石川県立白山ろく民俗資料館
福井県勝山市から国道157号線を北上していくと、延々と上り坂が続いていき山の中に入っていきます。国道の両袖に見える山々は、夏の太陽の光を吸収してより一層青さを増していました。人間が生活している痕跡がなくなり、というか人間の立ち入りを拒絶するかのような自然の荒々しさを感じました。辛うじて残されたアスファルトの道だけが、僕に残された命綱。そんな妄想を心に描きながら、スピードを上げていきました。暫く走ると、トンネルに遭遇します。長い長い直線のトンネルでした。そこを抜けると石川県白山市に至ります。そこも深い山の中ではありましたが、人が生活をしている集落がありました。
――こんな山奥に?
ここは白峰という村になります。この村に「石川県立白山ろく民俗資料館」がありました。
僕の旅は歴史を探索することが目的なので、その地域に博物館があれば足を運ぶようにしています。その地域ならではの民俗や風習を知りたい。博物館といっても色々な種類があって、歴史の教科書に載るようなテーマを題材にした展示物もあれば、歴史に名を遺さなかった普通の人々の生活をテーマにした展示物もあります。「石川県立白山ろく民俗資料館」は後者で、教科書には紹介されない、しかもこの地域だけの民俗風景が展示されていました。テーマは、「出作り」でした。あまり聞き慣れない言葉ですが、ネットの情報から引用してみます。
――山間地の生活は厳しく限られた耕地で集落を維持するために出作り農家が発展しました。 出作りとは集落の人口増加により耕作地が不足し、山地に耕地を求め夏期山地に建てた住居に移り住んで5月から11月の農耕期に畑作や養蚕・製炭などに従事し、冬期は村に帰る生活形態を示します。
ネットでは、耕作地を求めた人々が白山麓の険しい山間部を切り開き、雪のない5月から11月まで農業を営んだ……と紹介されていますが、現地の資料によれば冬の間も定住する人々がいました。つまり、里に下りずに、ずっと山の中で生活をしていたのです。このような出作りの生活環境で特に強調されていたのが、循環型社会が形成されていたことでした。現代の社会形態は消費型社会になります。多くの資源が消費され、昨今は環境破壊が問題視されていました。消費型社会と循環型社会。未来を考えるうえで、参考になるテーマだと思います。
出作りにおける産業について、少しご紹介したい。畑作に関しては、ナギ畑といって焼き畑農業が行われていました。焼き畑農業では、施肥を行いません。山林を開拓し農地を焼くことによって、農業に適した土壌を作ります。現代の農業は化学肥料が使われますし、江戸時代であれば人糞が利用されました。そうした農業と比較すると原始的な焼き畑農業は作物の収量が少ないのですが、開梱をしないので労力が少ないというメリットがありました。また、作物は輪作が行われます。一年目は稗、二年目は粟、三年目は小豆、その後は地力が低下しているので痩せた土壌でも生育できる小豆や蕎麦が作付けされます。5年使った後は20年から30年は土地を寝かせて地力の回復を待ちました。
畑作と並行して重要な産業が、養蚕と製炭でした。特に養蚕は現金収入を得るために重要な産業だったようです。僕は歴史を勉強する上で古代の豪族である秦氏を追いかけていました。秦氏は、古代において養蚕業を日本に広めた豪族であり、機織りの語源にもなっています。ところが、その資料がとても少なく謎の豪族でした。養蚕業そのものは、明治・大正時代に日本の国力を底上げする一大産業に発展したので資料そのものは多い。ところが、古代における養蚕業の取り組みに関しては資料が少ないのです。これまでに養蚕に関する博物館を幾つも見てきましたが、近代日本の養蚕資料ばかりでした。
「石川県立白山ろく民俗資料館」においても、資料の時代区分は変わりませんが、その資料の質や量に驚きました。残された古民家が丸ごと養蚕業の施設になっていたのです。これまでに見てきた資料の中では、ここは最高の物でした。古代の養蚕資料ではありませんが、山間部という平野から隔離された閉塞感や、縄文時代的な循環型社会が残されていた地域性に、僕の感性が刺激されまくり。古代の養蚕業を想像する上で、とても良いものを見させていただきました。
日本の古代史を勉強するうえで重要なテーマの一つに「米」があります。昨今は、減反政策の影響から米不足が露呈するようになりましたが、米は歴史的に見ても日本の産業を支えた大きな柱でした。弥生時代において水田稲作が日本列島に普及していきましたが、そうした水田稲作を祭祀として国の重要な政策として儀式化定型化して、当時の人々をまとめ上げたのがヤマト王権だと、僕は考えています。しかし、そうしたヤマト王権に属さなかった人々も、日本列島には生活をしていました。
将来的に僕が描くであろう聖徳太子が生きていた世界には、三つの思想的なレイヤーがあったと考えています。最も古い思想形態が縄文時代的な思想で、出雲族を含めた日本古来の豪族集団がこれに該当すると考えています。次にヤマト王権の思想形態で、象徴的な前方後円墳を初めとして、水田稲作を柱にした大陸的な道教思想をベースにした思想集団だったと考えていますす。最後の思想形態が、仏教になります。これら三つの思想の中で、資料がなく最も曖昧なのが縄文時代的な思想でした。
今回訪れた「石川県立白山ろく民俗資料館」は、古代の縄文的循環型社会を想像する上で、とても貴重な資料になりました。これらの資料をもとにして、どのような世界観を設定すればよいのかは、まだ分かりません。ただ、物語を創造するためには出来るだけ精度の高い資料が必要でした。今回の訪問は、ほとんど期待していなかっただけに、感動はひとしおでした。
あと、僕は旅先で写真を撮ることを趣味にしています。高級なカメラは使いません。スマホでパチリ。ここ「石川県立白山ろく民俗資料館」は、インスタ映えする風景がそこかしこにありました。良い景色や良い構図に出会うと、僕は宝物を見つけたような嬉しさに浸れます。次々と写真を撮りました。ここは資料館とは別に、古民家が六軒も敷地内に移設されています。一軒一軒訪れて写真を撮っていたら、二時間近くも滞在していました。気が付くと、山の中でヒグラシが鳴いています。時刻を確認すると、15時45分でした。
今夜の宿泊地は、白山登山口から6kmほど離れた市ノ瀬野営場になります。スーパーカブで走って30分ほどの場所にありました。受付は17時までなので、今から出発すると丁度良い時間になります。入り口に停めていた相棒にキーを差し込み、キックレバーを踏み込みました。