっては『レア』ものだとか?

そんなスーパーカブ排気量が五十CCではなく、九十CCでした。

今で言えば小型バイクと呼ばれているようです。

この、『スーパーカブ』を夜な夜な公道まで出していき、友人と乗っていました。

『好奇心旺盛』と言うか、『怖いもの知らず』と言うか、『ヤンチャ』と言うか、とにかく無茶ばかりしていました。

そんな時、噂は広がり、クラスの女生徒から担任の先生の耳に入り、これまた、先生は激怒してこっ酷く叱られました。

流石の父もこのままではと思ったのでしょう

「わしの立場もある」

「教職についているからな」

と、その思い言葉を残しました。

「光陰矢の如し、一寸の光陰軽んずべからず」

母の大好きな言葉。

時は立つのも早いもの、直ぐに高校生活は終盤に差し掛かり、大学受験。

私はと言えば、あまり勉強自体好きな方ではなかったので、成績はまたまた中の上。

担任の先生と、進路指導の先生と相談し、進学校を考えて帰宅し、両親に相談。

母は、「お父さんに聞いてみて」の一言、父に聞いてみると

「お前の好きにしなさい」

「自分の選んだ道なので、自分で歩んでみなさい」

ん~優しいような、突き放されたような、「獅子は自分の子を先人の谷に突き落とす」

 自分の力で突き進め。

そして、「自分の行動には責任を持て」と言うことなのでしょう。

選んだ大学は、大分にある工業系の大学で、専攻はやはり『機械工学科』幼少のころから機械いじりが好きで、壊れて動かなくなった、時計やラジオその他もろもろ分解しては組み立てて遊んでいました。

なので専攻も『機械工学科』となったわけです。

また、私がこの大学を選んだ理由がもう一つありまして、何と、高校からの推薦状があれば、学科試験が全て免除。面接試験オンリーだったのです。

あまり勉強が好きでなく、そして、勉強しても、しなくても成績は殆ど変わらず、中の上。

ここまでは、学業にあまり進歩がないのも納得です。


 第三巻へ続く。


そして、第三巻へと続きます。

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