何者ヶ島
トンネルを抜けたけど、景色が劇的に変わる事はなかった。変わったと言えば眼下に海が見えるくらいで、その海も極端に美しいというものではなく、何処にでもあるような小さな漁港だ。其処が本日の撮影場所となる。
S島へやって来たのは、都会の暮らしが合わないとようやく気付いた頃で、もう三十代へと突入していた。
それまでの勘違いの数々。振り返ると恥ずかしい事ばかりで、定職にも就かず、何者かに成るためにヤレバンドだ、ヤレ役者だ、ヤレ写真だ、ヤレ絵描きだと、無い才能に蓋をして中途半端に立ち回って生きてきた。
もう何もかもが八方塞がりで、どうしていいのか訳が分からなくなっていた。そんな時にふと考えに浮かんだのが地方への移住だった。
少し調べてみると色々と特典が有りそうで、何にでも直ぐに飛びつく性格はそこに活路を見いだそうとしていた。
人口減少に歯止めが効かない地方では、移住者確保の為に補助金などの優遇措置が取られ、移住の住宅が用意されるケースもあるようだった。
行政の、少子化対策とか若い移住者の確保みたいな気合いの入った政策とは全く結び付かないくらい、この島は穏やかだ。
三脚にカメラを固定して立ち位置を確認する。それから仕掛けを作る。今日は堤防からキャストしてルアーで何かしらを狙う。
「はい、皆さんコンチクワ!離島暮らしをやっておりますスー太郎です。本日もよろしくお願いしまっす」
いつもの様にオープニングを撮影してから一旦カメラを止め、試し投げをしてみる。風向きも手伝って、思いのほかよく飛ぶ。
島へ移住して新たに始めたのはユーチューブだった。まだ何者にも成っていない自分が、少しでも希望の糸口としてすがったのがそれだった。万が一にもバズらないかと、ほぼ神頼みに近かった。釣りに関してある程度の知識はあったものの、それは大したスキルではなかった。離島、釣り、初心者、そんなワードでなんとなくイケると思った。でも矢張甘かった。チャンネル登録者数十二名、再生回数は数十回、これが現実だ。
再びカメラをオンにして撮影を再開する。
「本日、曇っていて何だか釣れそうな予感がします。先ずはトップからやっていきましょう」
先ほど試し投げしたポイントへポッパーと呼ばれる海に浮くルアーをキャスト。いかにも小魚が水面付近をパシャパシャやりながら逃げている様なアクションを演出する。一投目は何も起きず。続くニ投目、バコンという補食音がして魚が食いついた。
「きた!きましたよ皆さん。こ、これは」
そうアタフタしていると、魚が水面をジャンプ。器用に頭を振ってルアーを外してしまった。
「おじさん、それじゃ逃げられるよ」
声がして振り返ると、自転車にまたがった子供が居た。背中に背負った竿ケースの中に、二本継ぎのロッドが見える。
「型は大きくなかったけど、アレはシーバスだったからエラ洗いされないようにしなきゃ」
カメラを止めるのもなんだし、あとで編集でどうにかしよう。
「おじさんて言うなよ、まだお兄さん」
そう言っても、子どもは海を見つめるばかりで聞いていない。
「もしかしてユーチューバーなの?」
ギクリとした。ユーチューバーと言ってしまえばそうだけど、登録者も再生回数も、そこいらの小学生よりも低い。
「か、関係ないだろ」
こんなしょうもないやり取りも刻々と録画されている。子どもは自転車から降りて竿を組み始めた。自分が使っているような安物とは違い、一目で良いものだと分かる。ルアーはシンキングミノーだ。
気にせずに釣りを続けるけど、さっきバラしてしまったせいかアタリが出ない。
「ヒュン」
本格的なキャストの音がした。ちょっと離れたところであの子どもが竿を振っている。へなちょこな自分とは違い、かなり慣れている。中層をゆっくりと魚を誘いながらリールを巻くと、ジジジというドラグ音がした。
「あんな簡単に釣るんだぁ」
思わず声が出ていた。魚とのやり取りも上手い。慌てる事もなく魚を寄せる。どうやら良い型の黒鯛みたいで、手際よくネットでキャッチしていた。
結局、先日の撮影では使えるものは無かった。映っていたのは、いつものオープニングと、逃がしてしまったシーバスとの情けないやり取り、あの子どもとの会話、何度キャストするも全くアタリの無い模様だけだった。どんな必殺技を繰り出して編集したところでつまらないものに成る。
別の日、今度はあの漁港とは真逆に位置する島の反対側へ行った。とりあえず魚を釣らないと話にならない。穴釣りならばボーズは無いだろうとテトラポッド帯へやってきた。
「はい、皆さんコンチクワ!離島暮らしをやっておりますスー太郎です。今日はここで穴釣りをやろうと思ってます。さぁ何が釣れるか、ゆるりとご覧ください」
