雑巾
夕焼けが校舎を茜色に染める放課後。人気のない小学校の廊下を、小学三年生の修哉は一人、音楽教室に向かってトボトボと歩いていた。修哉のクラスでは掃除当番は男女のペアだったが、今日修哉のペアの女の子は風邪で学校を休んでいたため、音楽教室の掃除当番は彼一人ですることになった。
窓の外では、カラスが不気味な声で鳴いている。修哉は少し心細くなりながらも、早く終わらせて帰ろうと、音楽教室に着くと、まずは机を拭くために、ほうき入れの隅に置いてあった古びた雑巾を手に取った。
その雑巾は、今まで見た他の雑巾と比べて明らかに異質だった。全体的に灰色にくすみ、所々に黒ずんだ染みがこびり付いている。まるで長い間、誰にも使われずに放置されていたかのようだった。
「なんだか、気持ち悪い雑巾だな…」
そう呟きながら辺りを見回すが、他に雑巾は見当たらない。修哉は仕方なくその雑巾で机を拭き始めた。すると、雑巾が机に触れた瞬間、彼の耳に微かな囁き声が聞こえた気がした。
『…う…そ…』
気のせいだろうか。修哉は首を傾げ、再び雑巾を動かした。今度ははっきりと聞こえた。
『…つ…い…た…う…そ…』
背筋がゾッとした。修哉は慌てて顔を上げたが、教室には誰もいない。窓の外で木の枝を揺らしている風の音さえ聞こえない静寂が、薄暗い教室を包んでいた。
怖くなった修哉は、その雑巾を放り捨てようとした。しかし、雑巾はまるで手に吸い付いたように離れない。無理やり引っ張ると、今度は彼の頭の中に直接声が響いた。
『お前、今日嘘をついたな』
修哉は息を呑んだ。心臓が激しく鼓動する。そうだ、彼は昨日の宿題をしていないことを誤魔化すため先生に「宿題のプリントは飼っている犬が食べてしまった」と嘘をついたのだ。子供の小さな嘘だったけれど、先生を騙してしまった罪悪感は、心の奥底にずっと残っていた。
その瞬間、雑巾の染みが蠢き始めた。黒ずんだ部分がゆっくりと形を変え、まるで小さな人の顔のように見えてきた。目は虚ろで、口は歪んでいる。修哉は雑巾をガムシャラに手から引き離すと壁に叩きつけるように投げた。
『嘘は、因果を生む。お前の嘘が、私をここに縛り付けているのだ』
その声は、先ほどの囁き声とは全く違い、深い怨みに満ちていた。修哉は恐怖で足が竦み、一歩も動けない。
不気味な気配がゆっくりと修哉に近づいてくる。雑巾の形をしたその化け物は、床をするりと這いずり、修哉の足元にまとわりつこうとする。
「や…やめて」
修哉は震える声で必死で叫んだ。その時、廊下の奥からパタパタという足音が近づいてくるのが聞こえてきた。
「修哉ー、まだ終わらないのかー」
声の主は、担任の山田先生だった。先生の声が聞こえた途端、雑巾の化け物はピタリと動きを止め、その形を崩し始めた。黒い染みはみるみるうちに薄れ、ただの汚れた雑巾に戻っていく。
先生が廊下から音楽教室に姿を現した時、修哉は床に落ちた雑巾を呆然と見つめていた。
「どうしたんだ、修哉?顔色が悪いぞ」
先生は心配そうに修哉に声をかけた。修哉は震える声で、さっきの出来事を話そうとしたが、喉が詰まって言葉が出ない。ただ、あの雑巾が恐ろしくて、もう二度と触りたくないと思った。
結局、修哉は昨日の嘘を先生に正直に謝った。先生は少し驚いた様子だったが、優しく微笑むと修哉の間違いを認め謝る勇気を褒めてくれた。
それ以来、あの古びた雑巾は、小学校の掃除用具入れから姿を消した。そして、修哉は二度と嘘をつくことはなかった。嘘がもたらすかもしれない恐ろしい因果を、あの放課後の体験を通して、深く心に刻み込んだからだ。