53.人である証
「お待たせを致しました。」
青龍による歓迎の儀が終わり、その場に一人残されていた火夜は、ふと神無月の日のことを思い出していた。
その背に、青龍の下女の声がかかる。
案内されるまま、奥へ。
さらに上段へ。
そして――御簾の奥へと導かれた、その瞬間。
火夜は、思わず息をのんだ。
「……お主っ、力を使いおったな……!」
そこにいたのは、声を荒げずにはいられなかったほどに変わり果てた、龍麗の姿だった。
水を張った桶に横たわる身体は、すでに鱗に覆われている。
脚は魚の尾のように一つとなり、薄いヒレが静かに揺れていた。
耳は以前の龍化の時よりも鋭く尖り、
青いビー玉のようだった瞳は、瞳孔が開ききり、黄金色へと変じている。
もはや、水から出て座っていられる状態ではない。
――異常なまでに早かった歓迎の儀。
その理由は、これだったのだ。
「……わたくしに残された時間は、あとどのくらいでしょうか……。」
流牙に支えられながら、龍麗は苦しげに身を起こす。
その拍子に、長く美しかった髪が、はらりと抜け落ちた。
「わからぬ。
このような状態になった者を、我は見たことがない。
いや……この状態でなお、人の姿を保っていられること自体が、異常だ。」
「貴様っ!」
火夜の返答に、怒りを露わにしたのは流牙だった。
無理もない。
願いを受け入れているとはいえ、火夜は青龍の里にとって、いわば“死神”。
敵意を向けられるのは当然だった。
ましてや――主君である龍麗の身に、これほどの変化が起きているのだ。
「龍麗様は、我々のために、里のために、多くのものを遺そうと力をお使いになったのだ。
それを……!」
「それで、龍化を早めたというわけか。」
火夜は、責めるような眼で龍麗を見据える。
「……あの日、火夜が最期を約束してくれたから、わたくしは死を受け入れることができました。
ですが……やはり愛する我が一族との別れは、容易ではありませんでした。
だから、残された時間をこの里のために使えるのなら、受け入れられると思ったのです。
それが、たとえ……その時を早めることになったとしても。」
「……わがままだな。」
「はい。特に火夜には、迷惑をおかけいたします。
わたくし、最期の時を、楽しみにしておりますよ。」
龍麗のその笑みは、ひどく柔らかかった。
流牙と、傍に控える下女は、声を殺して涙を堪えている。
火夜は、こんな時にまで周囲を気遣う彼女の優しさに、言葉を失った。
――きっと彼女の心は、かつての瞳のように、澄んだ青のままなのだろう。
これまで幾度となく経験してきた青龍の巫女との別れ。
その経験から、火夜は二つのことを知っている。
祝福の力を使えば使うほど、龍化は早まること。
そして龍化の速度は、精神力によって左右されるということ。
死を受け入れた者は、途端に早まり、龍化と戦う覚悟を持ち、抗う者は遅い。
龍麗は、そのどちらでもなかった。
死を受け入れながらも覚悟を持ち、祝福の力を使い、多くのものを遺そうとした。
それこそが、彼女の強い精神力の正体。
この姿になってなお、人としての意識を保っている理由だった。
「声を荒げた火夜……はじめて見ました。」
いたずらをして叱られた童子のように、龍麗はくすりと笑う。
その言葉に、火夜ははじめて気づいた。
――我にも、まだ怒りという感情があったのか。
声を震わせ、すがるように問いかける。
「我もまだ……人なのだろうか……。」
「ええ、もちろん。
……わたくしも、でしょうか。」
「もちろんだ。」
次の瞬間、火夜は龍麗を抱き寄せていた。
あの日とは違う。
そこには、感情にふたをする火夜はいない。
熱を帯びた抱擁の中で、二人は、確かに“人”として、そこにいた。
火夜は、それまで自分ではもう、人ではないと思っていた。
身体はもちろんのこと、心――感情という領域にさえ、固く蓋をしてきた。
ならば“人”とは、いったい何なのか。
それを考えること自体が、火夜にとってはあまりにも恐ろしかった。
考えれば考えるほど、自分自身を否定することになるからだ。
人ではないことを受け入れ、それで強くなったのだと、信じていた。
――違った。
龍麗に怒りという感情を指摘され、火夜ははじめて気づいた。
無意識のうちに、なお蓋をし続けている自分の存在に。
もしかしたら、最初から気づかないふりをしていたのかもしれない。
身体が人でなければ、自分は人ではない。
そう思い込むことで、心の感情にも蓋をしなければならなかった。
だが、目の前の龍麗を見て、はっきりと理解した。
心に思いやりがあり、優しさがあるならば、それで人でないはずがないのだと。
人で在るには、身体より心の方が重要なのだ。
大親友の彼女が、怒りという感情を火夜に気づかせ、そして、人だと認めてくれている。
それが、なによりも――喜ばしかった。
だが同時に、龍麗が気づかせたその怒りをきっかけに、
これまで押し殺してきたものが、堰を切ったように溢れ出した。
この定めへの怒りも、避けられぬ別れの哀しみも、
そして――楽しかった彼女との日々さえも。
どれが先かわからぬまま、絡まり合い、胸いっぱいに駆け巡る。
抑え込んできたはずの感情が、今さらになって牙を剥き、
火夜の内側を、容赦なく満たしていった。
人ではないと信じることで、かろうじて保ってきた均衡が、
たった一つの怒りによって、音を立てて崩れていく。
それは、忘れたふりをしていた弱さまでをも引きずり出し、
逃げ場のない場所へと、火夜を立たせる崩壊だった。