オープニングを撮り終えると気配がした。
「見たよおじさん。〖スー太郎の魚釣ったろ!〗」
なぜかまた、あの子が来た。
「登録者少ないねぇ。あ、再生回数も」
「おじさんて言うな」
「じゃ、スー太郎」
「お前ねぇ、ま、いっか」
「スー太郎は今日は穴釣り?」
「悪いかよ」
「じゃ、俺あっちで青物やろうっと。がんばれスー太郎」
「はいはい」
島と言っても、この島はある程度大きくて、人口は減ってはいるものの、仕事に溢れる事は無い。特に土建業なんかは人手不足が慢性化していて、もう三十代に成ってしまったと焦っていたのに、ここでは三十代なんてあんちゃん扱いだ。
未だに何者かに成ろうとしている自分は正社員としてではなく、アルバイトで月曜日から金曜日まで土木作業員として働き、生計を立てている。
忙しい時期になると会社から、「土曜日も仕事に出てくれないか?」と言われる事もあるけど、そうなると本末転倒になりそうで断っているものの、何が本末転倒なのかよく分からない。
テトラとテトラの間に沈めた仕掛けに何かが食い付いた。コンコンとなっていた小さなアタリは、急に竿先をテトラの中へ引き込む勢いで引いてくる。
「なんか来ましたよ。凄い引き」
リールを巻きながら竿を上向きに支える。赤い魚体が見えてきて、水面から顔を出したのは立派なキジハタだった。
「やったー!見てください。キジハタです。早速サイズを測ってみましょう」
計測用のビニール製スケールの横へキジハタを置く。
「四十、二、いやぁ、一かな。四十一センチです。じゃ恒例のやついきますよ」
「スー太郎、キジハタ釣ったった」
自分が言おうとしていた台詞を言う者があった。声がした方へ振り向くと、あの子どもである。その右手には、フィッシュグリップで掴んだ五十センチを優に超えるハマチを持っている。丸々としていて鰤と呼んでも差し支えない感じだ。
動画を編集してみると、あの子どもの声が入ってしまうシーンがあった。姿こそ映ってないものの、どうしても外せない場面で、あの子の声が聞こえる。前の動画はボツになったし、この回は上げたい。
仕方なく、そこはそのままで編集を終え、ユーチューブへアップした。
いつも二桁止まりの再生回数に溜め息が漏れる。こんな島へ移住してまで何をやっているのだろう?
「ん?」
あの穴釣りの動画の再生回数が異変を示していて、いつもは来ないコメントが入ったり、ライクボタンが押されたりしていた。その再生回数は五千回を突破していた。
「嘘だろ」
こんな事がなんで起こるのだろう?
ユーチューブを始める前には、素人の動画でもそこそこの再生回数は出るのだろうと高を括っていたけど、いざ始めてみるとそんな訳は無くて、考えの甘さがやっと分かってきたところだった。
ハッシュタグが何かにヒットしたのか、それともたまに流れてくる〖あなたへのおすすめ動画〗みたいにして自分の動画が、知らないところでお勧めされているのか、なんにしても素直に嬉しかった。
動画の再生回数はまだ上がっていて、十二名しか居なかったチャンネル登録者数も三桁に届こうとしている。これをバズったなんて言うのだろうか?いやいやいやいや、言うてもたかがこのくらいだし、偶々今回はこうだけど、これが続くとは思えない。
「須磨君は東京から来たんやったよね?」
三時の一服の時、一緒に仕事をしている角谷さんが話し掛けてきた。
「なんでまたこんな田舎の島に来たのん?」
角谷さんは五十代半ばで、パチンコと酒が好きな典型的な土木作業員って感じだ。
「都会の方が遊ぶとこもいっぱいあるし、綺麗なねぇちゃんもおるやろ?須磨君、彼女おんの?」
こんな人に、「離島生活ってちょっとしたブームなんですよ」とか言っても通じないだろうし、実はユーチューブやっててなんて絶対言えない。
「彼女居ないんすよ。島暮らし良いじゃないですか、魚も釣り放題だし」
「釣り好きか?俺は駄目だな、黙って竿を持って浮きを見てるなんて出来ねぇ」
角谷さんの釣りのイメージが絵に描いたように分かる。
「段々と結婚とかして家庭を持った方が良いんじゃねぇの?大きなお世話だけど」
本当に大きなお世話だ。あんたみたいに仕事帰りにパチンコ打って、酒飲み行って、そんな事していて家庭は大丈夫なのか?まぁ、大きなお世話だけど。そう思って愛想笑いでその場を凌いだ。
この島の人たちは、自分が東京から来たと言うと決まって、「なんでまたわざわざこんな田舎の島に来たの?」と口を揃える。この島の行政がそういう事をやっているのを知らないのだろうか?
