07.真白
「お前の筆に、意味を込めよ。……心して励め、少年。」
その言葉は、少年の中で深く響き、いまもなお木霊し続けていた。
あれから、すでに二月が経った。
日々の稽古に励み、書術学院内での段位も着実に上がっている。
それでも、火夜の言葉の重みが薄れることはなかった。
「……ろ……ましろ……真白!」
それが自分の名前だと気づくのに、少し時間がかかった。
七夕祭の夜、気を失い火夜に抱かれていた少年には、あの後「真白」という名が与えられた。
目を覚ましたとき、自分の名前はおろか、家族や住んでいた場所、あらゆる記憶がすっぽり抜け落ちていたのだ。
言葉や理解に不自由はなく、常識もある程度は通じていたが、それでも世界に対する実感がどこか希薄だった。
唯一、かすかに残っていたのは――「姉がいた」こと。
それだけが、真白を現実に繋ぎとめていた。
書術学院の学院生となった今、真白は書術の修練に励みながら、失った過去と、姉の行方を追っていた。
書術学院は、ただの教育機関ではない。
書術という特別な術を扱うこの国の中枢機関であり、数多く、機密情報も集まる場所。
火夜に連れられてここに来られたことは、真白にとってまさに幸運だった。
名を授かったとき、自分の中にあった空虚と「真白」という響きが、不思議と合致している気がした。
そのとき火夜はこう言った。
「これから、何者にもなれるな」
“真白”という名に込められた意味を、彼は即座に汲み取ってくれていた。
名も過去も空っぽだった自分に、前を向けというように。
真白は思う。
――自分は、恵まれている。
環境にも、人にも。
だからこそ。
「……だから、僕は、頑張らなくちゃいけない」
※※※※
「ここ、座ってもいいかな?」
その名を、真白よりも馴れた声で呼び慣れている少女が、向かいの席に現れた。
昼を過ぎたばかりの食堂は、人の出入りが多い時間帯だった。
満席に近い中、茶々が真白の向かいに腰を下ろそうとした――その瞬間。
ざわ、と人の波が引くように、周囲の席が空いていく。
この光景には、いまだに慣れない。
茶々もどこか気まずそうに、うつむいた。
ついこの前、血に染まった地面に横たわっていた茶々とは思えないほど、今の彼女は元気だった。
あれからわずか三日後、いつものあたたかい笑顔で、真白の前に現れたのだ。
その笑顔にどこか少し懐かしさを覚える。
はっきりとは思い出せない――けれど、たしかに覚えている自分の感情。
茶々ではない。あれは姉の笑顔だ。
顔も名前も思い出せないのに、その微笑みに感じた嬉しさだけは、心に残っていた。
ときどき、茶々の姿に、姉の面影が重なることがある。
(でも、違う。姉は……もっと……。)
それ以上の何かが、記憶の向こうにある気がした。
茶々が、単なる「指導係」でないことは、すぐに分かった。
年齢は十歳前後、身長も真白と変わらない。
だが、年長の学院生たちですら、彼女には敬意をもって接している。
その一方で、茶々本人はその扱いに慣れておらず、少しおどおどしている。
その様子に、銀夜からの注意が飛ぶのは日常のことだった。
「もっと堂々としろ」「相応の態度をとれ」
はっきりとした口調で指摘する銀夜に、茶々が距離を置こうとする気持ちは分かる。
銀夜は、背も高く、言動も態度も堂々としている……というより、時に威圧的ですらある。
だが、彼女に接する者たちからは、へりくだりではなく、畏敬と尊敬、そして憧れのようなものが感じられる。
それは、彼女が単に「偉い人」というだけではない証だった。
「空いてるか」
声がして、茶々の隣にすっと誰かが腰を下ろした。返事も待たずに。
意外すぎるその人物に、真白も茶々も、食べかけていたうどんを盛大に咳き込んだ。
「ど、どうしたんですか!?」
茶々が慌てて尋ねたその言葉には、「いつも火夜様と食べているじゃないですか」が込められていた。
銀夜はそっけなく、「来客中だ」とだけ答える。
……ほんの少し、拗ねているようにも見える。