09.銀夜と流香
結局、流香は席を外すことになった。
とはいえ、他の里を訪れ、しかも学院長の私的空間で一人歩き回るなどという無礼はできない。
もっとも――
火夜の私室周辺は、そもそも側近以外の立ち入りが許されない区域。
そこに自分が招かれているという事実がある以上、多少の移動が咎められることはない。
(現に火夜も、そう言っていたのだから。)
学院の生徒と鉢合わせることもまずない。
ならばと、少しは歩き回ってみたい気もする。
滅多にない他里訪問なのだ。好奇心が疼くのも当然だった。
――けれど、何より避けたいのは、龍麗様に迷惑をかけること。
何か問題を起こすくらいなら、部屋でじっとしている方がよほどましだ。
通された部屋で、一人、用意されたお茶を啜って静かに過ごす――
今の自分に許された“行動”は、それだけだった。
時が過ぎ――
訪問から一刻半(およそ三時間)。
昼餉の時刻もとうに過ぎたころ、部屋の外から声がした。
入室の許可を求める声。
「どうぞ」と返すと、戸を開けて入ってきたのは――
銀の長髪を持つ、女だった。
その所作で、すぐに分かった。
彼女は、下女ではない。
立ち居振る舞いがどこかぎこちないのではなく――
むしろ、あまりに品がありすぎる。
この学院の者なのだろう。
だが、それだけでは説明がつかない何かが、彼女を際立たせていた。
「昼の御膳を、お持ちした。」
その所作とは裏腹に、口調はややぶっきらぼうだった。
ちらりと視線を向けながら、流香は内心で思った。
(もう少し早く持ってきていただきたいものだわ)
……とはいえ、すでに空腹も極まっている。
ひと言も返さず、静かに箸を手に取った。
「感謝の言葉もないとは。
青龍の里の者は、やはり水のごとく冷たいのだな。」
汁物に口をつけていた流香は、その一言にわずかに間を置いてから顔を上げた。
しかし、女は流れるように言葉を重ねた。
「そもそも、私的な訪問とはいえ、長居しすぎではないか?
火夜様が寛容でいらっしゃるからといって、あまりに図々しい。
火夜様はもちろんのこと、我々も忙しいのだ。
まさか昼餉の時刻まで居座り、挙句に馳走になるとは――」
言葉の勢いは激しく、もはや皮肉というより敵意に近い。
(せっかくの郷土料理を前に、皮肉を聞かされる羽目になるとは)
珍しい料理を前にしても食欲がそがれる思いに、流香の苛立ちは募る。
「――あいにく私、下女にいちいち言葉をかける趣味はございませんの。
お仕事の邪魔になってしまいますから。
それとも朱雀の里のお方は、感謝の言葉でも恵まれないと仕事に精が出ないのかしら?
……かえって配慮が足りなかったようですわね」
その皮肉に、女――銀夜はわずかに目を見開いた。
反論されることに慣れていない。
自分でもそう自覚していた。
そもそも、自分に意見できる者などほとんどいない。
立場的にも、性格的にも、相手が萎縮することを分かっていた。
……ましてや、初対面の相手に――
これほど鋭い言葉で反論されるなど、初めての経験だった。
その言葉の刃は、自分の何倍も鋭く、よく研ぎ澄まされていた。
「……長居をしてしまったことについては、確かに申し訳ありません。
ですが、それは火夜様が承諾されたことでしょう?
引き止めていらっしゃるのも火夜様かもしれませんが――ちゃんと、ご確認なさっていて?」
「なっ……!」
「昼餉もありがたく頂戴しますが、お願いした覚えはございませんの。
――以上で、よろしいかしら?
私には、せっかくの昼餉を温かいうちに頂くという、大切な用がございますの」
――静かに、けれど一分の隙もなく言い放たれた一言。
その場の空気が、ひやりと張りつめた。
銀夜の唇が、何かを言いかけて止まる。
その姿に、流香は満足げに汁物へと視線を戻した。
言葉で誰かを圧倒したという自覚があった。
それが、誰であろうと。
そう、たとえ――
火夜の最側近として、銀夜と名を知られる者であろうとも。