「はい、離島生活をやっているスー太郎です。コンチクワ。本日は、この漁港で釣りをやろうと思います」
やって来たのは、半年前にこの島で初めて釣りをした漁港で、その時は初心者でも必ず釣れると釣具屋のおっちゃんに教えて貰ったサビキ仕掛けで鯵を釣った場所だ。
「今日は初心に帰って、サビキ釣りをしようと思います」
「なに、今日はサビキなの?」
まだオープニングを撮っている最中なのに、あの子どもが自転車で近付いて来ながら話しかけてくる。無視して撮影を続ける。
「ねぇスー太郎、今日は鯵でも釣るの?」
そこでようやくカメラを止めた。
「撮影してんだよ」
「あ、ごめんごめんスー太郎。怒んなよ。ちょっと頼みがあって」
「何だよ」
「怒んなってスー太郎。鯵釣れたら、一匹ちょうだい」
「わかった、やるからちょっと離れたところに行けよ」
浮きの下へサビキ仕掛けを付け、その下に錘の付いた小さな籠を装着する。その籠の中へオキアミという小エビを加工した集魚餌を入れて軽く投げると、直ぐに浮きが沈んで鯵が掛かった。
「おっ、やるねスー太郎」
「撮ってるから声出すな」
一投目から三匹の鯵が釣れた。あの子どもが寄ってきて、ヒョイと、その鯵を一匹持っていく。
「ありがとうくらい言えよ」
「だってスー太郎が声出すなって言うから」
「ちょっと待って、もう一匹持っていきな。また直ぐ来られると嫌だし」
「おっ、サンキュースー太郎」
子どもはそう言って海水の入ったバケツへ鯵を放り込むと、さっさと行ってしまった。
「スー太郎、鯵釣ったった」
お決まりだから言ったけど、こうバサバサと釣れると、毎回この決まり台詞は言わなくても良いなと思いながら、そろそろ終わりにしようとエンディングを撮り始めた時だった。
「おーい、スー太郎ぉ」
その声が聞こえ、舌打ちをして一旦カメラを止める。
「だから、撮影してるって言っただろう」
子どもへ振り返ると、驚いた。子どもの持つバケツからは大きくはみ出した鮃が二枚、窮屈そうに動いていた。
「どうしたのそれ?」
「どうしたって、釣ったんだよ。鯵貰ったから一匹スー太郎にやるよ」
「鯵がどうすれば鮃になるんだよ?」
「撮影いいの?スー太郎は泳がせ釣りって知らない?鯵を針に掛けて泳がすやつなんよ。錘を付ける人も居れば、浮きを付ける人もいる。俺は針だけ。背掛けにしてフリーで泳がせる。それを鮃が丸吞み」
なんでこの子はいとも簡単に大物を釣る事が出来るのだろう?
「スー太郎も鯵いっぱい釣れたねぇ。今度泳がせやってみれば?じゃ、これ」
子どもは二十匹ほどの鯵が横たわるクーラーボックスの中へ鮃を一枚入れてから、自転車の所へ行きバケツを持ったまま器用に自転車にまたがり帰って行った。バケツからは矢張鮃がはみ出しているけど、さっきよりはちゃんと収まっているようだった。
サビキ釣りの動画は思ったよりも地味で、果たしてこれをアップして良いものかと考えながら編集をしていると、またあの子の声が入っている。今回はあの子自体が映り込んでいる箇所もあって、でもそれはどうしても必要な画だった。
「またか、つか何で行くとこ行くとこに来るようになった?」
編集を終え、まぁ地味だけど初心の動画という事でユーチューブへアップした。
自分で見ても何の盛り上がりも無く、ただサビキで鯵を釣っているだけの動画の再生回数が二万回に迫っていた。
「噓やろ?どんなに贔屓目に見ても、全ての動画の中で一番つまらないと思うんだけど」
もう何が何やら分からなくなってきた。
初めての場所だった。海へ向かって左手にサーフがあり、右手は漁港で、サーフと漁港を分けるように堤防が伸びている。堤防の先端は当然海で、サーフでも漁港でもない。
今日はここで、あの子が言っていた泳がせ釣りをしようとやって来た。と、そこで周りを見渡す。あの子どもは居ない。居ないと居ないで、なんとなく寂しい。
先ずはサビキ釣りの用意をする。
キャストすると直ぐに浮きは沈み、鯵が釣れる。泳がせ釣りの餌にするには、ちょっと型が良すぎる。海水を汲んだバケツに酸素を送り込むブクブクを入れ、その中へ鯵をキープする。
鯵はテンポ良く釣れて、バケツの中で鯵が渋滞し始めていた。この辺でオープニングを撮る。
「はい、離島生活をやっているスー太郎です。コンチクワ、今日はですね、初の泳がせ釣りをやってみようと思います。よろしくです」
いつもならこの辺りであの子どもが現れるのに、カメラを一旦止めてもその気配は無かった。
「使っていくのは、この安物のショアジギングロッドと、もうボロッボロのリール。仕掛けは道糸に針を付けただけの超シンプル仕掛け。それにさっきサビキで釣った鯵を背掛けにして」
鯵を一匹バケツから取り出して背中に針を刺す。それを海へ投げる。
「はい、いってらっしゃい。大きな魚に食べられてこーい」
バケツから解放された鯵は元気で、どんどんと沖の方へ泳いで行く。リールのドラグを緩める。暫くすると鯵の動きが止まる。
「鯵ちゃん疲れたかな」
その直後に、ジ、ジーっというドラグ音がして走り出す。
「どうした?鯵の頑張りにしちゃ走り方がエグイなぁ。もしや来たかな?じゃ合わせますよ。ああドキドキする」
