06.天照の大御神と筆
「う……」
小さなうめき声が、茶々の唇から漏れる。
仰向けになったまま、火夜の羽織をかけられたその唇に、うっすらと桃色が戻っていた。
「なにが……」
状況を把握しようと、うっすらと目を開けた茶々に、
「大丈夫だから。今は、休め」
銀夜が柔らかく声をかける。
その声に安心したように、茶々は再び瞼を閉じた。
まだ顔色は青白いものの、わずかに回復の兆しが見えたことで、三人の胸にはほっとした空気が流れる。
「──さて」
茶々の容体を確認した火夜が、静かに立ち上がる。
「書術とは、いかなるものか。……わかったか」
低く、そして確かな声音で、火夜は問うた。
見下ろすその瞳と視線が、少年に突き刺さる。
少年の眼には、火夜の姿がまるで“天照大御神”のように映っていた。
空はいつの間にか白みはじめ、東の山々から覗く朝焼けが、ちょうど火夜の背を照らしている。
逆光に包まれたその姿は、神々しさを伴って、少年の胸に焼きついた。
“天照大御神”といっても、それは本で読んだだけの異国の神。
だが、少年は思った。
――きっと、神とはこういう姿をしているのだ。
それほどまでに、目の前の存在は美しく、畏れ多かった。
「お前の筆に、意味を込めよ。……心して励め、少年。」
火夜の紅の瞳が、少年を真っ直ぐに射抜く。
その瞳は、美しさの中に、血のような怖ろしさを秘めていた。
それは、決して触れてはならない神性。
ただ立ち尽くすしかできなかった。
そのとき、傍らで、一本の筆が転がった。
墨で汚れ、床に落ち、動かぬその筆。
それはまるで今の少年の姿を、写しとったかのようだった。
転がった筆の先に乾ききった墨がこびりついている。
まるで何も成せなかった自分のように。
けれどもその筆は、書術を支える始まりでもある。
ここから、すべてが始まる。