ドラグを絞めて、思い切り竿を立てると重量感が手に伝わってくる。
「キタ。来ましたよ。うわぁ引く引く。なんだこりゃ」
ドラグを締めても、時よりラインが出る。巻いては出されを繰り返す。あまりドラグを締めすぎるとパツんとラインが切れる可能性があるから慎重にやり取りをすると、少しずつ魚が寄って来た。
「なんだなんだ?」
パッと見、茶色い布みたいなものが水面付近へ上がってくる。水面から頭が出そうになると、身体を反転させて水飛沫をあげながら抵抗する。
「やったー。鮃だ。鮃です皆さん、鮃が釣れました。いやまだ釣れてません。抜けるかな?」
ライン同士や針との結び方は相当練習したし、今ではオリジナルの結び方であるスー太郎ノットも考案した。そうやすやすとラインが切れることは無いけど、この鮃は五十センチはありそうだ。
「タモ持ってこーい。はーい、わかりました」
タモのくだりでは、この一人二役の台詞がお決まりだ。焦っているのに何故かこれはやってしまう。左手に竿、右手にタモを持ち、ゆっくりとタモの柄を伸ばして鮃の傍へ網を構える。網の中に鮃が入った。
「よっしゃ!」
と思ったら入っていない。
「落ち着け俺、落ち着いて、せぇのの、はい」
網に入った鮃は観念したのか全く暴れなく成った。竿を置いて両手でタモの柄を戻す。上がってきた鮃を網ごと堤防へ下すと、さっき大人しくなったのにパタンパタンパタンとひと暴れした。
「やりました。あ、そうだ。スー太郎、鮃釣ったった」
動画の編集も楽しかった。釣れた鮃は五十三センチあっし、余分な声や音、画も無く、臨場感たっぷりの鮃とのファイトが記録されていた。今までの動画で初めて完璧だと思えるものが作れた。時刻は夜の十一時半を回っている。
「これはイクな。あのサビキのよりも百万倍良い。本格的にユーチューバーになるのかぁ?なぁーるーのぉーかぁ」
期待しかない状態でユーチューブへアップすると、さっそく再生回数が上がっている。
「きた、きたきたきた。伸びろ伸びろ」
再生回数は十八回でピタリと止まったけど、気にせずに眠りについた。
朝、仕事へ行く前にパソコンを立ち上げ再生回数をチェックすると、十九回と表示されている。通信か何かのトラブルで本当の数字が上がって来ないのだろうと、そのまま職場へ向かった。
昼休みにスマートフォンから自分のチャンネルを見てみても、まだ再生回数は十九のままだった。
「復旧遅いなぁ。本当は五万とか超えてバグってるんだろ?」
三時の一服の時も、職場を出る前も、帰宅途中で立ち寄ったコンビニの駐車場でも再生回数をチェックすると十九回で止まっている。これは以前の動画の再生回数と似通っていて、嫌な感じが湧いてくる。
帰宅後、真っ先にパソコンへ向かう。鼻の奥にどんよりとしたものが沈滞しているような気分がした。ネットニュースにもユーチューブ上にも、通信なんかのトラブルがあったなんて上がっていない。バズッたなんて思った動画は矢張偶々だった事が分かり愕然とする。
相当良い釣りだったし、相当良い動画だった筈だけど、そう思っていたのは自分だけだった。
もうユーチューブなんか止めて終おう。角谷さんが言う通り、相手を探して結婚でもしようか。だったらこんな島からも出て行こうか。須磨麟太郎、三十三歳、独身、何やってんだろ俺。何にでも飛びついて、それが駄目になるといつもこんな感じになる。
最後に、もう一本撮ってみようと向かったのは、トンネルを抜けた先の漁港だった。
前に釣り損ねたシーバスを釣って、今度はボツにならないように、そして悔いが残らないようにしたかった。
オープニングを撮影しようとカメラの前に立つも、なんだかいつもと違うものが自分の中にあって上手く言葉が出て来ない。「どうもコンチクワ!離島生活をしている・・・」と、言ってしまえば良いのに、それが出て来ない。
「おーい、スー太郎」
あの子どもの声がしたのは、そんな時だった。
「あ、ごめん、撮ってた?」
子どもの顔を見ると、何だか落ち着いた。さっきまでの不安というか、後悔というか、絶望、諦めみたいなものが薄れていくのが分かった。
「今から撮るとこ。家は近所?なんで俺が居るの分かるのよ?」
「まぁまぁそんな事より、今日はシーバス?大丈夫だから、俺、スー太郎の邪魔にならないようにあっちでやるから。がんばれー、スー太郎」
子どもは飄々とそう言ってテトラ帯へ消えていった。
気持ちも整ったのでオープニングを撮った。もしかしたらこれが最後の「どうもコンチクワ」かも知れない。
この前はトップで出たから今回もポッパーから攻める。何度水面をバシャバシャやっても魚が食いついて来る気配は無い。少し場所を移動して、今度は中層を探る。シンキングミノーという水に沈むタイプのルアーに変えてみる。
ハッと気付いた。今、午前四時だ。いくら何でもこんな時間に、夜も明けていないのに、自転車で釣りに来る小学生なんか居ないだろう?あの子の親は何も言わないのか?シンキングミノーをやり始めて三投目でそれに気付いた。
バフッという補食音がして竿が撓ったと同時に、ジーとドラグが出る。ドラグを締めテンションをかける。この前は何もさせて貰えないままジャンプされ、フックを外され逃げられた。あの子が言うには、エラ洗いというらしい。するとあの時のように魚が水面からジャンプ、そのタイミングでグイっと引く。
「よし、大丈夫。ああそうだ。来ました、みなさん来ましたよ。突然のヒットにカメラ回ってるの忘れてました」
銀色の魚体が寄ってくる。タモを持とうとして思い出す。
「タモ持ってこーい。はい、わかりました」
自分でもコレいる?と思うくらいだから、視聴している人は不快に感じているのかもしれない。不意に魚がジャンプした。二回目のエラ洗いは想定外で、右手にはもうタモを持っていたし、対応出来ずにフックから魚が外れてしまった。
「あああ」
落胆した声は自分ではなく、あの子どものものだった。
「残念、でも今のはしかたないよ」
カメラは回っていたけど、もうそんな事はどうでも良かった。
「駄目だ。もう本当に駄目。結局、俺は何をやっても駄目」
渾身の出来だった泳がせ釣りの動画再生回数は全く伸びなくて、今でも十九回で止まっている。
自分が悪いって事は分かっているけど、じゃ、どうすれば良いのかは分からない。この先、自分は何者になるのだろうか。また違う事を見つけ、そっちへ手を出し、今度こそ上手くいくかと思ったところで失敗する。それを繰り返すのだろう。
旨そうだと思った餅は、絵に描かれた餅で食えない。九回裏に一発を浴び逆転負け。優勝を確信した瞬間にゴール手前でスッ転び、格下の相手からのラッキーパンチでマットへ沈み、落ちる筈のない試験に一点及ばず落ちてしまう。
「スー太郎、今キテるから、時合いだから、キャストしよう」
ネガティブな感情が渦巻いている時にあの子どもの声がして、海を見るとナブラが湧いていた。兎に角、そこを目掛けて竿を振る。海面に着水したと思ったら直ぐに強い引きが来た。
「よし、スー太郎掛かった」
もう必死だった。テンションを緩める事なくやり取りする。エラ洗いも凌いで、どんどん魚が寄って来る。
「スー太郎、俺が掬うからそのまま寄せて」
撮影しているのに無言だった。自分は今、何をしているのか、何と闘っているのか、どんな動きをしているのかよく分からなかった。
「そのまま、そのまま、よし入った」
あの子どもが引き上げてくれたタモの中には六十センチ前後のシーバスが身体を捩らせていた。
「スー太郎、やったじゃん」
子どもにそう言われて、肩で息をしながら、「ありがとう」というのが精一杯だった。
「そう言えば、お前名前何て言うの?」
スー太郎、スー太郎と気安く呼ばれていたけど、その子の名前を知らなかった。
「俺?俺タローだよ。同じタローだね、スー太郎」
「スー太郎はハンドルネーム、俺は須磨麟太郎」
「へぇ、でももうスー太郎はスー太郎だから」
「で、いつもチャリで来るじゃん?家何処?」
タローは少しの間のあと口を開いた。
「島の真ん中らへん」
「じゃここまで結構な距離じゃん?今朝なんか何時頃に家出たの?」
「ま、細かい事は良いから。じゃまた、スー太郎」
撮れた動画をどうしようかと思ったけど、編集する事にした。パソコンの画面に映る自分は、矢張いつもの感じではなかった。
「なんか重いな」
動画が進むにつれ無口に成っていくし、表情も険しい。最後の方なんか何かに取り憑かれたような動きをしている。
シーバスを取り込む下りではタローがバッチリ映っているし、当然声も入っている。
自分が駄目になっていくところなんかはカットする。無口な部分はテロップを多めに入れて誤魔化す。
画的には上手く纏まったけど、如何せん自分の振る舞いに違和感を抱く。それでも一応ユーチューブへアップし、直後にパソコンをシャットダウンさせた。
翌朝はスマートフォンの通知で目が覚めた。着信音は切ってあったけど、バイブレーションへ設定していたからスマートフォンは揺れていた。
ひとつの通知が終わると、また直ぐに揺れる。寝ていて分からなかったけど、一晩中こんな感じだったらしい。
通知を開いてみると三桁の知らせが来ていた。動画の再生回数は確認しないまま仕事へ向かった。
会社でタイムカードを押した時も、十時の一服の時も、昼休みもスマートフォンは揺れた。
「須磨君、ちょっと携帯煩いよ」
昼ごはんを食べ終わり詰所で横になっていた角谷さんに言われたから、バイブレーションからサイレントの設定へと変えた。
帰宅し、コンビニ弁当を食べ終わってからパソコンと向かい合うと、再生回数は五万回を軽く上回り、それどころか七万回へと到達しそうだった。
あれから釣りには行っていない。ユーチューブで自分のチャンネルもチェックしてなくて、土日はダラダラと過ごしていた。
ふと、母ちゃんの事を思い出した。そう言えば此処へ移住した事も携帯電話の番号を変えた事も知らせていなかったと、今更ながら気付いて久しぶりに実家へ電話をしてみる。
「はい、須磨です」
うちの母ちゃんは電話に出ると、もしもしではなく、はいと言ってしまう癖がある。
「あ、俺、母ちゃん元気?」
「麟太郎ね、あんた今何処に居るとか?電話も繋がらんし、手紙は返ってくるし」
「ごめんごめん。今N県のS島たい」
「N県て、あんた、なんでまたそがんとこに?」
うちの実家は長崎で、物心ついた時から、婆ちゃんと母ちゃんと三人で暮らしていた。父親は既に居なくて、特にその事を深く考える事もなく、それがうちでは普通の事だった。
「バンドはどがんした?東京でバンドばやって一花咲かせる言うて出て行ったとやっか?」
「バンド?バンドはもうやりよらんよ」
バンドをやっていたのは東京へ出て二年くらいまでで、それからは色々な事を勘違いしながらやっていたなんて母ちゃんにはいちいち言っていない。
「なんでS島なんかに居るとか?まさかあの人と何かあるとか?」
「あの人って?」
それから母ちゃんは歯切れが悪くなったものの、父親の事を少しずつ話してくれた。
若い時分に母ちゃんは東京に出て働いていたらしく、その時にその人と出会って結婚した事。何があったかまでは話さなかったけど、俺が生まれて直ぐに離婚し、実家の長崎へ帰ったという。
「へぇ、そがん事があったとね。俺に父ちゃんが居るのな」
そこらで、これ以上はもう聞かない方がいいと思い、また連絡するからと電話を切った。この島の事を話したら父親の存在が急に出て来て驚いた。
住んでいる古い一軒家は、移住者の為のチャレンジ住宅というやつで、空き家を行政がリフォームし、格安の家賃で一年間住む事が出来る。ここの家賃は数千円で、都内なら風呂トイレ無しの四畳半も借りられない。
玄関の呼びベルが鳴ったのは、仕事から帰ってきて、ボケっとテレビを見ている時だった。もう陽は完全に落ちていて夜が始まっていた。
「はい、どなた?」
「俺だよ、スー太郎」
タローの声がした。玄関の引戸を開けると、タローが立っていた。いつもの自転車は見当たらない。
「どうしたの?ま、入って」
タローは玄関まで入って、そこで話し始めた。
「スー太郎、最近釣りやらないね。ユーチューブの更新も止まっているし、どうかした?」
少し言葉に詰まった。こんな事を小学生に話してもニュアンスは伝わらないだろうと高を括ったけど、折角来てくれたんだから本音を話してみようと思った。
「タローはさ、将来何になりたい?そういうの何かある?俺はね、バンドで成功したかった。それで長崎から東京へ出て来たんだよ。でも駄目だった。才能もコネクションも金も無かった。それが分かると、こんな筈はないつって、やっぱ小さい頃から描いていた絵だろうとか、役者が向いているんだわとか、俺、写真のセンスあるよなとか次々に手を出しては失敗を繰り返し、もう三十三歳になってしまったよ」
タローが黙って此方を見ている。
「そんな俺がこの島に来て、釣りのユーチューブで成功なんかする筈なんか無いのに、もしかしたらって其処にすがって馬鹿みたいだ。なんかね、限界が見えてしまって」
「限界って誰が決めるの?」
「誰がって・・・」
「スー太郎は何か悪い事でもしたの?」
なにも悪い事なんか、と思ったところで母ちゃんを思い出した。女手ひとつで育ててくれた母ちゃん。婆ちゃんは俺が高一の秋に亡くなってしまって、俺が高校を卒業して家を出ると一人で暮らしている。三十三にもなって心配ばかりかけていて、それはきっと悪い事なのだろう。
「お母さんは元気?」
突然、タローは俺の目を見てそう言った。そして玄関を出て行った。
「ちょっとタロー、待てって」
慌てて草履を突っ掛け、あとを追う。前の通りの大分向こうに、歩くタローの背中が見える。街灯が照らす範囲をタローが越えると、その背中も消えた。
走ってタローを追いかける。普段は車で移動しているものだから、ここで暮らして八ヶ月になるのに道の景色が新鮮で、まるで知らない土地へ足を踏み入れたみたいだ。
タローが右へ曲がったのが見えて、急いでそっちへ行くと、タローの姿は無かった。
今、本当に今、ここを曲がった筈。道は一本道で脇に朽ち果てた小屋があった。まさかこんな所に人が住める訳もないけど、とりあえず近付いてみる。
それは小屋ではなく、大分前に空き家へと成ったであろうボロボロの日本家屋だった。かろうじて読める表札には、読み方が分からない名字が書いてあった。
こんな所にタローが居る筈もなく、家路についた。歩きながら、なんでタローは俺の家を知っていたのか不思議だった。
妙な事に、来た道を戻っただけなのに二時間程もかかってようやく自宅へと辿り着いた。
翌日は日曜日で、何となく自分のユーチューブチャンネルを開いてみた。あれから全然見ていなかったし、ユーチューブへの思い入れも薄れてきていた。
数多くのコメントが入っていた。当たり障りの無い無難なものや自分のユーチューブ動画へ誘うものを目の当たりにすると本当に嫌気がさし、益々ユーチューブから離れたくなる。再生回数が多くなるとこういうコメントが増えるという事は頭では分かっているのに、矢張嫌だなと思う。
ところがあたたかい内容のコメントなんかもあって、それは単純に嬉しかった。そんなのに混じって不思議なものも少なくなかった。
この音は何?、何の音?なんか惹かれる音、という音に関するものと、光がある、わぁ光だ、綺麗な光、という光に関するものだった。
自分の動画を見返してみても、そんな音や光なんて確認出来なかった。コメントが入っているのは数本の動画だけで、再生回数が二桁のものには、そもそもコメントなんて入っていない。
夕方、母ちゃんから電話があった。
「どがんしようかと思ったとやけど・・・」
いつもと違う母ちゃんの声のトーンが、何か重要な事を言おうとしているのじゃないかと思わせる。
「あんたが今居るS島な、そこはあの人、あんたの父親が生まれ育ったとこたい。だけん麟太郎がS島に居るって聞いて、なんやろ、ちょっと胸騒ぎがして」
「母ちゃんて、ここに来た事あると?」
「一回だけやけど、行った。あの人の家は、いや今はもう変わっとるやろうけど、何もない道の脇に建つ立派な家やったよ」
それは、昨夜行ったあの家屋の事ではないかと変な汗が出る。いや、そんな事は無いやろ。無い無い無い。
「いや、アレよ。その、父ちゃんって人とは関係ないけん。心配せんで良かよ」
「あの人が今、何処に居るかも分からんし、生きとるのかどうかも知らんけど、あんたがS島に居るって言うから」
少し安心したのか、掛かって来た時よりかは幾分声が明るくなったところで話は終わった。
もう、いつものヤツで、またひとつの希望が終わりかけていた。そういうの、自分が一番分かっている。
今までは東京に居て、ああでもないこうでもないと、ある周期でそうなっていたけど、移住してまですがってしまったユーチューバーへの活路は、またもや中途半端に終わろうとしている。
海へ行けばタローに会えるかなと、そのくらいの気持ちで釣りへ出掛けた。撮影機材の一切は置いてきた。
前々から行ってみたかった地磯が続く場所。初めて来るこんな所にタローが居る訳がない。
足場の悪い岩を進むと、海にせせり出た大きな岩場があった。正に理想の釣り場だった。水深もあり、岩があって、海藻も生えている。アオリイカを釣るにはもってこいの所だ。
エギングロッドに餌木を付けただけ、道糸はナイロンの三号。早速投げると餌木は思ったほど飛ばないけど、なかなか良いポイントへ着水した。餌木が沈むのを待つ。着底したら思い切り竿をしゃくる。ビュンビュンビュンと三回。それから暫く放置して、今度は着底する前に再度しゃくりを入れる。で、また放置した時にドラグが鳴った。少しだけドラグを絞め、そのままリールを巻いていると、岩場の反対側でもドラグが出た音がする。
誰も居ないと思っていたけど、アオリイカのシーズンに入っているのだから先に人が居て釣りをしていても不思議ではない。
水面で墨を吐かせてから抜くと、小ぶりなイカが釣れた。
「スー太郎、イカ釣ったった!」
つい癖で口をついてしまった。もう、それも言わなくて良いんだよと、自分の中で声がする。
釣れたのは初めの一杯だけで、そこから何度キャストしても、餌木を変えようと、違う攻め方を試してみても全く釣れなくなった。
岩場の反対側では次々とドラグが鳴っている。ちょっと様子見に行ってみると、そこで竿を振っていたのはタローだった。
そして全てを見ていたかのように、「スー太郎は一杯だけ?」と涼しい顔で言ってくる。タローの足元はイカ墨だらけで、この子は一体何杯釣り上げたのだろう。
「タローさ、お前どうしてそんなに釣りが上手いの?」
タローは聞こえているのかいないのか、そんな事はお構い無しにまたアオリイカを上げる。
「スー太郎、そろそろ潮止まりだから仕舞うよ」
タローは手際よく釣り道具を片付けて地磯を歩き始めた。
「じゃぁねスー太郎、元気でね」
「ちょっと、待てって一緒に帰ろうぜ」
慌てて自分の釣っていた場所へ戻り、竿やなんかを抱えてタローを追ったけど、タローはもう見えなくなっていた。
「やっぱりこんな田舎の島じゃ嫌だったんだな」
それ見たことかと言わんばかりに、退職の事を告げると角谷さんはそう言った。嫌味っぽい口調に気分が悪いけど一応、「お世話になりました」と頭を下げた。
社長なんかは慣れた感じで、「次は頑張れよ」と他人事のようだった。会社をあとにする時になって角谷さんが寄って来た。最後にまた嫌味でも言うのかと思っていると、一冊の本を手渡してくれた。
「じゃ、元気でな。なんかの機会があったらまたな」
そう言って、会社の中へ戻って行った。
羽田発長崎行きの機内で手にしたのは、角谷さんから貰った本で、表紙には、〖東京湾周辺の釣りガイド〗と書かれていた。
あんな口調で、あんな事を言う人だったけど、仕事の時はちゃんと教えて貰っていたし、悪い人じゃなかったなと本を見つめた。角谷さんは俺が東京へ帰ると思っている。
長崎に帰省するのは何年ぶりだろうと考えてみたけど、直ぐには思い出せなかった。
懐かしい坂を歩く。いつの間にか分譲地となっているところは、大きな池のある空き地だったところで、子どもの時分よく遊んだところだ。もう、あの駄菓子屋も無いし、蟹なんかを取っていた川の上はコンクリート製のもので覆われている。かと思えば、木登りをして降りるときに、足が変なところに引っ掛かり、木の幹を滑り落ちてしまった事があり、その滑り落ちたところは運悪く木の幹が二股に別れている箇所で、そこに太股が挟まり大泣きをして、近所ではちょっとした騒ぎとなった。その木は未だに煌々として、滑りやすい幹を二股に分け堂々と立っている。
あの時は、たしかプロパンガスの交換に来ていたおじさんが、油かなんかを木と太股に垂らして引き上げてくれたんだった。
そんな事を思いながら歩いていくと、実家が見えて来た。
「麟太郎君かいな?」
木原のおばちゃんが話しかけてきた。
「こんちは。おばちゃん元気ね?」
「あらぁ立派になって、お帰り。いつまで居ると?今、東京やろ?」
木原のおばちゃんは随分と歳をとっていて、おばちゃんというより、お婆さんになっていた。
「帰ってきたとよ。もうずっと居るよ」
「あら、そら、母さん喜びやるやろ」
木原のおばちゃんと話をしていると、家から母ちゃんが出て来た。玄関脇の表札には須磨という字の下に、絹恵、美代子、麟太郎と、まだ婆ちゃんの名前も残っている。
「ただいま」
「おかえり、そんなら入ってゆっくりしなっせ」
数日後、母ちゃん宛に手紙が届いた。差出人は行川栞となっている。
「母ちゃん手紙の来たばい」
「あら珍しか、誰からね?」
「何て読むとか?いくかわ?いきがわ?栞っていう人から」
台所から出て来た母ちゃんの動きが止まった。
「どがんしたと?」
母ちゃんは何かを感じているらしかった。
「こん人だれね?」
「あの人の妹さん・・・」
「あの人って、俺の父ちゃん?」
ちょっと待てよ、行川って、S島のうちの近所にあったボロボロの家の表札がたしかそうだった筈。妙な点と点が繋がり始めたような変な感覚がした。
手紙を読んだ母ちゃんは目を瞑った。
「麟太郎、あんな、あんたの父さんな、亡くならしたって」
母ちゃんにそう言われても、父ちゃんの事はピンと来なかった。ただ、その行川っていう文字が気になっていた。
「これは、なめかわって読むとよ」
母ちゃんへ何て声を掛けていいのか分からず、二人とも黙り込んだ。暫くそうしていたけど、すっと顔を上げた母ちゃんが聞いてきた。
「あんた、S島で何をやりよったの?」
「何をて、土建業でアルバイトしとった。で、休みの日は釣りして」
と、そこまで言ったけどユーチューブの事は言わなかった。
「なんでまたS島なんかに?」
「いやもう、東京が合わんなって、そんでこう田舎暮らしっちゅうか離島生活なんかに逃げたのやろね。結局は」
「友達とか居ってん?」
「いやぁ、会社では話す人居ったけど、それも仕事の事やら休み時間の馬鹿話やらだけで、あとは・・・」
あ!となって、タローの事を思い出した。
「ひとりね、まぁ小学生なんやけど、釣り仲間みたいなもんかな?タローって子とよく一緒だったばい」
「え?太郎?」
「そう、タロー」
「小学生?何太郎ね?」
「苗字は知らんとよ。釣りが上手くて、釣り場に行くと自転車で来るとたい」
それから母ちゃんは小さな声で、「太郎、小学生、釣り、自転車」と繰り返していた。
ようやく長崎で仕事が決まった。これからは何者に成ろうなんて思わず、働いて母ちゃんと暮らそう。休みには釣りにでも出掛けよう。
来週から始まる仕事を前に、ちょっと釣りにでもと近くの漁港にやって来た。サビキで鯵でも釣って母ちゃんに食わしてやろう。
オキアミをカゴに入れてサビキ仕掛けを海へ投げると、着水して直ぐにアタリがあり浮きが沈む。
「よし!久しぶりにスー太郎が釣ったるぞ」
なかなか型の良い鯵が良く引く。
「S島仕込みのスー太郎を舐めんなよ。うぉりゃ」
二十五センチくらいの鯵だ。
「イエイ!スー太郎、鯵を釣ったった!なんつって」
前、自分がやっていた事が面白おかしくて笑いが込み上げる。阿呆みたいな事をやっていたものだ。タローもまた竿を振っているだろうなぁ。
そう言えば、最後にアオリイカを釣りに行った帰り、タローは変な言葉言って別れた。まるでこれが最後のような、暫く会えなくなる事を知っていたかのような。
「行川太郎っちゅう名前やったとよ」
良型の鯵を六匹持って帰ってきた。台所でクーラーボックスを開けて、母ちゃんに見せていたら突然そう言ってきた。
「行川太郎・・・」
「あんたの父親の名前」
この間、行川栞って人から手紙が届いた時の変な流れがまた湧いてきた。
「行川タローか、父さんはいつ亡くなったって書いてあった?」
母ちゃんが改めて手紙を開く。母ちゃんの口から出た日にちは、タローと最後に釣りをしたあの日と重なった。
「ちょい待て、待てよ、待て待て、タローは小学生やし。どこで亡くなりやったと?」
「大阪の建設現場の落下事故て書いてある」
急にタローに会いたくなった。タローを一目見て、確認というか安心というか、この変な気持ちを落ち着かせたい。そう思っても、長崎からS島まで相当離れていて簡単には行けない。
「そうだ、ユーチューブだ」
あの動画にタローが少しだけど映っている。直ぐにパソコンを立ち上げ、自分のチャンネルへ。
「えっと、タローが映り込んでいるのはこの辺だったよな」
一本目を確認すると、確かに写り込んでいたのにタローの姿も声も無かった。
「噓だろ?映ってた筈」
次の動画にも、最後の動画にもタローは居なかった。
タローが映っていた場面には美しい光があって、タローの声は無く、代わりに聞いたこともないような優しい音に溢れていた。
〈了〉




